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2014/04/25

愛(隣人愛)。。。
マザー・テレサ書簡集を凌駕するヴェイユ哲学

[キリスト教] ブログ村キーワード
シモーニュ・ヴェイユ
Simone weil
::翻訳本初版定価800円程度のマザー・テレサ『書簡集―平和をもたらすために』(片柳弘史訳 全199ページ 2003/12)が、今や古書店の世界で一万円から一万五千円で取引されていると聞く。再販されない、となぜかしら確信する事情があっての高騰であろう。

英語ペーパーバック版(416ページ)の"Come Be My Light"は1,400円台で安価。ページ数がかなり違うので、別物かもしれないが、何か匂いますねぇ。。。。

その点についてはまた他日触れることにし、さて、

ユダヤ系フランス人女性哲学者・思想家シモーニュ・ヴェイユ(1909-43)の断章を扱うのは、これで二度目となる(→『「永遠」って何?何?何?(2) 2012.12.24』)。

2014/02/19

世界最高峰のニヒリズム

[キリスト教] ブログ村キーワード
自分の写真::言わずもがな、「使徒信条(The credo)」を憲法として実装したキリスト教のことである。

イエスとは何の関係もない。

いきなりであるが。。。

入行後一年で退職され、東京大学大学院でフーコ研究に没頭。現在明治大学教授として教鞭をとられているとてもチャーミングな若き学者重田園江(おもだ そのえ)氏は、従来とは異なる視座から「ニヒリズム」を次のように定義されている。

2014/01/27

鏡像的「逆説」へのイエスの自覚

[キリスト教] ブログ村キーワード
自分の写真イエスの言説のいかほどかについて、「これは逆説である」と得意げに語る(神/聖書)学者・説教者はじめ一般信徒方々の数は、ひじょうに多い。

そう言うわたしも、なるほどそうか。。。と思わなかったわけではない。

しかし改めて考えてみると、信仰者が信仰者に向かって「コレハ逆説デアル」などと逐一ことわること自体、そもそもどこかおかしくはないかとも感じてしまう。もちろん、放逸無惨極まりなかりし我が人生すべてを棚上げにしたうえで申し上げているのだが。

どこかしらキナ臭い。

2014/01/23

ニーチェ箴言散策集・私家版 (18)

[キリスト教] ブログ村キーワード
ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)

今回137節の読みどころ
「総合的感覚」とは何か。ニーチェ箴言の先見性をデリダ・ハイデガー・木村敏・アガンベンを迂回して説く。教育への著者の怒りまたまた爆発!
アーカイブはカテゴリーからどうぞ。⇒⇒⇒

原文・翻訳からの引用は「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2014/01/09

失敗した「受肉」

自分の写真残念ながらこの島国のプロテスタンティズムの先導者たちは、「インカルチュレーション」という主題についてあまり多くを語らない。

あれよあれよのうちに、今や空恐ろしいほどの数に分裂してしまった教派・教団傘下(さんか)の、またこれ色とりどりに乱舞して止まぬ諸教会の、そのまた会員であられる一般信徒方々が、この言葉の意味はもちろん言葉自体を知らなかったとしても,おかしくもなんともない。教会に通わない受洗者であるわたしが言うのもなんだが、生活の糧のほとんどを信徒の献金に負っていること、そのことを微塵も疑ったことのないちょっとお洒落だが金銭感覚の完全に麻痺した拘禁症候群気味のオーガナイザーたちに、やはりその責任はある。

2014/01/07

舌の裏が痛~っい!

自分の写真アッチャァ、なんたること。

ほっぺたの裏ではなく舌の右側真裏あたりに、直径5ミリほどの白みがかったものが出来ているではないか。

痛い、ってもんじゃない。

それとは知らず押しピンを踏んづけてしまった時のウッ!ッ!ッ!という感じ。そのあと言葉がまったく続かない、そうだ、まさに「あの」時の感じとよく似ている。しかも痛むタイミングがまったく分からないこの不気味さはなんだ?

痛みが走るたびに、ギョエッ!という感じはもちろん、そのつどの痛みに意識がいつも追い抜かれてしまっているような、じつに奇怪な屈辱感さえ感じるのだ。

ああ、なぜゆえ???

2013/12/11

「間主観性」「他者理解」への大きな誤解


An onymous フッサールの「間主観性」がわたしたちに抱かせそして感じさせた希望と失望を、「間テキスト性」の側から相対化し賦活させようとしたジュリア・クリステヴァ(1941-)の思索の生動性はもはや過去のものである、というわけでは必ずしもないのだ。

80年代になってさらに過熱したポスト構造主義の夥しい数の言説の渦の中に、はかなくも巻き込まれて浮上することができなかっただけのそれはただの不運、としか言いようのない哲学史の悪戯がクリステヴァを選んだ、それだけのような気がわたしにはする。

ブルガリア出身のユダヤ系評論家・哲学者・精神科女医であり、フランスを舞台に活躍してきた彼女の語りはじつにさりげなく示唆的で、まるで人それぞれの好みまで気遣った淡いコロンのような香りが、翻訳からもしてくる。

次は、84年の講演の翌年に出版された講演記録の一部である。クリステヴァ四十四歳。

2013/11/06

ザラデルの攻撃性


An onymous
マルレーヌ・ザラデル『ハイデガーとヘブライの遺産 思考されざる債務』(合田正人訳1995年 叢書・ウニベルシタス475)

原本初版は1990年。時の経過をやや背負った学術書であるが、歴史の根拠への猛烈な内省を西欧が求められていた時代であったことを踏まえれば、当時としてはセンセーショナルな出版ではあったろうと推測する。冷戦構造と「壁」の崩壊を契機にグローバル化が加速し、民族・国家間紛争を足場にしたアメリカ新自由主義の攻勢もさらに強化されだしたのもこの頃からであろう。

2013/10/28

イタリア一人旅・妄想版


An onymous 『哲学者の使命と責任』(上村忠男訳 2011年)所収論稿「真理を語る」の2において、ジャンニ・ヴァッティモ(1936-)はこう述べている。

聖書では、永遠の生は客観的な真理を幾何学的に観照するというよりも、基本的には饗宴のようなものであると考えられている。ただひたすら神を永遠に観照しつづけることに、なんの意味があるというのだろう。
「饗宴」とは、いわゆる神の国の一端を聖書的に寓意したものである。

『アウシュビッツの残りのもの―アルシーヴと証人』(邦訳2001年)や『残りのとき パウロ講義』(邦訳2005年)などを著した同じイタリア出身のジョルジョ・アガンベン(1942-)風に表現してみると、こんな風になろうか。
不定未来への「信」を通して彼岸側に微分されるメサイア的なエクスタシーであるが、そのつどの「今」とのあいだに醸成される信仰的緊張あるいは衝動あるいは切迫などを絶やすべからざる条件とせずには、個的にも共同体的にも、そのようなシニフィエ(意味されるもの)として現出・現前しえないもの。(アノニマス)
「福袋」への脱兎のごとき突進などをイメージしてみられると、分かりやすいかもしれない。

「福袋」にむかう衝動は、中身の不可視性とガラス戸一枚の作為的な境界線とその取っ払いの時間予告によって極限間際にまでたかめられている。しかしそもそも中身の全く分からない品物など、誰も買わないものだ。にもかかわらず彼らは買いに出かける。なぜか?

そう、答えは簡単。一万円の福袋にたとえば総計五万円相当の商品が入っていたことを聞いたか、見たか、体験したか、そのまま信じたかのいずれかの事情があったからである。彼・彼女らは、その「信」の持ち主であるのだ。

この卑近な事例は、ヴァッティモも「饗宴」の体験者ではなかったか、という類推を誘う。かつてこの種の体験を「稲妻に打たれて天から落下したようだった」と表現したのは、精神病理学者であり臨床医でもあったルートヴィッヒ・ビンスヴァンガー(1881-1966)であった(「夢と実存」原本初版1930年 荻野恒一訳、『現象学的人間学』所収論文)。しかもそれは誰に落雷しても、不思議ではないのだ。

2002年に『ヨブ 奴隷の力』を著したイタリア人アントニオ・ネグリは、メシアとは何かを自問するなかで、
様々の特権化された”経験の瞬間”の間には質的差異がない(第七章第二節 仲正昌樹訳2004年)
と明言し、またこれらすべての経験の瞬間が、
人間本性の一部を構成している(同上)
とまで言い切っている。

この体験を否定してきた人々はそこで終わったが、否定しなかった人々はそこから始まり、さらには脱-体験化(=経験化)にまで着岸する。わたし如き凡人がしてそうなのである。

以上のような解釈のムーブメントは、畢竟、伝統的な「贖罪(論)」を激しく孤立させる。

わたしは『ニーチェ箴言散策集・私家版』を書き下ろした2008年頃から、「罪とは自我分裂による意識の立ち遅れそのものに対するヘブライ的直観あるいは洞察であり、人間が人間であることの愛しむべき根拠である。いつもこうべを垂れていよ、などとはイエスは言わなかった」とことあるごとに語ってきた。アダムーエバ物語を読んでも、わたしにはそうとしか了解できなかった。せっせせっせと教会に通っていた頃は、さまざまな研究会や勉強会に参加しそう発言し続けたが、結果、ほとんどは笑って無視された。

ところがどうであろう。

大西雅一郎氏が2009年に翻訳本『脱閉域 キリスト教の脱構築1』(ジャン=リュック・ナンシー)を公刊されるやいなや、北米系(主にリバイバル派とその分派)の教会を除く牧師はじめ教会指導者が、キリスト教教義や聖書解釈の上書きをこそこそとはじめているではないか。日本基督教団の教会員でもある新約聖書学者大貫隆氏の近年の出版活動(一般向けのうちおよそ三冊)の影響も、大きい。

ナンシーの語る一節だけを紹介しておきたい。いずれも上掲翻訳本からのものである。
罪は第一に行為ではありません。それはひとつの条件(運命、環境 condition)です、起源にある条件なのです。
自己へと関係づけられたものとしての、他者へと開かれない、他者へと絆を解き緩めないものとしての自己なるもの
これが自我分裂へのハイデガー的言及でなければ、いったい何なのであろうか。

こう理解してこそ、冒頭引用したヴァッティモの語りが、キリスト教に対する同意だけでなく深いアイロニーをも含んだものであることに、ハタと気がつくのである。

ドゥルーズ / ガタリ『千のプラトー』に便乗しなかったイタリア出身の思想家たちは、お洒落な文体をもちじつに魅力的である。如何せん、日本語への翻訳作業はたいへん遅れているようだ。若き研究者諸君の奮起奮闘を期待したい。

2013/02/08

What is the "facticity" ?


Take a closer at these gears, please...

The biggest gear certainly looks like the main source that is putting each small gear in motion. While doing so, I get confused in my perception whichever gear works the other gears. Soon...all gears slowly begin to dissolve into somewhere, and finally only the power of the generating overwhelms me.

It is not until people despaired of their lives or are taken seriously ills that they learn words are of little use. Theist or atheist, they cannot exist even for a bit without just about the inexplicable power.

I'm afraid we modern human beings have totally forgotten that fact.

2013/01/11

ヘーゲル「有論」が暴く!「創世記」冒頭の誤訳

河出書房新社版
エンチュクロペディー
八十七節冒頭部分
1970年代初頭に20歳代~30歳代を生きておられた方々にとって、ヘーゲル(1770-1831)という人物の名は懐かしくも響くことであろう。

この世代の方々は、60年安保闘争をまのあたりにした方々、またはアンガージュマンした方々、あるいは70年大阪万博の狂乱のさなか日米安保条約が自動延長されたその時代を生きておられた方々、その翌々年の72年、軽井沢は浅間山山荘での連合赤軍事件と時空を共にした方々、その後第4インターナショナルにまで四分五裂した学生運動、さらには民族運動末期の不穏のただなかにおられた方々、などである。

わたし自身は、後者の初代に属していた。復員兵が機縁となった団塊世代の直後にもあたる。

しかし同時に、ドイツ観念論の終焉ヘーゲルの著作自体をまじめに読んでいた人も、今思い返せばほとんどいなかったようにも記憶している。

その事情は、しごく簡単である。

2012/12/04

ニーチェ箴言散策集・私家版 (6)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


85節から89節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2012/11/29

制限時間60秒!正解は何番?センター風。。。

◆次の本文をよく読んで、あとの問いに答えよ。

イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。A 悪霊はイエスを知っていたからである。(新共同訳 1.34)

問 傍線部A「悪霊はイエスを知っていた」とあるが、それはなぜか。その説明として最も適当なものを、次の1~5のうちから一つ選べ。

1 悪霊は、病人をいやすイエスをすでに目撃していたから。
2 悪霊は、イエスのうわさを天の国で耳にしていたから。
3 悪霊は、イエスのうわさを地の民から収集していたから。
4 神が、悪霊にも善悪を弁える知恵を授けておられたから。
5 他人のようだが、もとをただせば血を分けた兄弟だから。

あなたの正解番号を投票してから「正解」を参照しましょう(見えない番号はスクロールバーで)。

2012/11/25

私家版・ニーチェ箴言散策集 (5)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


80節から84節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2012/11/24

「永遠」って何?何?何? (2)


(以下の記事は、2010.10.07、に書かれたものです)

シモーニュ・ヴェイユ
Simone weil
「わたしたちの内部で、究極性とつらなっている欲求の尖端を現在にあてがってみれば、それは現在をつき破って、永遠にまで達するであろう。」(シモーニュ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳) 
1943年、34歳で夭逝(ようせい)したユダヤ系フランス人女性思想家の断片(アフォリズム)である。

結核の進行にもかかわらず、食物摂取を拒否しての餓死であった、と言う。受洗したという意味での基督教信徒ではない。

「永遠」って何?何?何? (1)

(以下の記事は、2010.03.12、に書かれたものです)

通院しております心療内科からの帰り、すこしだけのつもりで立ち寄りましたとある書店で、岩波書店発行の伝統ある月刊誌『思想』(2010.03号)を見出しました。青年時代たいへんお世話になった月刊誌を懐かしく思い、手にも取り、表紙にある目次を眺めていたとき、わたしの目に「カイロス」というたった四文字のカタカナが飛び込んできました。

2012/11/23

教会は自死(自殺)念慮者を救えるか?

(以下の記事は、2011.04.03、に書かれたものです)

「自死(自殺)」に関する日本のキリスト教全体としての見解には統一性がない。またその研究・対策も、かなり遅れている。説教者たちのなかには、なにがしかの精神疾患が関与した「自殺」は「病死」である、と判断して憚らない方々も、いまだおられるようである。

あるいは、神をどこかで拒否していたからではなかろうか、といった戯言(たわごと)をもっぱらとする説教者もおられる。なんという残酷な神学であろうか。。。

2012/11/14

途切れた系譜(ハヤトロギア)

(以下の記事は、2010.11.07、に書かれたものです)

東京大学哲学会編「哲学雑誌」第121巻第793号(2006年)のタイトルは、「レヴィナス―ヘブライズムとヘレニズム」、となっている。

3編の公募論文、3編の研究論文を除いて、6編のレヴィナス関連の論文が収録されている。

その6編のうちに、「レヴィナスにおける解釈学のヘブライ的契機」、という論文がある。

2012/11/11

体験・・・の機序(2)

(以下の記事は、2011.03.06、に書かれたものです)

1945年4月14日に脱稿された西田幾多郎最後の完成論文、「場所的論理と宗教的世界観」二(章)の部分に、次のような一節がある。
  • 「宗教心というのは、多くの人の考えるように、有限と無限とか、相対と絶対とかいう如き過程的関係において生ずるのではなくして、我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、はじめて意識せられるのである。」(岩波文庫版『西田幾多郎哲学論集 3』所収 下線引用者)
この一節は、西田氏御自身が「前方」に座し、わたしたちからの応答を待たれて書かれたものではない。

体験・・・の機序(1)

(以下の記事は、2011.03.05、に書かれたものです)

皆様方よくご存知の、「青年(少年たち)よ、大志を抱け!」、という文句は、米国人ウィリアム・クラーク博士(1826-1886)が札幌を立ち去る時に残されたもの、と言われている。

その博士の影響を受け立ち上げられた「札幌バンド」、いわゆる基督教信徒グループのなかに、内村鑑三(1861-1930)氏がいた。旧五千円札紙幣でおなじみの新渡戸稲造(1862-1933)氏も、そのうちの一人である。