2012/11/13

花はなぜ咲くのか?

(以下の記事は、2010.11.16、に書かれたものです)

甲南大学田中修先生の四夜にわたるお話、「秋を彩る植物たち」、には深く感動した(2010.11.08-11)。

(NHKラジオ第1)『ラジオ深夜便』から流れてきた「ナイトエッセー」である。

幼少期から自閉的な少年であられ、多くは語られなかったが、辛い日々を長く送られていたことが言外に伝わってきた。そのつどごとに、もの語らぬ草花に慰められ生かされて、ついに植物の妖精に導かれるようにして京都大学農学部に入学された、と言われる。その後研究者として35年間ひたすら、「花はなぜ咲くのか」、という問いを問い続けてきておられる。


田中先生の結論を、わたしなりの表現で要約すればこうなる。

春夏秋冬を彩る花々は、古来わたしたちのあらゆる情感の末端にまでしみわたるものとして捉えられてはきた。

しかしながらそれらの意味合いは、どれもこれも畢竟、わたしたち人間の側の解釈であるにすぎない。

困難ではあるがひとたび花々の側に立てば、換言すると、個体の分離を超え連続する可能態としての植物生命(ゾーエ)に思いを馳せれば、そこには際限のない世界創造の神秘が、音もなく展開されているのが分かる。

その神秘を田中先生は、「咲く花」という現象に接しながら、科学者として見出し表現された。

「花はなぜ咲くのか」、というたったひとつの問いによって先生は、「葉」を通じそれぞれの植物が、その生命の危機(極寒極暑の時)の到来を二ヶ月前に先取りし(察知・予知し)ており、その生命の危機の時期を「種(たね)」と化して耐え抜くために花を咲かせていた、という驚くべき叡智に満ちた営みを開示された。


田中先生の訥々としたお話を聞きながらわたしは、わたし自身をも含む人間の不条理を強く感じていた。

人間には、危機の時を察知し「種(たね)」と化する営みが、ほとんど退化している。

苦しいとき、悲しいとき、辛いとき、憤(いきどお)るとき、怒るとき、苛立つとき、不安なとき、落胆するとき、そして絶望と孤絶の闇に放置されてしまったとき・・・わたしたちは漠たる不信を抱き、羨(うらや)み、妬(ねた)み、嫉妬(しっと)し、嫌悪し、憎悪し、暴発し、狂乱し、そして疲れ果て背を見せうずくまってしまう場合が多い。少なくともわたしは、それらすべてを体験した。

そこには未来の時の欠片など、ひとつもなかった。

しかしそれは、とんでもない思い込みでもあった。

それらの仕草は、言葉に支配され、ありとしあらゆる出来事を「事後的」にしか追認できない人間が、危機の時を察知できないがため、個体の分離を超えた生命(ゾーエ)の連続的な逆襲を突発的に受けたと錯誤している、まさにその姿なのである。

加國尚志氏は、次のように述べられている。
  • 『反論理的な生命の「自由」の論理としての反論理は、同一律のさらに根底にひろがっている。したがって、個体としての生命体は個体としての誕生と死を通じて、この同一律のさらに根底にひろがる反論理的で非人称的な生命との関係に「於いて」ある。』(『「間」の共有』2010年)
田中先生が見出された「種(たね)」の神秘の一端に、通底している。


『旧約聖書』に登場する預言者たちは、いわば一枚の「葉」であり一輪の「花」であった。

その「葉」の察知、そして「花々」の開花によって、ユダ・イスラエルの民衆は「種(たね)」になることを覚え、否、事実「種」になり、幾多の危機を耐え忍んできたのであろう。「終末思想」・「メシア思想」と呼称され、「選民思想」とも揶揄されてはきたが、その実際の精神風土とはほど遠い言葉群である。


社会・歴史・経済・文化・文明の危機もさることながら、心身に不可思議・不本意な疾患を抱え怯え続けるのも、ご当人はもちろん、傍目にも辛くて苦しく悲惨なことではある。

しかし苦楽が、生死を生んでいるのではない。

わたしたち各人の生死のわずかな間隙は、豊かであろうと貧しかろうと、無限に産出されており、その意味で無限にたえず接している。わたしたちの苦楽の背面には、無限創造の神秘の働きがある。そのことに気がつきさえすれば、植物と同じような「種(たね)」になる洞察を、わたしたち人間も得ることが必ずできる。

田中先生の感動的なお話を、無礼ながら敷衍させていただくと、そういうことにもなろうか。
  • ' Look how the wild flowers grow : they do not work or make clothes for themselves.' (Matthew 6:28) 
(以上の記事は、2010.11.16、に書かれたものです)

0 件のコメント: