2012/11/14

私家版・ニーチェ箴言散策集 (1)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


まずは63節と64節をどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

)))063節(((
Wer von Grund aus Lehrer ist, nimmt alle Dinge nur in Bezug auf seine Schüler ernst, - sogar sich selbst.
根っから教師である者は、すべての事柄を、――自分自身をすらも、自分の生徒との関係においてのみ真面目に考える。 
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当「箴言散策集」第一番目の箴言になります。

このページに直接アクセスされた方々のために申し添えますと、2008年02月17日、第185節から筆を起こし、この約五ヶ月間、ひたすら逆行し続けてきました「わたし」、こと執筆者の立場からは、この[063節]が最後の箴言散策ということになります。

その事情、執筆動機等の部分については、当ブログでは割愛しております。ご了解ください。


さて。。。

自縛、呪縛、とは恐ろしいものです。

「すべての事柄」だけでなく、「自分自身をすらも」、と書き留めたニーチェの人間観察には、とても深いものを感じますし、ニーチェ特有の嗅覚だな、とも思います。

卑近な話題で恐縮ですが、学校教師の経歴を持たれた方々が、予備校界に転身される場合があります。

その先生方と、当初から予備校講師として活躍されていた先生方との仕草を眺めていますと、時折ではありますが、それぞれから漂ってくるムードがどうも根本的に違うな、と感じることがあります。

どこがどのように。。。?と尋ねられましても、ここがこのようだ、とは即座に応答しかねる、そんなもどかしさを感じます。でもやはり、どこかがなんとなく違う。。。

授業(講義)「直前の様子」などを拝見してみますと、比較的よくその違いが分かるかもしれません。

元学校教師の経歴を持たれた先生方におかれましては、授業・教授のための用意が実に周到で、木目の細かい仕草が窺われます。教材資料の準備やその整理具合から、講義案の構築仕様に至るまで、事前に相当の時間を費やされてきたのであろうことが、その立ち居振舞い・言説などからも窺えます。質実とでもいいましょうか。。。「真面目」なのでしょう。

その点、予備校界からスタートを切られた先生方は、前職が教育とは関係のない場合が、結構多いようです。研究者の道を逸した方もおられますし、元商社マン、元営業マン、中には職業不定、という方もおられます。

そのような先生方は、むしろ、授業数時間前に瞬(またた)く「直観」や「閃き」のようなものをこそ大切にされている場合が、比較的多いように感じます(今は存じ上げませんが)。そして、それらを呼び寄せるために、強いてリラックスして世間話に興じたり、髪型を整えたり、装飾品に気を配ったり、繊細な中にも、ちょっぴり虚勢をはった奔放なムードを、「授業直前」に漂わせておられます。全員がそうだ、というわけではもちろんありませんが、しかし独特な雰囲気があったことは、経験的な事実として、述べることができます。

わたし自身に関する記憶を辿りましても、教科にもよるでしょうが、前日に予習をすることなど、ほとんどなかったようです。

自宅を出る寸前にざーっと教材に目を通してメモ書きをする。よほどのことがない限り、「今日はこれとこれ」、と勘所が決まりましたら、それで準備の大半はおしまい。あとはその日の教室空間のその「場」の雰囲気が、自分を導いてくれる、そしてその流れに乗る・・・それだけを確信していたようにも思います。そうそう・・・服装と装飾品などへの気遣いはたいへん重要なポイントでした。現役であった当時のわたしは、とあるブティックのマスターに、月ごとのコーディネートを指導してもらっていました。たかくつきましたが。。。(笑)


一期一会の出会いのなかで生徒を教え、短期間で成績を向上させ、そして志望大学に合格させる、という目的因は同じなのに、どうしてこのようにも両者の間に、雰囲気の違いが生じているのでしょうか。


結論から申し上げますと、両者の抱く「情念」の「位階の秩序」、というものが、おそらくは、相当に異なった様態にあったからであろう、とわたしは思っています。

ニーチェは、次のように語っています。
結局、魂の状態には一つの順位があり、それに相応して問題の順位がある。(『善悪の彼岸』第六章) 
そして、このようにも。
或る魂の内部でどのような感覚群が最も速く目覚め、言葉を発し、命令を下すか、このことによってその魂の諸価値の全位階秩序が決定される。これが結局はその魂の財産目録を規定するのだ。或る人間の評価は、その魂の構造の或るものを露わにし、またその魂がどこにその生活条件、その本来の必迫を見ているかを窺わせる。(同上第九章 一部傍点あり) 
さらに、次のような喩えでも。
一本の樹木がその果実を結ぶ場合の必然さをもって、われわれの思想、われわれの価値、われわれの「然り」や「否」や「もし」や「かどうか」は――悉く互いに類縁関係をもち、かつ同一の意志、同一の健康、同一の土地、同一の太陽の証しとして――われわれのうちから生じてくるのだ。(『道徳の系譜』「序言」) 

話を私事に限りますと、二十年も以上の前からわたしは、「読解力」がこの世には存在しないこと、そして「受験国語」という教科が科学であること、を提唱してきました。

「読解力」という言葉は、時代の推移とともに、かつてほどの猛威をふるわなくはなりましたが、それでも今なお執拗に、生徒、その親、その教師・予備校講師の情念に、さらには社会の通念にも、その古い病巣を瘢痕として残してはいます。

「読解力は存在する」と信じて止まない先生方と、「読解力は幻想だ」と確信するわたしとの間に、その立ち居振舞いや言説、あるいは一挙手一投足に映し出される色彩や香りにおける違いがあったとして、ニーチェ的に見れば、それは至極当然なことです。

真似をしようがしまいが、されようがされまいが、衝動、感覚、情念、思惟、思想、意志をも含む「魂」の「全位階秩序」の構成順位自体が異なる限り、生じるものも、異なります。

上掲箴言冒頭の「根っから教師である者」の「根っから」とは、そういうことなのでしょう。そのことに気がつかないでいるからこそ、「自分自身をすらも、自分の生徒との関係においてのみ真面目に考え」てしまう以外、ないのでしょう。

再度。。。自縛、呪縛、とは恐ろしいものです。

(2008年07月20日 記)

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)))064節(((
》Die Erkenntniss um ihrer selbst willen《 - das ist der letzte Fallstrick, den die Morallegt: damit verwickelt man sich noch einmal völlig in sie.
「認識それ自体のための認識」――これは道徳が仕掛ける窮極の陥穽である。これによって人人はもう一度、全く道徳に巻き込まれる。 
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「陥穽(かんせい)」とは、落とし穴、のことです。


突然ですが。。。
神経生理学者と生物学者との共著論文による「オートポイエーシス(自己産出)」理論の提示は、1972年だとされています。

理論自体の理屈は難解なものではなく、あるシステムとその要素の、恒常的かつ反復的な自己産出・相互産出性を強調したもので、システム自体の自律的なダイナミズム(動性)を当のものとして、観察者の視点を排除した領域において、ファイネスタイ(注)、つまりは自己示現させようとする試みです。
(注)ハイデガー『存在と時間』序論第二章第七節のB
「認識それ自体のための認識」という箴言の冒頭表現を眺めていますと、「認識」を目的因とした当の「認識」の自己示現のように、見えなくはないのですが、ニーチェの思いは、すこし違うところにあるようです。

簡単に述べますと、新生した「認識」が、既成の「認識」を掠奪する、あるいは呑み込む、あるいは食い潰す、あるいは凌駕する、あるいは破壊する、といった意味合いで、表現されているようにも感じます。

その「認識」自体の推移が、あたかもオートポイエーシスであるかの如くに進行するために、「窮極の陥穽」、と表現したのかもしれません。

とは言いましても、あくまでも、「道徳」をめぐっての話ではありますが。。。


自律的な主人道徳を支えていた「認識」が、他罰から他律への逆転を成功させた奴隷道徳の「認識」に転換し、さらにはそこから、民主主義的な(蓄群的な)「認識」に派生していく。。。
その全過程の要因が、じつは人間存在の「根本衝動」たる「情念」から成る「力への意志」と伴走するものであったにもかかわらず、素知らぬ振りをして、新生した「認識」自体に人々を「巻き込」む、そのような「道徳」の仮象性、虚偽性、欺瞞性のようなものを、暴露しようとした箴言ではなかったか、と思われます。

ニーチェは、そのつどの弱者を救済する道徳の本性を、次のように語っています。
人間は、自己保存・自己肯定の本能からあらゆる虚偽を神聖化するのを常とするが、同時にまたこの本能からして、あの無記な、選択の自由をもつ「主体」に対する信仰を必要とする。主体(通俗的に言えば魂)が今日まで地上において最善の信条であったのは、恐らくこの概念によって、死すべき者の多数に、あらゆる種類の弱者や被圧迫者に、弱さそのものを自由と解釈し、彼ら自身の云為を功績と解釈するあの崇高な自己欺瞞を可能にしたからであった。(『道徳の系譜』「第一論文」 一部傍点あり) 
「自己保存・自己肯定の本能からあらゆる虚偽を神聖化する」ことを可能にしているのは、まさに「力への意志」を隠蔽した「認識」のなせる技、とも言えるでしょう。

虚偽や隠蔽とは、「情念」に蓋をする狡知に長けたロゴスから成り立ちます。
とりどりの「詐欺」に巻き込まれる犠牲者が、今もって跡を絶たないことには、そういった事情も与っているのかもしれません。

(2008年07月19日 記)

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