2013/10/31

マイルスの「枯葉」

「枯葉(Les Feuilles mortes)」(1945)と言えば、今なお世界中の多くの歌手・演奏家にカバーされているほどのスタンダードナンバーである。その旋律を知らない方は、ほとんどいないであろう。
トランペッターのマイルス・デヴィス(1926-1991)も、この曲をカバーしている。アルトサックスにキャノンボール・アダレイ、ピアノはハンク・ジョーンズ、ベースにはサム.ジョーンズ、そしてドラムは「ナイアガラの滝」ことアート・ブレーキーといった布陣。

わたしがマイルスの「枯葉」を入手したのは、二十歳の頃。ブルーノートシリーズの一枚であったと記憶している。以来40年を越えたが、秋になるとなぜかこのマイルスの「枯葉」が、波乱の時の尾根をつたって蘇ってくる。

原曲はシャンソンである。

2013/10/29

ニーチェ箴言散策集・私家版 (12)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


115節から119節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/10/28

イタリア一人旅・妄想版


An onymous 『哲学者の使命と責任』(上村忠男訳 2011年)所収論稿「真理を語る」の2において、ジャンニ・ヴァッティモ(1936-)はこう述べている。

聖書では、永遠の生は客観的な真理を幾何学的に観照するというよりも、基本的には饗宴のようなものであると考えられている。ただひたすら神を永遠に観照しつづけることに、なんの意味があるというのだろう。
「饗宴」とは、いわゆる神の国の一端を聖書的に寓意したものである。

『アウシュビッツの残りのもの―アルシーヴと証人』(邦訳2001年)や『残りのとき パウロ講義』(邦訳2005年)などを著した同じイタリア出身のジョルジョ・アガンベン(1942-)風に表現してみると、こんな風になろうか。
不定未来への「信」を通して彼岸側に微分されるメサイア的なエクスタシーであるが、そのつどの「今」とのあいだに醸成される信仰的緊張あるいは衝動あるいは切迫などを絶やすべからざる条件とせずには、個的にも共同体的にも、そのようなシニフィエ(意味されるもの)として現出・現前しえないもの。(アノニマス)
「福袋」への脱兎のごとき突進などをイメージしてみられると、分かりやすいかもしれない。

「福袋」にむかう衝動は、中身の不可視性とガラス戸一枚の作為的な境界線とその取っ払いの時間予告によって極限間際にまでたかめられている。しかしそもそも中身の全く分からない品物など、誰も買わないものだ。にもかかわらず彼らは買いに出かける。なぜか?

そう、答えは簡単。一万円の福袋にたとえば総計五万円相当の商品が入っていたことを聞いたか、見たか、体験したか、そのまま信じたかのいずれかの事情があったからである。彼・彼女らは、その「信」の持ち主であるのだ。

この卑近な事例は、ヴァッティモも「饗宴」の体験者ではなかったか、という類推を誘う。かつてこの種の体験を「稲妻に打たれて天から落下したようだった」と表現したのは、精神病理学者であり臨床医でもあったルートヴィッヒ・ビンスヴァンガー(1881-1966)であった(「夢と実存」原本初版1930年 荻野恒一訳、『現象学的人間学』所収論文)。しかもそれは誰に落雷しても、不思議ではないのだ。

2002年に『ヨブ 奴隷の力』を著したイタリア人アントニオ・ネグリは、メシアとは何かを自問するなかで、
様々の特権化された”経験の瞬間”の間には質的差異がない(第七章第二節 仲正昌樹訳2004年)
と明言し、またこれらすべての経験の瞬間が、
人間本性の一部を構成している(同上)
とまで言い切っている。

この体験を否定してきた人々はそこで終わったが、否定しなかった人々はそこから始まり、さらには脱-体験化(=経験化)にまで着岸する。わたし如き凡人がしてそうなのである。

以上のような解釈のムーブメントは、畢竟、伝統的な「贖罪(論)」を激しく孤立させる。

わたしは『ニーチェ箴言散策集・私家版』を書き下ろした2008年頃から、「罪とは自我分裂による意識の立ち遅れそのものに対するヘブライ的直観あるいは洞察であり、人間が人間であることの愛しむべき根拠である。いつもこうべを垂れていよ、などとはイエスは言わなかった」とことあるごとに語ってきた。アダムーエバ物語を読んでも、わたしにはそうとしか了解できなかった。せっせせっせと教会に通っていた頃は、さまざまな研究会や勉強会に参加しそう発言し続けたが、結果、ほとんどは笑って無視された。

ところがどうであろう。

大西雅一郎氏が2009年に翻訳本『脱閉域 キリスト教の脱構築1』(ジャン=リュック・ナンシー)を公刊されるやいなや、北米系(主にリバイバル派とその分派)の教会を除く牧師はじめ教会指導者が、キリスト教教義や聖書解釈の上書きをこそこそとはじめているではないか。日本基督教団の教会員でもある新約聖書学者大貫隆氏の近年の出版活動(一般向けのうちおよそ三冊)の影響も、大きい。

ナンシーの語る一節だけを紹介しておきたい。いずれも上掲翻訳本からのものである。
罪は第一に行為ではありません。それはひとつの条件(運命、環境 condition)です、起源にある条件なのです。
自己へと関係づけられたものとしての、他者へと開かれない、他者へと絆を解き緩めないものとしての自己なるもの
これが自我分裂へのハイデガー的言及でなければ、いったい何なのであろうか。

こう理解してこそ、冒頭引用したヴァッティモの語りが、キリスト教に対する同意だけでなく深いアイロニーをも含んだものであることに、ハタと気がつくのである。

ドゥルーズ / ガタリ『千のプラトー』に便乗しなかったイタリア出身の思想家たちは、お洒落な文体をもちじつに魅力的である。如何せん、日本語への翻訳作業はたいへん遅れているようだ。若き研究者諸君の奮起奮闘を期待したい。

2013/10/25

ニーチェ箴言散策集・私家版 (11)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


110節から114節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/10/24

西欧人の斜陽


An onymousジェラール・グラネル最後の刊行テクスト「実体から遠く離れて、どこまで?」(カント以降の思考の存在論的ケノーシスについての試論)(1999年)に対する読解試論「全体の無なることの信」(2001年)の5においてジャン=リュック・ナンシーは、グラネルのテクストの最終部を引用している。
何ということだ!反対に、神的な創造という発明物が、<存在>そのものの純然たる有限性のなかにある恐るべきものを前にしての、われわれの側の逃避にすぎないのだとすれば?(本テクストは『脱閉域 キリスト教の脱構築1』に全文収録 大西雅一郎訳)
まさにグラネル渾身のエクリチュールであり、「語り(証し)」でもある。

それに比し、引用者ナンシーの筆はじつに重い。

わたしなりに約めると、「ある恐るべきもの(ヌミノーゼを喚起する対象や体験)」から「逃避」するため(フロイトの言う補償作用として)人間みずからが「神的な創造という発明物(神話であろう)」を作為した。。。ということになろうか。

あのウィリアム・ジェームズも、このあたりにためらい傷をいくつかもっていた。モーセの顔を覆った布との類似性を強くもちながら、あえてハイデガーが「無」と表現せざるをえなかったのにも、同じ拍動が感じられる。その他西欧の先達たちはとりどりの身振りを示してきたが、そのほとんどがケノーシス(神の自己放棄)の問題に逡巡している。

あぁ。。。キリスト教一切の歴史とともにその魂を彫琢(ちょうたく)する以外なかった、したがって絶えずヤヌスたる唯一絶対神の統合失調と暴走を警戒しなければならない慢性的緊張を強いられてきた西欧人のパラノイア的苦悩は、四方を海に固く守られてきた極東を生きるわれわれの予想などをはるかに超え出てしまっている宗教的閉所の恐怖から現象しているのである。

したがって日本のキリスト教指導者の教条主義と平和ボケと劣化は、キリスト教信仰などとは一切関係なく、ただ彼らの宗教音痴が垂れ流してきた非奇跡の不法投棄の累々たる堆積と一対のもの、とみなすべきである。こちらは、干からびてもう剥せないのだ。それでも黙過の特権を得ているのが、日本のキリスト教界である。

2013/10/23

もいちどアナ・ヴィドヴィックを

あまりにもか弱すぎる右指のタッチ。しかしそのつど裏切ることなく産み出されてくる、強くて嫌みのない鮮明な音質。彼女の天才はその不思議に尽きる。

そのタッチと音質の関係は、パラド(ッ)クスや因果ではない。「弱ければ弱いほど強くなる」のでも、ただ「弱いから強い」というのでもないのだ。あえて申し上げれば、「受肉」である。この世一切の「強さ」からモイラの凶暴と悪戯を飲み干すため、ただそれだけのために「弱く」あり続け、ときに「怯え」てもいるのである。

彼女がそのことを知らないのは当然だ。なら使徒パウロはなぜ知っていたのか???


2013/10/22

こんな最新刊が


An onymous出来たてホヤホヤの一冊となれば。。。この十月(今月)出版の『「福音書」解読 「復活」物語の言語学 』(溝田 悟士 講談社選書メチエ)か?例の如くアノニマスひさびさの超絶技「立ち読み」開始五分。ナヌゥゥゥ?コノ内容ドコカデ聞イタコトガ。。。とその場で著者履歴を確認。


ナ~ンダアノ子ジャン!とニンマリ。2010年3月、神戸松蔭女子学院大学でおこなわれた日本基督教学会での発表者のお一人であった。わたしもその会場にいたのだ。冷たい雨の降る一日だった。この若い研究者の書物に対するアマゾンユーザーのコメントは、たいへん厳しい。どなたが投稿されたか、およその見当はつく。

この三年とすこしの月日がありながら、古傷を癒しきれなかった著者にも失策はあるか。こういった主題の書物の出版は、時期を見誤ると満身創痍になることがある。じっくりと「売れない」著作で足元を固めてから、ポ~ンポ~ンと放り投げるかのようにして出版するのが賢明かもしれない。この分野で言えば、たとえば近年の大貫隆氏のように。。。

ま、とりあえず出版おめでとう。やがてあなたたちの時代がやってきますよ。

アノニマスは体調不良のため2012年から学会には不参加です。もう参加することもありません。
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2013/10/20

あしたは通院日ですぅ


An onymousあしたは心療内科通院日だ。ひと月ぶり。もう六年になる。片道一時間、診察一分、処方箋少々。ミーティング(患者会)をさぼり、知り合った患者さん(少し年上の男性クリスチャン)とコーヒーして夕方帰ってくる予定。

25℃に17℃らしい。ピンクのカットソーにやんちゃなブラックシャツをボタン全開で羽織って行こう。もちろんストールをふんわりと二重巻きに。パンツは、お気に入りのアルマーニジーンズ。靴は紅葉をイメージしたアメリカ製のスニーカー。靴下?う~ん、ブラックにゴールドのストライプが入ったものにするかなあ。バッグは、革製の超ミニ手提げ。二百万円ほどはぎりぎり入るスリムタイプ。色はみかん色?ジーンズのカラーにはぴったり。

ちょっとチンピラっぽいが、かなり伸びた髪の毛と、髪裾に残っているパーマのめっちゃルーズな感じが全体の雰囲気を中和してくれるはず。アッシュ・ブラウンのアッシュな感じがだいぶでてきた。よしよし。年内あと一回染める予定。こんどこそアッシュ・ベージュ(またはグレー)にする。セットは、ムースと手櫛だけで荒っぽく。ドライヤーより自然乾燥のほうがよさそうだが、時間がかかる。

時計(MT-G1500)・ネックレス(クロス系)・指輪(マリア&クロス系)。。。でいざ出発。香水は診察が終わってから少々。

ああ62歳パーキンソン病患者アノニマス。ホントよくぞ復活したよなあ、えらいえらい。好きなように生きんシャイ!

よろしく!!

>>>裏話:

このところ土・日の午後九時以降はNHKラジオ「ワクテカラヂオ学園」に没頭しているらしい。。。リスナーのほとんどは中高生だっちゅうのにもう。。。

2013/10/18

森鴎外はいかが?


An onymous三浦綾子、遠藤周作、曽野綾子、椎名麟三などを引き合いにだされる方々が多い会合などで、森鴎外!と開口一番ぶっきらぼうに言い放つ、そんな人が教会にたくさんおられればいいのになぁ、とわたしなんぞは妄想する。


『舞姫』はもちろん、およそほとんどの短編のここかしこ、濃淡さまざまに残された鴎外のキリスト教観・宗教観には瞠目すべきものがある。

数ある短編例から一点。。。となれば、『かのように』を推奨したい。通読するのに15分もあれば、皆様方には十分であろうと思う。ただし新約聖書中、「コリントの信徒への手紙 一」七章29-31周辺に記述されている使徒パウロ三重の時間認識(覚知?)を頭に入れておく必要はある。

結論はふたつである。ひとつは、「かのように」という表現で示された現世(世俗)への関わり方が真逆になっている点にある。鴎外は現世の生をまっとうせんがために嘘を嘘として受容する必要に力点を置いているのに対し(短編『寒山拾得』はその実験であろうか)、パウロは不定未来に預言された終末時(メサイアの時)到来への切迫感から、途切れそうなほど希薄な現世への信徒的関与のモデルを強調している。

もうひとつは、大戦後の西欧においてキリスト教の政教分離(いわゆる世俗化)が進み過ぎ、特にフランスやイタリアで第二のルネッサンス(聖書の新たな解釈を通じ政教分離・世俗化の質を向上させるための運動)が起きている点にある。鴎外の『かのように』の逆転は日本では起こらなかったし、現在も起こっていない。鴎外の考え方を逆転させると、アウシュビッツ、ホロコーストにいたるまでの西欧キリスト教の暗黒史に突入する。今起きている西欧キリスト教の大きな変化と教会回帰は、その暗黒史を限りなく踏み台としたものである。。。というふうになると、もう日本のキリスト教指導者の出る幕ではないということにもなる。そもそも日本のキリスト教史には、逆転を呼び寄せうる歴史的な要因がまったく存在しないのである。だからこそ近年、アメリカや韓国のペンテコステ派、聖霊派、いわゆるリバイバル派等に寄生するようになってしまっているのであろう。

ところで『かのように』は、鴎外五十歳(1912)のときの作品である。

ぼくの祈りはひとことになりました


An onymous何を祈ってるの?。。。と聞かれて言葉がでなかった。存在の地軸がクラーっと揺れ始めてしまったからである。

その僅かなとき・ところを祈ら「ない」で通り抜けることなど、ぼくには怖ろしくてできないのだ。その不穏極まりないとき・ところを駆逐するのは、きまってほんの数分前のたわいもないぼくの日常である。ただ違うのは、それらがきまって奇跡の連呼のなかに凱旋してくることである。

ぼくが生きているのは、この主体と脱主体さらには主体の再領土化が、まさに恐怖の「祈り」のさなかで実現してきたからである。「助ケテクダサイ。。。」、ただこれだけの「祈り」であったのに。

2013/10/14

ニーチェ箴言散策集・私家版 (10)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


105節から109節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/10/10

ニーチェ箴言散策集・私家版 (9)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


100節から104節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/10/06

十字架の現象学 ご無沙汰失敬

厳冬の二月、ブログ更新ついに滞るにいたるも、その旨の周知だに思うにまかせず。さるに、不自由極まりなき身辺整理のときのみならず破天荒なときまでを、千変万化するやまいと老いの機嫌にあつかましくも卑しく乞うては、はや神無月。読者様方には、たいへん申し訳なく感じておりまする。