2013/12/11

「間主観性」「他者理解」への大きな誤解


An onymous フッサールの「間主観性」がわたしたちに抱かせそして感じさせた希望と失望を、「間テキスト性」の側から相対化し賦活させようとしたジュリア・クリステヴァ(1941-)の思索の生動性はもはや過去のものである、というわけでは必ずしもないのだ。

80年代になってさらに過熱したポスト構造主義の夥しい数の言説の渦の中に、はかなくも巻き込まれて浮上することができなかっただけのそれはただの不運、としか言いようのない哲学史の悪戯がクリステヴァを選んだ、それだけのような気がわたしにはする。

ブルガリア出身のユダヤ系評論家・哲学者・精神科女医であり、フランスを舞台に活躍してきた彼女の語りはじつにさりげなく示唆的で、まるで人それぞれの好みまで気遣った淡いコロンのような香りが、翻訳からもしてくる。

次は、84年の講演の翌年に出版された講演記録の一部である。クリステヴァ四十四歳。


皆さんが経験する頭痛、麻痺、出血などはおおよそのところ、記号象徴化(サンポリゼ)されていない被抑圧事象が器官内に回帰することです。憎悪なり愛なりの言葉の抑圧とか、いかなる語をもってしてもしっくりこない微妙な感情の抑圧が生じた場合、どのような心的記載や心的表象をであれ、これをかいくぐることが絶えてなく、諸器官が攻撃を受けて変調を来すようなエネルギーの放出が始まります。(『初めに愛があった 精神分析と信仰』の1より 枝川昌雄訳)
「症状(病状)」を氷山の一角として、その不透明あるいは不可視な水面下の出来事を直観しえた人間ならではの静かな語りである。

もちろんこのような見方は、彼女固有のものではない。80年代半ばを生きた精神科医であれば、だれが語ってもおかしくはない内容である。

ただ彼女にこのような「言及」を可能ならしめたものがはたして何であったのかについては、少しは意識しておいたほうがよいと思われる。

上掲書「2 絶ちがたい幻覚」において彼女はこう語っているのだ。
新しいタイプ、それは精神分析が知の主体をカッコに入れず、中立・中性の主体に仕立てあげないからです。ことは逆に、知の主体は自分自身、患者の話を聴き取る行為に巻き込まれた状態で、精神分析的解釈の対象それ自体を構成するのです。
前文はずばりフッサールが提唱した現象学の方法的初動作「エポケー(判断保留)」に対する批判であるが、そこを踏みつけ跳躍して捉えた第二文目の内容に、ぜひとも注目して頂きたい。

フッサールが苦悩しハイデガーが可能な限りの無関心を装った、そしてメルロポンティを人のいない砂漠に追い込みレヴィナスやアンリまで巻き込んでも開かなかった「間主観性」の錠前、「他者理解」へのじつにシンプルな錠前が、そこにはある!
知の主体は。。。(他者の語り=パロールを)聴き取る行為に巻き込まれた状態で。。。解釈の対象それ自体を構成する。。。 ( )内アノニマス
これである。

この「聴き取る行為に巻き込まれた状態」こそ、すべてを追い越して「間主観性」「他者理解」がわたしたちに要請する唯ひとつの「覚悟=自他の命を懸けあうこと」と等価交換されるようにして開示する「状態」なのである。そのいわば自我/他我の瀕死の「状態」で「解釈」を続行し、九死に一生のところで得たノエマを掠め取るようにして抱きかかえ、その「状態」からすばやく脱出帰還すること。「間主観性」はそのように証しされ、「他者理解」もそのようにある時は衝撃的にそしてある時は忍耐強い継続的なスパンにおいて実現するのである。これはもはや、ドラマツルギーである。もちろん、失敗する場合もある。否そのほうが圧倒的に多いはずである。だから、世界の平和はますます遠ざかっているのであろう。

ルカ福音書10章には、「善いサマリア人」の話がおさめられている。

しかしこの物語りは、思うほど簡単な記事ではないのだ。つまり「当為(倫理規範・定め・掟・戒め等)」を強調するための物語りではまったくなかったのだ。クリステヴァは、そのことを臨床体験を通じ確信していたにちがいない。彼女の価値は、フッサールに色濃く残余していた演繹推理を、それとは真逆に位置するアクチュアルな臨床結果(体験の脱-体験化)を通して粉砕したことにある、とわたしは思う。「善いサマリア人」における展開の意外さと瓜二つではないか。

哲学者であり小説家でもあり、さらには高齢になってからの転回者でもあった(と言われている)ミシェル・アンリ(1922-2002)は、『受肉 <肉>の哲学』第三部終盤第四十七節「生の現象学における他者経験」の「帰結」の第一番目を、こう叙述している。
あらゆる共同体は、本質上、宗教的であり、超越論的<自己>たちのあいだの関係は、すべての点において、またあらゆる仕方で、絶対的<生>への各々の超越論的<自己>の関係を、宗教的な絆(religio[宗教])を、前提としている

神学臭たちこもる文体であるため、本書の訳者中敬夫氏ご自身が、「解説」のIV「残された問題――結びにかえて」において「汎神論」に回帰する可能性を指摘されており、叙述の「十分な透明性に達していないように思える」とまで書き記されている。

叙述という事象を見る限り確かにそのようには感じる。

しかしアンリの叙述をあくまでもターミナルとして、継起的にではなくその奥域からあたかもリゾームのような性格を帯びながら現象しわたしに近づいてくる過程全体に恐る恐る「巻き込まれ」てみると、アンリの思いはクリステヴァの思いの質に重なろうと懸命になっているのがわたしには分かる気がするのだ。

ただアンリの憂鬱は、男女のエクスタシーがそれぞれ弧絶して完了してしまうという自身の個別的体験に、人間による「他者経験」のそもそもの限界を感じ取ってしまった、そのこと自体にあったのではないかと想像する。「他者経験」はセックスだけではない。無限模様である。「絶対的<生>」という表現の異様な頻出度の高さは、アンリ自身の内的時間が一度も粉砕されていなかったことの露わな証しにもなっている。しかしそのことにアンリ自身が気づいていない、それこそがアンリの残してくれた貴重な問題ではないだろうか、とわたしなどは感じてしまうのだ。
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