2012/11/24

「永遠」って何?何?何? (1)

(以下の記事は、2010.03.12、に書かれたものです)

通院しております心療内科からの帰り、すこしだけのつもりで立ち寄りましたとある書店で、岩波書店発行の伝統ある月刊誌『思想』(2010.03号)を見出しました。青年時代たいへんお世話になった月刊誌を懐かしく思い、手にも取り、表紙にある目次を眺めていたとき、わたしの目に「カイロス」というたった四文字のカタカナが飛び込んできました。

巻頭論文として掲載されていました小林敏明氏の論文の正式名は、「カイロスの系譜――西田幾多郎「永遠の今」をめぐって――」、となっています。注記を含め、上下二段組40ページほどの論文です。「執筆者」紹介によりますと、小林敏明氏はベルリン自由大学で博士号を取得され、現在はライプツィヒ大学で哲学を教えておられるそうです。わたしより三つほど先をゆかれています。

氏の論文の主題は、「永遠の今」の解釈学的説明とその可能性、にあるようです。

氏は、西田哲学を象徴するテーゼ、「永遠の今の自己限定」の解釈に伴う不全感から起筆され(「はじめに」)、「一 凝縮される時間」、「二 カイロスとロゴスの間」、「三 Anwessenの意味するもの」、「四 破砕する時」、という構成に基づき論を展開されておられます。とても刺激的で魅力ある内容となっています。


氏の論文全体を概観しコメントするのは、当記事の意図するところではありません。またそのための学的環境から離れて、すでに三十年以上もの不可解な年月を経てきました今のわたしには、学びの欠片も残っていません。

以下に記しますのは、荒野に立つイエスを真の兄弟として愛し、その信仰のまことを信じるわたしの個人的な読後感です。どうかご容赦くださいますように。

さて。。。

小林氏は、「永遠の今」の解釈への手掛かりを、アウグスティヌス、マイスター・エックハルト、フッサール、聖書、ジョルジョ・アガンベン、大貫隆、パウル・ティリッヒ、ミヒャエル・トイニッセン、ハイデガー、キルケゴール、木村敏、などの言説を巡り求められます。そうして「クロノス(計量可能な外部時間 *アノニマス)」と「カイロス(計量不可能な内部時間 *アノニマス)」との関係を詳述されながら、論文終盤において次のように敷衍されています。
カイロスの瞬間を宗教的「突破」とみなす可能性があるなら、さらにこれをもっと具体的な形で、病理学的な「発作(Anfall)」とみなす可能性さえないわけではない。 
さらに木村敏氏の「癲癇論」の一部を引用され、次のように論を閉じられます。
この「発作」が「時間の断絶」としてとらえられるということは、それがカイロスによるクロノスの瞬間的破砕を意味するからである。それが「異質な時間性に属」し、「永遠と通じている」と言われるのも、筆者には癲癇発作とカイロスの親和性を暗示しているように見える。・・・略・・・ソクラテスもパウロも癲癇持ちだったと言われる。
わたしが小さな疑問を抱きましたのは、「ソクラテスもパウロも癲癇持ちだった」という指摘引用ではなく(わたしにとっては、どちらであってもよいのです)、「カイロスによるクロノスの瞬間的破砕」という箇所です。

同じ論文の他の箇所でも、たとえば「カイロスがクロノスの時間を突き破って現出してくる」、と氏は指摘されていますし、
われわれの「魂」さえも、ほとんど無へと凝縮してしまうような「場所」としての瞬間を(エックハルトは *アノニマス)言い表わしていると考えるべきである。フッサールの表現を借りて言えば、現象学的還元をして最後に残る超越論的主観性をさらに還元してしまうような次元が問題だと言っておいてもよい。
とも指摘されておられます。


わたしの印象を端的に述べますと、「カイロス」が「クロノス」を突き破る、あるいは破砕する、という氏が述べられる出来事は、思惟の中では生起するといたしましても、わたしたちのアクチュアルな現実においては起っていない、いや、起りえない、ということです。

氏の言われるように、「魂」や「超越論的主観(純粋自我 *アノニマス)性」を「さらに還元してしま」いますと、わたしたちの世界ばかりか、この大宇宙自体が存在しなくなります。フッサールの「超越論的主観」は、フッサール自身のアクチュアルな「体験」から内省を経て脱「体験」化された、あくまでも静止的な標準モデルにすぎない、という最も肝要な点を氏は見落とされています。

なるほど、「カイロス」的時間性格のなかには、氏が指摘されるように、「飛躍」や「驚き」や「瞬間」としか表現しえないものがありそうには見えます。しかしそれらは、そのように「見える」、あるいは「感じられる」のであって、「カイロス」自体のいわゆる属性ではない、とわたしは思っています。

それどころかわたしは、フッサールが省察し発見した(気づいた)「純粋自我(超越論的主観)」を起点として構成される、そのつどのわたしたちの内的時空間そのものが「カイロスの本体」である、とさえ捉えています。「飛躍」や「驚き」や「瞬間」としか表現しえない感覚が生起しますのは、この「カイロス本体」の変様を強いる内外のクリーゼ(危機)との関連においてです。とても特異な現象として体験され、また事後的にも追認され、さまざまな色合いを持って語られたりもしますため、氏が「カイロス」のオートポイエーシ(自己産出性)を感じられるのも、無理からぬこととは思います。

よしんば、「純粋自我」がクリーゼに遭遇していなかったとしても、やはりカイロス(内的時空間)とクロノス(外的時空間)との同期性には、自我同一性を脅かさない程度の僅かな誤差が介在し続けています。その誤差が、クリーゼに遭遇することによって突発的に、許容範囲を超え出るような断裂・亀裂にまで大きくなるとき、そのはざまにおいて、わたしたちのノエシスは、「瞬間」や「永遠」や「死」を内部体験するのです。変種として何かが聞こえたりすることもあるでしょう。必ずしも「癲癇病」である必要はないわけです。


路上で寝とまりを強いられている人たち、借金の返済を強要されている人たち、虐待を受けている子供たち、さまざまなハラスメントにあっている人たち、不測の事故・事件・災害などにまきこまれた人たち、生死の選択を迫られている人たち、さまざまな思い煩いから脱出できなくなった人たちなども、「瞬間」や「永遠」や「死」をどこかで内部体験されているのです。人目を避け、黙して語らず、じっと耐えられておられるだけです。

氏が追跡されておられます「永遠」とは、カイロスがクロノスを突き破るときに現出するものではなく、クロノスとカイロスとがおおきく断裂し異次元化したものとして暴露されるとき、はじめて垣間見せられるありとしあらゆるものの生成の根源それ自体である、とわたしは貧しい体験を通じ思っています。


2000年近く前の人間に覚知できたことが、われわれにできないのは、ひとえに古代ギリシア由来の直線的で平面的な形而上学的思惟の長きにわたる呪縛のためです。ハイデガー的に申し上げれば、人間存在を垂直に循環し続ける「気分」ー「了解」ー「解釈」ー「陳述」の円環のうち、「了解」と「解釈」の「間」が途切れ、「解釈」と「陳述」が二次元化してしまっているからです。そのため、自己と自己、自己と他人、自己と事物、自己と世界との間に時間差が常に生じるわけです。喜びも悲しみも、すべてその時間差から生じています。つまりこの2500年ほどの間およそ人類は、このような自我分裂に気づかずに窮屈極まりない世界を構築してきた、ということにもなるわけです。


ユダヤ人を広義に表現しますとヘブライ民族になりますが、彼らが世界の事実性(facticity)とほぼ同期的に接触し得ていたことは、『旧約聖書』のここかしこに見出すことができます。少しく一切の教義教理から離れて読む必要はありますが。。。

イエスは、その末裔です。

ギリシア哲学の思惟の産物であり、キリスト教憲法とも言うべき『使徒信条(the Credo)』のイエスがイエスである根拠は、どこにもありません。第四世紀ローマの御用学者の作文のひとつです。イエスは最後まで荒野に立っていたのですから。。。

(以上の記事は、2010.03.12、に書かれたものです)

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