2012/04/21

罪の赦し・贖罪論を批判する

[イエス] ブログ村キーワード
贖罪とは、ギリシア的思惟の薫風に靡いた「陳述」にすぎない。いや、後人の「いたしかたのない弁証」であった、と申し上げたほうがよいかもしれない。

そもそも十字架とは、メタフィジカルな解釈がそこから発動する思惟の起点などではなかったはずである。それは、一言に依らず完結したイエスの自己示現であり、わたしたち人間存在の如何ともしがたい根拠性(機序)を照射する「ともし火」にも匹敵するものであった。今なおそうであろう、とわたしは感じている。それ以上でも、それ以下でもない。

イエスの伝承は、そう告げている。
for there is not anything hid that may not be manifested, nor was anything kept hid but that it may come to light. (Mrak4.22, from YLT)
隠れながらにして現れないものなどはなく、明るみに出ずして秘められたままのものもまたない。(訳An)
' light ' と逐語訳されたギリシア語は、中性形容詞 φανερος(ファネロス) の単数対格 φανερον(ファネロン) で、φα- を語根としている。

この語根 φα- からハイデガーは、「現象(Phänomen)」の本義を次のように救済している。
Der griechische Ausdruck φαινομενον, auf den der Terminus ≫Phänomen≪ zurückgeht, leitet sich von dem Verbum φαινεσθαι her, das bedeutet: sich zeigen; φαινομενον besagt daher; das, was sich zeigt, das Sichzeigende, das Offenbare, φαινεσθαι selbst ist eine mediale Bildung von φαινω, an den Tag bringen, in die Helle stellen; φαινω gehört zum Stamm φα- wie φως, das Licht, die Helle, d. h. das, worin etwas offenbar, an ihm selbst sichtbar werden kann. Als Bedeutung des Ausdrucks ≫Phänomen≪ ist daher festzuhalten: das Sich-an-ihm-selbst-zeigende, das Offenbare.; SEIN UND ZEIT, § 7 A. Der Begriff des Pänomens
「現象(Phänomen)」の語源となるギリシア語表現ファイノメノン(φαινομενον)は、みずからがみずからを見せる、という意味の動詞ファイネスタイ(φαινομενον)から派生している。ファイノメノンが、みずからを見せるみずから、いわば自己顕現してくる当のもの、あるいはあらわになってくるおのずからのもの、などを意味するのはそのことによる。ファイネスタイ自体、日のあたるところにもたらす、明るみに据え置く、といった意義を有するファイノー(φαινω)の中動相(再帰的形態)である。ファイノーは、光や明るみ、つまりそのなかであるものがあらわになり、みずから自身に即して看取られるようにならしめるものを意味するフォース(φως)と、語幹ファ(φα-)を同じくしている。以上のことから、「現象」という表現の意味として執念されるべきは、みずからをみずから自身に即して見せるもの、つまりあらわになってくるもの、ということになる。(訳An 斜体無視)
ハイデガーの語源分析最大の功績は、現象の「再帰性」を指摘したことにある。

「再帰」とは、存在論的に申し上げれば、「みずから(存在)」が「みずから(存在者)」の目的となって「みずから(存在者)」についての解釈を、自覚的にであれ無自覚的にであれ、はたまた真であれ偽であれ、同期更新しつづける、といった循環様態それ自体を指示したものである。他者についても、同様である。

そもそもハイデガーの思索には、推理(形式)がない。認識の前提として措定されてきた静止的な「対象としてのみずから・対象としての他者」、というものがないのである。

したがって「現象」とは、このような刻一刻の循環機序において実行される忍耐強い問いかけと洞察に応じてしかその姿をあらわにすることがない、いわば秘匿された「あるもの」の生い立ちとその履歴一切である、と換言することもできよう。

「現象」を「事象」と混同する方々が多い。根を捨て花だけを愛でる性向がため、とはいえ、遺憾なことである。


さて冒頭のイエスの十字架であるが、やはり。。。

「贖罪」は華麗な事後陳述である、と申し上げるほかない。

つまりはこういうことである。

イエスの十字架には、「正面」と「背後」がある。

「贖罪」という陳述(命題)は、十字架の出来事を「正面」から事象として冷却し未知のものとして対象化する所作に先行されるものである。凡そ陳述に至る推理というものは、そこからしかはじまらない。

ところが聖書には、「贖罪」に着地するはずの推理自体が欠如している。

「旧約聖書」預言書をはじめとする雑多なメシア記述は、そのつどの固有の時代に待望されたメシアの範型、または類似した実際の顛末を伝承したものにすぎない、と読むのが自然であろう。「新約聖書」筆記者たちの引照がどこかしら稚拙で強引な印象を抱かせるのも、むしろイエスなきあとの原始教団内外の極度に逼迫した状況の関与がため、と捉え返したほうが自然である。その限りにおいて、意味はある。最もギリシア的であったパウロが懸命に駆使した背理法ですら(第一コリント15章等)、その鉄則が一部逸脱している。

いずれにしても、「贖罪」とは推理なき陳述である、とは言えよう。

正当な推理の欠如した陳述(教理教義)は、国家権力に抱合されやすい。当然のことながら、過度の排他性と攻撃性を帯びる。世界の教会史が、如実にそのことを示している。

だからわたしは、十字架の「背後」に関心を向けるのである。

あるもの(十字架)の「背後」に関心を向かわせるためには、あるものを起点として無自覚に立ち上がってくる思惟の執拗な傾向に、強く抗いつづける必要がある。

その忍耐に担保されてはじめて、イエスの十字架は起点から終点に転回する。冒頭唐突に、「自己示現(顕現)」、と申し上げたのはその意味からである。つまりイエスの十字架は、最も立ち遅れた出来事でありながら、しかしすでにすべての「現象」の完了を告げてしまっている出来事でもあった、とわたしは思っている。

たしかにイエスの十字架は、どこかしらへ旅立つためのあたかも出口であるかのように「叙述」されてはいる。がしかしそれは、たとえいかなる危機・希求があったにせよ、あくまでも筆記者の事後的な思惟を介した原始的な浪漫主義の域を出ていない。

イエスの十字架は、陳述の対象などでは一切なく、ただただ、わたしたちみずから「が」わたしたちみずからの如何ともしがたい存在根拠「を」わたしたちみずから「に」見せることを絶えず促して止まない「徴(しるし)」であったし、今もなおそうであろう、とわたしは了解している。

わたしたち人間の「如何ともしがたい存在根拠」とは、意識(認識)が捉えうる立ち遅れた時間と、意識(認識)では到底捉えられずに存在開示してしまう先立つ時間との絶対的な誤差、のことである。

この絶対的な誤差が、個々人の苦悩のみならず、この世界の事象ならびに事象間のあらゆる齟齬・紛糾を自己産出しているのである。

先立つ時間は、どのような陳述をも許さない。その意味でわたしたち人間は、先立つ時間に対して全くの無力(powerlessness)である、とは言える。

しかしそれは、言葉(陳述)としてそのように言える、というだけのことである。実際は、圧倒的な失望・圧倒的な絶望・圧倒的な危機の諸様態が、あろうことか、わたしたちから先立つ時間への無力をみごとに隠蔽してしまう。そこにさらなる不幸が重なるのである。

上掲のイエスの語りは、これほどに「如何ともしがたい存在根拠」の看取とともに、読み取られるべきものであろうとわたしは思っている。
隠れながらにして現れないものなどはなく、明るみに出ずして秘められたままのものもまたない。(同上)
絶対的な誤差が絶対的な誤差ではなくなること。

その可能性をこれほどの確信をもってみずからに即して示しえたイエスもしくは原始イエス集団の洞察こそが、福音の本義ではなかったろうか。

最後に罪とは、絶対的な誤差(存在者と存在との時間差)が自己産出するものである。したがって、生ある限り消えることはない。購(あがな)われることもない。

この根源的な絶望が、先立つ時を、みずからのものでありながら、もはやみずからの一部ですらないものとしてみずからに顕現させ畏怖させては、ついに A power more than ourselves とみずからに呟かせ回心させてしまうのである。絶対的な誤差をそのままに、しかし秘められていたはずの先立つ時が、常にみずからに顕現している存在様態に変様してしまうのである。

信仰とは、「現象」なのである。いわゆる「贖罪論」とはなんの関係もない、とわたしは思っている。

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