2012/11/29

制限時間60秒!正解は何番?センター風。。。

◆次の本文をよく読んで、あとの問いに答えよ。

イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。A 悪霊はイエスを知っていたからである。(新共同訳 1.34)

問 傍線部A「悪霊はイエスを知っていた」とあるが、それはなぜか。その説明として最も適当なものを、次の1~5のうちから一つ選べ。

1 悪霊は、病人をいやすイエスをすでに目撃していたから。
2 悪霊は、イエスのうわさを天の国で耳にしていたから。
3 悪霊は、イエスのうわさを地の民から収集していたから。
4 神が、悪霊にも善悪を弁える知恵を授けておられたから。
5 他人のようだが、もとをただせば血を分けた兄弟だから。

あなたの正解番号を投票してから「正解」を参照しましょう(見えない番号はスクロールバーで)。

2012/11/27

「湖の上を歩く」イエス。。。咽ばで読むべきかは

DAS LAND DER BIBEL
Deutsche Bibelgesellschaft
「湖の上を歩く」(新共同訳小見出し)イエスとは、ご承知のように、マルコ(6.45-52)・マタイ(14.22-33)・ヨハネ(6.16-21)「福音書」に残されている記事のことである。ルカ「福音書」に、この記事はない。

説教者それぞれの「原稿」を十ほど拝読してみたが、失礼ながら、どれもこれもおもしろくない。ピースこそ違え、できあがったパズルの絵は皆おなじであった、という意味でおもしろくないのだ。

ピースが違えば、おのずと、完成した絵柄絵模様は異なるはずであろうに。。。しかし説教者の「説教」は、そうはならないのである。

この「不可思議」にわたしは、西欧精神の舵(かじ)となるべく造形されたギリシア哲学(形而上学)の思惟の産物「使徒信条(the Credo)」からいまだ逃れられないでいる日本人説教者の「哀れ」、というものを強く感じる。

2012/11/25

私家版・ニーチェ箴言散策集 (5)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


80節から84節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2012/11/24

「永遠」って何?何?何? (2)


(以下の記事は、2010.10.07、に書かれたものです)

シモーニュ・ヴェイユ
Simone weil
「わたしたちの内部で、究極性とつらなっている欲求の尖端を現在にあてがってみれば、それは現在をつき破って、永遠にまで達するであろう。」(シモーニュ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳) 
1943年、34歳で夭逝(ようせい)したユダヤ系フランス人女性思想家の断片(アフォリズム)である。

結核の進行にもかかわらず、食物摂取を拒否しての餓死であった、と言う。受洗したという意味での基督教信徒ではない。

「永遠」って何?何?何? (1)

(以下の記事は、2010.03.12、に書かれたものです)

通院しております心療内科からの帰り、すこしだけのつもりで立ち寄りましたとある書店で、岩波書店発行の伝統ある月刊誌『思想』(2010.03号)を見出しました。青年時代たいへんお世話になった月刊誌を懐かしく思い、手にも取り、表紙にある目次を眺めていたとき、わたしの目に「カイロス」というたった四文字のカタカナが飛び込んできました。

2012/11/23

教会は自死(自殺)念慮者を救えるか?

(以下の記事は、2011.04.03、に書かれたものです)

「自死(自殺)」に関する日本のキリスト教全体としての見解には統一性がない。またその研究・対策も、かなり遅れている。説教者たちのなかには、なにがしかの精神疾患が関与した「自殺」は「病死」である、と判断して憚らない方々も、いまだおられるようである。

あるいは、神をどこかで拒否していたからではなかろうか、といった戯言(たわごと)をもっぱらとする説教者もおられる。なんという残酷な神学であろうか。。。

2012/11/22

イエスの「死生観」

(以下の記事は、2010.12.05、に書かれたものです)

1945年12月。。。

Wikimedia Commons
エジプトはナグ・マハディ(Nag Hammadi)村の土中から、一人の村人によって壺が掘り起こされた。その壺の中におさめられていたのは、エジプト語の異形態コプト語で綴られた皮とじの写本冊子(Codex)であった。

鑑定の後それらは、熱心党を前衛とした対ローマ・ユダヤ戦争(66-70)、そしてその後の対ローマ・ユダヤ人反乱(132-135)によって、まったき亡国の民となったキリスト教徒たちの一部集団が、直後、イエスの言動をどのような伝承のなかで守り継ぎ、またどのような思想的混沌のさなかにおいて伝播していたのかを知る上において、たいへん貴重な資料群であることが判明した。

2012/11/20

私家版・ニーチェ箴言散策集 (4)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


75節から79節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

Recent report on my Parkinson's disease

処方箋、症状の報告だけを。

どうぞ。。。

2012/11/19

イエス時代前後の宗派状況概観

(以下の記事は、2010.11.15、に書かれたものです)

ラビのイジドー・エプスタイン(1894-1962)は、次のように記述している。
(紀元七十年のエルサレム第二神殿)破壊の時代に存在していたすべての党派と分派のうちで、古代の資料によれば二十四派あったということであるが、民族の大変動にも生き残った唯一の派は、パリサイ派であった。(『ユダヤ思想の発展と系譜』第十二章 安積鋭二・小泉仰共訳 1975年初版 英文原本初版1959年 *「古代の資料」とは、"Jerusalem Talmud"のこと ( )内アノニマス) 

2012/11/18

私家版・ニーチェ箴言散策集 (3)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


70節から74節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2012/11/17

キリスト教教派教団を斬る!実在論(der Realismus)

(以下の記事は、2011.02.03、に書かれたものです)

中道基夫氏(関西学院大学)は、「日本伝道論に関する書評」(日本基督教学会編『日本の神学』No.46、2007)のなかで、近藤勝彦氏ならびに山口隆康氏の著作に触れ、次のように述べられている。

2012/11/16

私家版・ニーチェ箴言散策集 (2)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


65節から69節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2012/11/15

無花果(イチジク)の木とペトロ・メッセージ

(以下の記事は、2010.12.22、に書かれたものです)

今年は、ニーチェの「マネキン」がよく売れたそうだ。よほど見栄えが良かったのであろう。

なんとも不思議な国、また国民ではある。

元来ニーチェは、ギリシア古典文献学徒であった。
  • Wie? Das 》Wunder《 nur ein Fehler der Interpretation? Ein Mangel an Philologie? ("Jenseits von Gut und Böse"47,RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114.)
「奇跡(das Wunder)」の淵源を、「解釈の誤り(ein Fehler der Interpretation)」または「文献学の欠乏(Ein Mangel an Philologie)」に見出さんとするニーチェに、その片鱗が感じられる。

さて、イエスの一喝で枯れてしまったと記録されている「イチジクの木」であるが。。。

2012/11/14

途切れた系譜(ハヤトロギア)

(以下の記事は、2010.11.07、に書かれたものです)

東京大学哲学会編「哲学雑誌」第121巻第793号(2006年)のタイトルは、「レヴィナス―ヘブライズムとヘレニズム」、となっている。

3編の公募論文、3編の研究論文を除いて、6編のレヴィナス関連の論文が収録されている。

その6編のうちに、「レヴィナスにおける解釈学のヘブライ的契機」、という論文がある。

私家版・ニーチェ箴言散策集 (1)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


まずは63節と64節をどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

『ニーチェ箴言散策集』全125編転載します

2008年2月から同年7月にかけ書き下ろしましたわたくしめの『ニーチェ箴言散策集(全125編)』を、ところどころに挿入することにしました。数が多いため、右サイドバー(→)にページリンクを追加していくよう配慮いたします。わたくしめの危うくもそこはかとなきニーチェ解釈です。

以上予告まで。

2012/11/13

花はなぜ咲くのか?

(以下の記事は、2010.11.16、に書かれたものです)

甲南大学田中修先生の四夜にわたるお話、「秋を彩る植物たち」、には深く感動した(2010.11.08-11)。

(NHKラジオ第1)『ラジオ深夜便』から流れてきた「ナイトエッセー」である。

2012/11/12

「時間性(Zeitlichkeit)」と「鯉の滝登り」

(以下の記事は、2011.02.06、に書かれたものです)

ハイデガー(1889-1976)の主著であり、難解な未完の大著でもある『存在と時間(Sein und Zeit: Being and Time)』の意義は、いくら強調しても過ぎることはない、とわたしは浅学ながら頑なに思ってきた。

蒼古のギリシア哲学以来ドイツ観念論の終焉にいたるまで猛威を振るい、否その後も神学を餌食にして隙あらば復活せんとする無世界的な主観的思惟の犠牲夥しい地上戦に対し、ただ一人、人間「存在」の意味に対する問いだけにみずからを供犠し、大地を掘削する土工さながらに身をやつして、わたしたち人間(存在者)を人間たらしめている「存在」の実存論的地層なる「時間性(Zeitlichkeit)」を探り当て、ついに、無世界的な主観的思惟(概念)の猛攻に予期せぬ方域から奇跡的なとどめを刺した人、その人がハイデガーなのである。

さてこの「時間性(Zeitlichkeit)」であるが・・・

2012/11/11

体験・・・の機序(2)

(以下の記事は、2011.03.06、に書かれたものです)

1945年4月14日に脱稿された西田幾多郎最後の完成論文、「場所的論理と宗教的世界観」二(章)の部分に、次のような一節がある。
  • 「宗教心というのは、多くの人の考えるように、有限と無限とか、相対と絶対とかいう如き過程的関係において生ずるのではなくして、我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、はじめて意識せられるのである。」(岩波文庫版『西田幾多郎哲学論集 3』所収 下線引用者)
この一節は、西田氏御自身が「前方」に座し、わたしたちからの応答を待たれて書かれたものではない。

体験・・・の機序(1)

(以下の記事は、2011.03.05、に書かれたものです)

皆様方よくご存知の、「青年(少年たち)よ、大志を抱け!」、という文句は、米国人ウィリアム・クラーク博士(1826-1886)が札幌を立ち去る時に残されたもの、と言われている。

その博士の影響を受け立ち上げられた「札幌バンド」、いわゆる基督教信徒グループのなかに、内村鑑三(1861-1930)氏がいた。旧五千円札紙幣でおなじみの新渡戸稲造(1862-1933)氏も、そのうちの一人である。

2012/11/10

在エジプトユダヤ人二世フィロン

(以下のの記事は、2011.03.27、に書かれたものです)

Cornerstonepublications.org, inc は、フィロン(ラ:Philon Alexandrinus)、という人物を次のように紹介している。

心の最前線

(以下の記事は、2010.09.30、に書かれたものです)

「前頭葉切り」という言葉を、皆様方はご存知であろうか。

なんとも物騒な表現ではあるが、これで1949年にノーベル医学生理学賞を受賞した神経学者がいた、というのだから驚きである。ポルトガルのモニス氏が、その人らしい(時実利彦『人間であること』)。

前頭葉をバサリと切ったら、チンパンジーがおとなしくなった。こりゃしめた、ということで、不安神経症や躁うつ病患者の前頭葉を切った。効果があった。全世界に波及した。

そこまではよかった・・・

語る・聞く、の出入り口

(以下は、2010.10.10、に書かれた記事です)

「聴従」という言葉を、「(神への)従順」という文脈に転用する説教者が多い。

文句を言うつもりはないのだが、これでは淡水魚を海水に放ったも同然である。百害あって一利なしである。

"Stromata(ストロマタ)"にみるペトロ聖使徒の信仰

(以下の記事は、2011.02.16、に書かれたものです)

イエスの兄弟ヤコブについてもそうだが、プロテスタント教会の教説では、ともすればパウロの陰に隠れがちな使徒ペトロではある。

ご承知のように漁師であったペトロは、兄弟アンデレとともに、使徒となるべくイエスに声をかけられた最初の人物である。ガリラヤ湖畔でのことであった。