2012/11/27

「湖の上を歩く」イエス。。。咽ばで読むべきかは

DAS LAND DER BIBEL
Deutsche Bibelgesellschaft
「湖の上を歩く」(新共同訳小見出し)イエスとは、ご承知のように、マルコ(6.45-52)・マタイ(14.22-33)・ヨハネ(6.16-21)「福音書」に残されている記事のことである。ルカ「福音書」に、この記事はない。

説教者それぞれの「原稿」を十ほど拝読してみたが、失礼ながら、どれもこれもおもしろくない。ピースこそ違え、できあがったパズルの絵は皆おなじであった、という意味でおもしろくないのだ。

ピースが違えば、おのずと、完成した絵柄絵模様は異なるはずであろうに。。。しかし説教者の「説教」は、そうはならないのである。

この「不可思議」にわたしは、西欧精神の舵(かじ)となるべく造形されたギリシア哲学(形而上学)の思惟の産物「使徒信条(the Credo)」からいまだ逃れられないでいる日本人説教者の「哀れ」、というものを強く感じる。


親鸞の直弟、唯円が残したとされる『歎異抄(先師の口伝の真信に異なることを歎きたるの抄)』に、次のような箇所がある。
経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこゝろえざる條、もとも不便のことなり。(金子大栄校訂 岩波文庫1935年版 新字体に変更) 
自戒の意味をもこめて、まずは引用しておきたい。


さて、「湖の上を歩く」イエスであるが。。。

この箇所を読むわたしを最初にひきつけたのは、ペトロたちが乗り込んだ舟の「行く先」と「(実際の)着岸先」との記録上の不整合である。

DAS LAND DER BIBEL
Deutsche Bibelgesellschaft
舟の「行く先」についてマルコでは、「向こう岸のベトサイダ」(6.45)、となっている。ベトサイダは、ガリラヤ湖の最北端からわずかばかり東岸に折れ込んだ所に位置する(右地図参照→)。マタイは、「向こう岸」(14.22)、のみの記述。ところがヨハネでは、「向こう岸のカファルナウム」、と記されている。カファルナウムもガリラヤ湖の北方域ではあるが、ご覧のとおり西岸に位置する。

ベトサイダとカファルナウムを湖上直線で結ぶと、約5、6キロ程度。しかもその直線は、地形状ほぼ湖岸と平行になる。したがって湖岸を歩いても、おなじ程度の距離になる。

次に舟の「(実際の)着岸先」であるが、マルコ(6.53)マタイ(14.34)とも、「ゲネサレト」になっている。「ゲネサレト」は、上述したカファルナウムから約5キロほど下ったところにある。

ヨハネ「福音書」には、「ゲネサレト」の記述は見当たらない。しかしとても重要な伝承が、挿入されている。

「その翌日」(6.22)、イエスを慕う群衆が、再びゲネサレト付近に集まって来た。ところが、イエスも弟子たちもいない。そこに、ティベリアスから数そうの子舟が来る。ティベリアスは、ゲネサレト南方、ガリラヤ湖を「く」の字に辿ったところにある。ティベリアスとゲネサレトの距離は、湖上を直線で結ぶと、およそ18キロ程度になる。

この「子舟」に群集は相乗りし、「イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスをみつけ」(6.24-25)た、と記述されている。


以上「福音書」間の照合に見受けられる不整合を、可能な限り確定しておく必要があろう。

「行く先」に関するイエスの指示は、「ベトサイダ」であった。洗礼者ヨハネ斬首の出来事を、マルコ、マタイともに前文脈としている点。そして事実、律法学者・ファリサイ派のみのらず、傀儡政権ヘロデおよびその分派等からの迫害が激化しはじめている点。そのさなか、イエスと弟子たちが、いわばゲリラ的宣教を強いられている点。以上の点から、ガリラヤ湖先端から少し折れ曲がった、しかも見晴らしの良い「ベトサイダ」を暫定的な潜伏地として目指していた、と読むのが自然である。

次に、実際、「ベトサイダ」に着岸したのか、という問いがある。

ここは、二通りの読みしかない。「着岸した」と「着岸しなかった」である。

「着岸した」、とわたしは読んでいる。ただ、ベトサイダではなくカファルナウム近辺への変更、という可能性のほうが強いと思われる。湖上の「逆風」(マルコ、マタイ)「強い風」(ヨハネ)だけが、その根拠ではあるが。。。

またマルコ・マタイとも、湖上のイエスが「夜が明けるころ」登場した、と書き記している。ギリシア語「底本」に忠実なロバート・ヤング(1822-1888)は、この部分を次のように逐語訳している。
about the fourth watch of the night (YLT)
もちろん、ギリシア語「底本」どおりである。

古代ローマの夜の時間は、「日没」から「日の出」までの時間を「四等分」して呼称されていたため、日本語に訳すと、「第四夜時間ころ」、となる。年間の誤差を斟酌すると、イエス登場は、だいたい午前3時から6時までの範囲内であった、ということになろうか。

いずれにしても、ベトサイダまたはカファルナウム近辺への着岸以外は、考えられない。

したがって、マルコ(6.53)・マタイ(14.34)に記録された「ゲネサレト」への着岸というのは、「往路」としての着岸ではなく、ベトサイダまたはカファルナウムからの「復路」としての着岸ということになる。

ベトイダあるいはカファルナウムに明け方避難して弟子と共に仮眠をとったのであろう直後のその日の「出来事」、前日「五千人に食べ物を与え」ていた「出来事」、そしてその二日を跨ぐように配列された「湖の上を歩く」イエスの「出来事」の継起性が不自然であるため、たいへん読みづらくはなっているが、舟を利用した「往路」・「復路」をタイムラインにすれば、不眠不休に近いイエスの緊迫した振る舞いが垣間見えてきて、たいへん興味深い箇所にもなる。もちろん、まったく系譜の異なるいくつかの伝承を繋ぎ合わせ教団教書として取り込んだがための不自然さ、という判断も否定はできない。

なお、第1世紀前後の成立となるヨハネ「福音書」を基準に教説される方々もおられるようであるが、ギリシア人かと見紛うほどにも思惟的で「多弁」なイエスを描くヨハネ「福音書」からの解釈は我田引水に陥りやすい。率直に申し上げてその類(たぐい)は、『旧約聖書』「出エジプト記」に描かれた神の「自称」記事(3.14)への強引な類推を促すための恣意的な教説である。この「自称」記事は、有賀鉄太郎氏(1899-1977)の論文集成となる『キリスト教思想における存在論の問題』(1969年初版)を無視しては本来語れない箇所であることだけを、指摘しておきたい。


以上の点を踏まえ辛うじて、「湖の上を歩く」イエスを叙述したと思しきマルコ・マタイの判断・解釈・了解に遡及する可能性がでてくる。

結論から申し上げるとこの箇所は、いわゆる「奇跡」を証しせんがためのものではない。

マルコ・マタイには、「奇跡である」という自覚は微塵もなかった、とわたしは考えている。おそらく目にしたであろう事実・資料、耳にしたであろう体験・伝承・口伝等いっさいを前にして導かれた両人の「了解」は、圧倒的なイエスの「前人称性(無私性)」(注)、宗教的に翻訳すればメシア性への信憑、のみであったと思われる。
(注)「前(非)人称性」に関する系譜的考察としては、加國尚志『「あいだ」の共有 生命の現象学と臨床哲学』(月刊『現代思想』2010年10月号収録論文)を、さらに特化した論考としては、木村敏『心の病理を考える』第四章(岩波新書版)、『偶然性の精神病理』第五章(岩波現代文庫版)、『分裂病と他者』第三章・六章・七章(ちくま学芸文庫版)などを参照していただきたい。
つまりは、こういうことである。。。


「逆風」に長時間難儀を強いられていたペトロ以下弟子たちは、暗闇の中にいた。その「逆風」に湖岸近くまで舟が押し戻されていようなどとは、つゆも知らなかったのであろう。

DAS LAND DER BIBEL
Deutsche Bibelgesellschaft
「強い風」は、平地をも襲っている。砂塵の舞う暗闇のなか、目的地を目指し湖畔を後追いすることが、はたしてイエスにできたであろうか。

再度、地図をご覧いただきたい。ご覧のように、地形はほぼ直線。膝あるいは腰あたりまでをガリラヤ湖に沈め歩いたほうが、時間はかかるであろうが、砂塵の影響も強風の抵抗も少なく得策である。海抜マイナス200以上、熱帯に近い気候がその行為を可能にする。

衣の裾が湖面にゆらいだ。

舟は波にあおられ、なかなか前進せず、湖岸に押し戻されるばかりである。やがてイエスの視界に、舟が捉えられる。

半身を濡らしながらも、イエスは頓着することなく、黙々と目的地目指し通り過ぎようとする。

湖岸近くまで押し戻されていた舟からも、そのイエスの姿がぼんやりと見えはじめる。見えるほどに白色の衣姿であったのだろう。依然、裾は湖面にゆらいでいる。「幽霊だ」(マルコ6.49 マタイ14.26)と叫び、恐れ、おびえるのは当然であろう。

「わたしだ。恐れることはない。」

暗闇の中、ようやく舟に乗り込んだイエス水浸しの、しかしその精悍な姿を、一度想像されてみられるがよい。


皆様が仮にもイエスの弟子であったとするならば。。。
仮にも皆様の眼前に、
このようなイエスの圧倒的な無私性(前人称性)が晒されたとするならば。。。
暗闇の中、はたして皆様は如何様に振る舞い、如何様に応答されるであろうか。

つゆも咽びたまはで、はたつゆも涙したまはで、はたまたつゆも屈じたまはで、まこといまそかるべきかは。。。

むしろわたしは、日本人キリスト教指導者にこそ、そう問い質したい。

ペトロの薄信を信徒になぞり、大揺れに揺れる「舟」を教会の危機に喩え、「神の子」イエスの守護を熱弁しては、信仰をむなしく煽るが如き護教的かつ訓育的教説に、はたして何の意味があると仰せられるのであろうか。

そこに生きたDaseinイエス「の」信仰はない。そこに同じく生き苦しむDasein「わたし」の救いはない。そこは額縁のなかに描かれた「イエス」のオークション会場であった。

一度は訪れたが二度とは教会に来ぬ夥しい数の未信徒方々の、それが気分である。

(以上の記事は、2010.09.24、に書かれたものの一部を削除訂正したものです)