2013/12/27

行く年2013年。。。

☆行く年◆◆◆◆◆◆◆◆
◆2013年の命に感謝!
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今年も危うい年ではありましたが、読者の皆様方の声なき励まし、また実際のメッセージ等にもそのつど支えられ、なんとか無事一人、静かな歳末をむかえることができております。

aphorismos / Research Diarys」フロイトを語らせたら半端じゃないりょうさん、多くの励ましメールありがとう。なんとお礼を言ってよいのやら、ほんと恐縮します。何度も助けられました。
Nebuchadnezzar's Dream」作家のクリスさん、ミニ掲示板独占してくれてありがとう。あなたが大成しなくて誰が大成するのでしょう。大きな手術から唯ひとつしかないあなたの身体が無事帰還すること、祈っています。
意見とその表明」思想家のうまさん、プロフィールに圧倒されました。全部読み切れていませんが、今後もよろしくです。
カーネーションの丘」プロの写真家新川芳朗さん、モノクロな写真とても心安らぎます。男っ気のあるしかもどこかいつも色っぽい文章、最高!です。ありがとう。
sunset77」sunset77さん、研究とはなんぞや。。。いつもシャープな観察眼に驚かされています。ありがとう。突然の有馬記念情報、飲んでたコーヒー吹き出しました、マジで(笑)。
パリの断章」paul_ailleursさん、独特の遠近感あるとても美しいお写真、フランスからの貴重な学術情報など、ありがとう。来年も楽しみです。
理解社会学の工房」Shigfried Mayerさん、とても深い考察、いつも興味深く拝読しています。ありがとう。
ある保守主義者」の坂木さん、忘れた頃に届く鋭い社会批評・世界分析、またよろしくです。世のため日本のため、もっと吠えてください。ありがとう。
言葉を手にしていく感覚」Rhさん、話題にも視点にもいつも驚かされます。勉強になりました。ありがとう。それにしても文章がうまいですねぇ、ホント。言葉が水槽の中を泳ぐ金魚たちのように生きています。
自然な腰痛と歯痛」milk1tofu3さん、幻想的でとてもやさしい自然の写真についうっとりです。しかも文章がさりげなくて力みがなく、実にしなやか。勉強になります。大好きな豆腐情報もまたよろしくデス。ありがとう。
週刊「川柳時評」』如月和泉さん、実はこっそり?拝読しております。要領をえた気配りある川柳時評、素人のわたしにはもったいないくらいです。ありがとう。辞世の句を考えています。まだはやいでしょうか?
Erica Nakazawa」Erica Nakazawaさん、病に負けないでください。わたしも負けません。多くの人がそれぞれに闘っていること、忘れないでね。あなたのモデル写真は最高!です。売れないわけがありません。ありがとう。

その他グーグル・プラスワン時代の鎌田さん、いつも応援感謝です。ジョン・コナーさん、ご遠慮なくメールしてください。そして140名ほどの仲間たち、ほんとにありがとう。
あっ、そうそう共有ボタンやコメント機能の設置を取りやめました。
『「福音書」解読 「復活」物語の言語学』(講談社選書メチエ)著者、広島大学総合科学研究科研究員の溝田悟士君、コメントありがとう。ちゃんと保存してます。新たな論稿・著書期待してますよ。あなたが書かなくて誰が書く、です(笑)。

最後に、難病認定されていますパーキンソン病に苦しまれておられる皆様方からの、実に多くのアクセスに感謝いたします。わたしごとき愚かな人間の孤独にも授けられた闘いの知恵と平安。どうかどうか、苦しみのさ中におられる皆様方にも神が分け与えて下さいますように。どうしようもない時、わたしでよければご遠慮なくお便りください。ともにともに、来たるべき門に向かって、ひるむことなく堂々と歩んで行きましょう。

2014年も個性バリバリでわいわいがやがや、そこどけそこどけっとブログりましょう(ブロガーじゃない人、ごめんなさい)。

みなさん、良いお年を。

著者An
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2013/12/25

ダメ押しベンヤミン

Visconti Homo sapiens
Visconti Homo sapiens
posted by (C)enokov
「時代がすっかり変っちゃったんだよなぁ。。。」
「ほんとに。。。」

老夫婦の会話はそこで止んだ。

どうやら、秀でた才能を持つ若い芸術家たちのことを語り合っていたらしい。

実はわたしも気にはなっていたのだ。

「世界的な」という触れ込みで紹介される才(ざえ)ある若き芸術家の出演や公演がつぎつぎと休止され、延期され、あるいは取り止めになってしまったり。。。こうなってくると、テレビをまったく見ないトレンド音痴のわたしだって、やはり気にはなる。

2013/12/24

クリスマスに見る夢

その誕生からしてすでに飽きるほど多くの推理に弄(もてあそ)ばれてきたイエスですが、わたしなどは、一滴の海水もないそんな推理の大海をよくもまあ真顔して泳げるものだなあ、とむしろ同じキリスト者のほうをみてがっかりしてしまうことが正直あります。

聖書は夥しい数の人々の手からなったまことに幼気(いたいけ)なる、しかしあくまでもおとなのメルヘン。このようにぼつぼつ割り切るべき時代がこの国には来ているのかなぁ、と思ったりも最近はします。

それはわたしたちの体験しているそのつどの未踏の世界が、真実を明かすこと語ることは常に正義であるということを、これまでのようには必ずしも気前よく証ししてくれなくなっているからです。メルヘンでないと触れられない象(かたど)れない真実、そんなものがたくさんどこか近くに眠っているような気がします。

奇々怪々な世界をひとしく真顔で説得するのはとても危険です。豊かな果実に恵まれることもないでしょう。

ここはひとつメルヘンの世界にどっぷりと浸れるような奇想天外な情報発信がこの島国津々浦々の教会から、音もなく降りしきる粉雪のように目ざとくも隈(くま)なく、国内外の孤児・孤独者たちの冷たい窓の隙間めがけ届けられるそんな奇跡の風景を、ぼんやりとした夢の灯りの中に透かしてみたいと思います。

せっかくのクリスマスなのですから。ネッ!

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2013/12/23

もいちどベンヤミン断章

柘製作所
富士ブライヤーコンビ万年筆
posted by (C)enokov
たかが文庫本と言ってしまえばそれまでなのだが、ベンヤミンの『パサージュ論』全5巻(岩波現代文庫)を読了するにはそれなりの我慢は必要だ。。。と言うより、過度に構えず流すように読みながら、ウン?と感じたその言葉・言い回し・文脈などの「居所」だけを忘れないよう処置しておき(わたしの場合は5ミリ幅の手づくり付箋)、寄せ集め編集された各「章」又は各「巻」をまずは読み切ることに専念して、読み切った暁には遠慮せず胸ときめかせて?各所に立ち返ってみる、といったインターバルを採用したほうが断然よいとわたしは感じた。

上掲書第3巻に収録されている「N:認識論に関して、進歩の理論」は、ベンヤミンの思索の断片が一糸まとわぬ状態で集中した章である。わたしがN章に挿し込んだ「付箋」の数はちょうど五本。今回は、そのうちの一本につき投稿してみたい。すでに2巻からひとつを、そして1巻からもひとつを投稿した。お時間があれば、そちらのほうも合わせてお読み頂きたい。
それぞれの時代に生ける者は、歴史の正午に自分自身を知る。彼らには過去のために饗宴を整える義務がある。歴史家は、死者を宴卓に招待するために遣わされた者である。[N15, 2]
これですべてである。

2013/12/22

俳句?川柳?

#3776 センチュリー ペン先
(C)enokov
      灰にこそ 灼熱の炭 偲ばるれ

■自己評価■

「灰」と「炭」の違いは「山or火?」があるかないかだけですよね。なのにこんなに時空の懸隔があります。そこがなんともおもしろーーーいっ、とまずはどあつかましく自画自賛。「係り」助詞にフォルテッシモの「こそ(牙音)」をあえて選び、助動詞已然形「るれ」に呼応させた点、これみよがしな意図性を感じますよね。爺くささまるだしです。その結果、助動詞「る」が文法上の意味「自発」性を保持しえなくなり、ただならぬ意味論的反撥に晒されてしまいました。それをだらしなく放置している。なんとデリカシーのない自虐的な作品でしょう!不合格やなぁ。。。

自家撞着(どうちゃく)は人間に不可欠・不可避な存在論的「根拠(条件)」である、というテーゼが、はたして俳句や川柳などの金型に馴染むのだろうか、といったまあどうでもいいことをぼんやりと考えながら、ごろんとベッドに体をあずけて流し込んではみたのですが。。。その後ペンを持ったままどうやらうつらうつらの桃源郷。

仮眠から覚醒するやポロリと一句が。
愛なかば 残し残され さようなら
こんなん出ましたあああ。成熟したおとなってこんな感じなのでしょうかねえ?わたしは恋愛も波瀾万丈でしたので。。。せめてこうしてあげることだけでもできればよかったかなぁとただ悔いるばかりです。ということで今回はめずらしくこれでおひらきですぅ。ドンチキチン!

あと十日。読者の皆様方、体の健康・こころの健康に留意し、少々苦しくったってそれ以上に明るく楽しく過ごしましょう。まだ年内更新しますですヨ。

2013/12/21

ベンヤミン断章

中国万年筆 DUKE(ペン先)
(C)えこすけ
ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)は、『パサージュ論』第2巻[H2, 3](岩波現代文庫版)において次のようなメモ書きを残している。

事物をありありと現前させる真の方法は、それらの事物をわれわれの空間内において(われわれをそれらの空間内においてではなく)思い描くことである。(蒐集家はそうするし、逸話もまたそうする。)そのように思い描かれた事物は、「大いなる諸連関」からのいかなる媒介的な構成も許さない。



2013/12/20

枝葉など放っておけ!


An onymous 「お・も・て・な・し」の島国NIPPON国に生まれ落ちたわたしが、この国を愛さないでいられるわけがない。

しかしである。

そのように愛すれば愛するほど、信じれば信じるほどに、わたしの自我を覚醒させ、思春期にも片時も離れることなく、しかも人格の大元のほとんどを形成してくれたのであろう「日本語」が、あろうことかその後どんどんとわたしから乖離し、ついには呪わしきものとなってわたしを苛んでいた時期があったことも、また事実である。

2013/12/17

読者各位「変更」のお知らせ

いつもありがとうございます。

ブログに関する「変更」をお知らせいたします。

著者の体調を鑑み<g+1>への接続を当月で解除し、順次「初期設定時のブログ」に変更することにいたします。

そのことにより予想される読者様への変化・影響等を、以下に記します。
ブログ「十字架の現象学」自体は、これまで同様更新・維持されます。 
左サイドバーに関して。。。
現在の著者紹介は<g+1>に基づくものですので、接続の解除により一時閲覧不可となりますが、ほどなくアカウント名・内容を変えて表示されます。これまで常用してきましたカタカナ表記のアノニマスあるいは通信等における略称Anなどには、可能な限り配慮いたします。 
右サイドバーに関して。。。
<g+1>でのブログ記事の共有、またはサークルの展開あるいは諸サークルへの参加等、すべてから撤退することになります。ありがたくも<g+1>からブログ「十字架の現象学」にアクセスされて来られた方々におかれましては、特にご注意頂きますよう願います。
その他に変化はないものと予測いたします。

なお検索表示並びに表示順位には、大きな影響がでます。ご了解ください。

万が一不具合がありました場合は、ブログ左サイドバーに設置しております「ミニ掲示板」あるいはメールにて、お知らせ頂きますよう願います。

以上よろしくお願いいたします。

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2013/12/14

昔と今 ヘルダーリン


An onymous 「昔と今(Ehmals und jetzt)」という四行詩は、精神の薄明のうちに生涯を閉じたドイツの詩人ヘルダーリン(1770-1843)二十八歳のときの作品です。

躁から鬱へのそして不安から平安への異質なふたつの心の波形を対句としてしつらえ統合した四行詩。。。と言ってしまえばそれまでなのですが、いま少しその波間に漂っていたいような、そんな気持ちにわたしなどはなったりします。皆様方はいかがでしょうか。

翻訳と原文を併記してみます。
以下のみごとな日本語への翻訳は、岩波文庫版川村二郎氏のものを、また原文はtextlog.de Historische Texte & Wörterbucherのものを、どちらも「引用」に関する著作権法の許す範囲内で使用した。感謝申し上げる。

2013/12/13

ニーチェ箴言散策集・私家版 (14)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


125節から129節までをどうぞ。。。バックナンバーサイドバーから。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/12/11

「間主観性」「他者理解」への大きな誤解


An onymous フッサールの「間主観性」がわたしたちに抱かせそして感じさせた希望と失望を、「間テキスト性」の側から相対化し賦活させようとしたジュリア・クリステヴァ(1941-)の思索の生動性はもはや過去のものである、というわけでは必ずしもないのだ。

80年代になってさらに過熱したポスト構造主義の夥しい数の言説の渦の中に、はかなくも巻き込まれて浮上することができなかっただけのそれはただの不運、としか言いようのない哲学史の悪戯がクリステヴァを選んだ、それだけのような気がわたしにはする。

ブルガリア出身のユダヤ系評論家・哲学者・精神科女医であり、フランスを舞台に活躍してきた彼女の語りはじつにさりげなく示唆的で、まるで人それぞれの好みまで気遣った淡いコロンのような香りが、翻訳からもしてくる。

次は、84年の講演の翌年に出版された講演記録の一部である。クリステヴァ四十四歳。

2013/12/08

日本語ならぬ日本語


An onymous 子供に甲冑を着せたかのような不恰好で大仰(おおぎょう)、かつどこかしらとぼけたような文章を専らとするわたしが言うのもなんだが。。。いくら元は異国の宗教だからとはいっても、日本語で日本語を侮辱するようなテキストがよくもまぁ公的文書(もんじょ)として認められたものだなあ、とあきれた、と言うよりも感心した。

日本基督教団公式サイトの「お知らせ」(2013/12/03)『日本基督教団伝道推進室 「伝道礼拝・伝道集会等への説教者・講師派遣制度」開始のお知らせ』が、それである。

内容自体については、特段わたしから申し上げることはない。またそういった立場でもない。

わたしが気になったのは、その日本語である。

次の箇所が「あきれた/感心した」の発端である。

2013/12/06

自分を愛してますか?


An onymous 思い通りに事が運んだ時、わたしたちは誰よりも先に「みずから」を精一杯の安堵や満悦で祝す。そうはならなかった場合の歯ぎしりの程度や悔恨のぶざまを、百も承知しているからである。その祝祭がおしなべてド派手になるのは、それがためであろう。

わたしたち「人」は、みずからを開花させた光の加減に応じて恩寵を感じ、そしてみずからを飲み干した闇の度合いに応じて呪いを感じてきた。霊長類となってこのかた、この心模様が色褪せた時代など、ただの一度もないはずだ。

しかし仮にも。。。

2013/12/02

道徳教育とは言うが


An onymous 文部科学省による「道徳教育の充実に関する懇談会」の委員名簿を見ていると、絶望的な気分になってくる。

そこに孤児がいない寡婦がいない病人がいない罪人がいない、そしてそもそも道徳を蹂躙する者がいない。つまり「懇談会」とは、塵ひとつ落ちていない無菌の会のことだったのだ。そんなところの床だけを見て人を見ず、お互い何度も何度も同じところを掃除する振りをして何がそんなに楽しいのか、と愚痴りたくもなる。

さてこのところ少しレヴィナス続きであるが、今回の主題にも参照してみたい。

聴講者のノートなどをもとに復元された講義録「証しと倫理」のなかでレヴィナスは、「倫理」の極域で生起する出来事をおもいっきり冷却しこう述べている(1976/04/23 ソルボンヌ大学 『神・死・時間』に収録)。