2012/11/10

"Stromata(ストロマタ)"にみるペトロ聖使徒の信仰

(以下の記事は、2011.02.16、に書かれたものです)

イエスの兄弟ヤコブについてもそうだが、プロテスタント教会の教説では、ともすればパウロの陰に隠れがちな使徒ペトロではある。

ご承知のように漁師であったペトロは、兄弟アンデレとともに、使徒となるべくイエスに声をかけられた最初の人物である。ガリラヤ湖畔でのことであった。

このペトロなる人物を知る上で、いわば 'primary source ' となるのは、万人祭司を唱えるプロテスタント教会の「正典」では、ペトロの通訳者であったマルコの「福音書」、そしてパウロの同伴者ルカによる「使徒言行録」序盤、さらに「ペトロの手紙 一・二」、となろう。

しかしそれらの対岸に、長きにわたりあまたの「外典」が放置されてきた現実もある。


翻訳者たちの労を介しその全貌が引き寄せられた今、「偽典」という概念に刻印されたスティグマを除去しながら、むしろ「正典」を豊かにせんがため、名誉を棄損された資料群として、いますこしは寛容に迎え入れてもよいのではなかろうか、とわたしは感じる。

Montague Rhode Jamesは、その著書"The Apocryphal New Testament "(Oxford: Clarendon Press 1924)において、"Kerygma Petri"(「ペトロの宣教」)の断章を含んだアレクサンドリアのクレメンス(150?-215?)による "Stromata "(『ストロマティス』)を、翻訳紹介している。



以下、殉教者ペトロを偲びながら、"Stromata "(『ストロマティス』)に埋め込まれたその「宣教」の一端に触れ、ヤコブ、パウロとはいささか趣を異にするその語りに、しばし、耳をそばだててみたいと思う。

なお、M . R . Jamesの上掲翻訳書からの引用、また日本語への重訳に関しては、米国カリフォルニア州で学ばれている秀逸なる若き研究学徒であり、全資料の管理者でもあるPeter.Kirby君を通し、有り難くも許可をいただいた。学的環境に全く与りえぬわたしにとって、これほどの恵みはない。Peter君にも、心からの感謝を申し上げる。
Peter.Kirby
blog; late peter kirby writings
website; Early Christian writings


さて、アレクサンドリア学派のプラトニストであったクレメンスは、"Stromata "(『ストロマティス』)第6編第5章第39節において、使徒ペトロの荘厳かつ深奥なる「宣教」を、ギリシア哲学の思惟の囲いの中にいながらにして鮮やかに捉え、そして引証している。
  • ' But that the most approved of the Greeks do not know God by direct knowledge, but indirectly, Peter says in his Preaching: Know ye then that there is one God who made the beginning of all things and hath power over their end; and: The invisible who seeth all things, uncontainable, who containeth all, having need of nought, of whom all things stand in need and for whose sake they exist, incomprehensible, perpetual, incorruptible, uncreated, who made all things by the word of his power. . . .that is, the Son.';ibid.

    キリスト教を是認したほとんどのギリシア人は、神それ自体を覚知しているのではなく、知識を介して神を理解しているということ、そのことをペトロは、彼の「宣教」の中で次のように語っている。

    「ならばこのことをあなた方は知りなさい。ありとしあらゆるもののはじまりを創られ、そのおわりをも裁量される唯一の神がおられる、ということを。」。

    そしてペトロはこう語る。

    「万物を知り尽くす目に見えない方、万物を含みながら含まれない方、万物が必要とし、またその在り処でもありながらにして姿を隠されている方、力ある「言葉」で万物を、したがって御子をも創られた、理解することもできず、絶えること朽ちることもなく、生み出されることもない方。」
拙訳で恐縮だが、よくお読みいただきたい。

プラトニズムの擁護者でもあったクレメンスは、「これぞペトロ」とも言うべき「宣教」の一部を抜粋しながら、ヘブライズムとヘレニズムとの潮境から鳴り響く不協和音を、その優れた聴覚をもって選り分けていたのがよく分かる。

クレメンスの用いたペトロの「宣教」を、「イデア(論)」傍証のためのただの援用、と考えるのは早計であろう。

なるほどクレメンスが用いたペトロの「宣教」の一部には、否定神学的な言説(陳述)が含まれている。

しかしその「宣教」表現は、「姿を隠されている方(having need of nought:無いことを必要としている方)」の「力(power)」と、「万物(all things)」との、統一的・全体的・同期的な生起が引き起こす絶えざるダイナミズムによって、不断に内破させられてもいる、という点をわたしたちは読み落としてはならないと思う。

ペトロの表現が、ただの「陳述判断」に落下することなく、強靭な「語り(証し)」であり続けているのは、それがためである。

ペトロの「宣教」に漲(みなぎ)るこの「語り(証し)」の力動性が、「姿を隠されている方(having need of nought)」の「力(power)」に方域を定めえた信仰に担保されていることを、疑うのは困難である。

換言すると、ペテロによるその方域の切り開きは、「姿を隠されている方」の「力」が、ペトロを襲った非連続な体験のさなかにおいてその先行性をすでに仄めかしていたことを「証し」するものである。まさにペトロは、その存在において仄めかされた根源的な現象を逃さなかったばかりか、以後の困難な試練の歳月のさなかにおいてさらに経験化し語りえた稀有の人であった、と解することができる。

仮に、多重文化者パウロが、「生ける神」のやや乾燥したリアリティを激しく宣教していたとして、同時期を生きたペトロは、「生ける神」のまさにアクチュアリティをそれとして宣教していた、と言えるであろうか。

だからこそクレメンスはそのことを、「覚知(direct knowledge:直接的な理解、直解)」、と呼ぶ以外なかったのではないか。あえて申し上げれば、「イデア(論)」へのハイリスク・ハイリターンな挑戦とさえ、クレメンス自身は感得していたのかもしれない。

クレメンスの弟子が、当代最大の神学者・教義学者と言われるオリゲネス(185?-254?)であったことは、指摘しておく必要があろう。この時代に関心を持たれる方は、信徒であられた故有賀鉄太郎氏不朽の労作『オリゲネス研究』を参照されたい。


クレメンスの叙述は、細部にもいたる。少し長いがご辛抱いただきたい。
  • ' Then he goes on: This God worship ye, not after the manner of the Greeks. . . showing that we and the good (approved) Greeks worship the same God, though not according to perfect knowledge for they had not learned the tradition of the Son. 'Do not', he says, 'worship' - he does not say 'the god whom the Greeks worship', but 'not after the manner of the Greeks': he would change the method of worship of God, not proclaim another God. What, then, is meant by 'not after the manner of the Greeks'? Peter himself will explain, for he continues: Carried away by ignorance and not knowing God as we do, according ot the perfect knowledge, but shaping those things over which he gave them power, for their use, even wood and stones, brass and iron, gold and silver (forgetting) their material and proper use, they set up things subservient to their existence and worship them; and what things God hath given them for food, the fowls of the air and the creatures that swim in the sea and creep upon the earth, wild beasts and fourfooted cattle of the field, weasels too and mice, cats and dogs and apes; yea, their own eatables do they sacrifice as offerings to eatable gods, and offering dead things to the dead as to gods, they show ingratitude to God, by these practices denying that he exists. . . He will continue again in this fashion: Neither worship ye him as do the Jews, for they, who suppose that they alone know God, do not know him, serving angels and archangels, the month and the moon: and if no moon be seen, they do not celebrate what is called the first sabbath, nor keep the new moon, nor the days of unleavened bread, nor the feast (of tabernacles?), nor the great day (of atonement).

    Then he adds the finale (colophon) of what is required: So then do ye, learning in a holy and righteous sort that which we deliver unto you, observe it, worshipping God through Christ in a new way. For we have found in the Scriptures, how the Lord saith: Behold, I make with you a new covenant, not as the covenant with your fathers in mount Horeb. He hath made a new one with us: for the ways of the Greeks and Jews are old, but we are they that worship him in a new way in a third generation (or race), even Christians.';ibid.

    それからペトロは、こう語り継いだ。

    「一般のギリシア人のやり方に倣うことなく、このような神をこそあなた方は礼拝しなさい。・・・わたしたちが受け入れた善良なるギリシア人とわたしたちとが、まさに同じ神を礼拝している、そのことを示す、ということ。よしんば、御子(イエス)についての伝承を聞き知らないでおられるがため、完全な知(覚知)に導かれてはいないとしても。」。

    確かにペトロは、「・・・ことなく・・・礼拝しなさい」、と語っている。しかしペトロは、ギリシア人の礼拝する神にではなく、その礼拝のやり方に倣わない、ということに言及しているのである。おそらくペトロは、ギリシア人にとって異質な神を宣明しなくても、神の礼拝方法を変革したであろう。では、「ギリシア人のやり方に倣うことなく」、とは何を意味しているのであろうか。ペトロ自身に、引き続き語らせてみることにしよう。

    「完全な知に導かれたわたしたちのように神を知るのではなく、無知の虜になることで、その支配権が与えらえた次のような物、たわいもない木や石から、青銅や鉄、金や銀にいたるまで、その物本来の用途も(顧みず)、自分たちの用途にかなうよう作り変えています。すなわちギリシア人は、それらを自分たちの生活に役立つようしつらえて、しかもそれ自体を礼拝しているのです。それだけでなく、日毎の糧として神が与え給うたもの、空を飛ぶ鳥や海中をおよぐ生き物、そしてまた地をはう生き物、たとえば、野獣や牧草に放たれた四足の牛、イタチはもちろんネズミもそうですし、猫・犬・猿・・・。みなさん!まさに神が備え給うたこれら自分たちの食べ物までギリシア人は、神々が食することのできる生贄としてささげ、また神々と無縁な者には、無益無用なものを与えています。つまり彼らは、神への不敬を証ししているのです。神はいませり、ということを否定するこのような慣習が、・・・」

    ペトロはまた、同じような物言いで語ろうとする。

    「あなた方は、ユダヤ教徒がそうであるように、イエスを礼拝していません。彼らは、自分たちだけが神を知っており、イエスを知らない、という思いを抱いています。そして天使や大天使、暦や月に仕えています。しかも、月が出なければ、いわゆる「最初の安息日」も、新月祭も、種なしパンの日も、祝日(幕屋祭?)も、グレート・デイ(贖罪の日)も祝いません。」

    そのように語りペトロは、何が求められているのかということについて、「宣教」の最後を次のように締めくくっている。

    「礼拝の時にあなた方は、次のように行いなさい。わたしたちが守りあなた方に述べ伝えていることを、聖なるもの義なるものにおいて会得しなさい。そして新しいやり方、つまりキリストを通して神を礼拝しなさい。主がどのように語られたか、すでにわたしたちは「聖なる書」のなかに見出しているからです。『御覧なさい、わたしはあなた方と新しい契約を結んでいます。この契約は、あなた方の祖先がホレブの山で結んだものではありません。神は、わたしたちと新しい契約を結ばれています。』それは、ギリシア人とユダヤ人のやり方が古いためです。しかしわたしたちは、新しいやり方で神を礼拝する、いわば第三の世代(民族)に属する者です。クリスチャン、がまさにそうなのです。」
  • (アノニマス)
威嚇的でもなく攻撃的でもなく、ましてパウロのように思惟的ですらない。朴訥でありながら強靭、しかも実にしなやかな語り(宣教)である。ペトロの為人が、髣髴(ほうふつ)としてもくる。


以上クレメンスが引証した"Kerygma Petri"(「ペトロの宣教」)の断章を重訳している間、「福音」という言葉の在り処に、わたしはずっと思いを馳せていた。

「福音(ギeuaggelion <eu[良き]-aggelion[知らせ])」という言葉自体を見聞したことのない方は、そう多くはおられないであろうと思う。

ただ「福音」という訳語を、わたし自身、使わないわけではないのだが、あまり好まない。その訓読、「良き知らせ」、という表現にもなかなか馴染めないでいる。' good news ' という近現代英語に接しても、そうである。ちなみに韓国語でも、「ポグ(「福音」の音読み)」・「チョーウン ソシ(その訓読み)」である。ただし韓国語では、文字には表れない発音の強弱長短によって、言葉の意義を賦活させることはできる。日本語には、方言を別として、そのような言語習慣はない。

古英語 ' god[神]-spell[言葉] ' から派生した ' gospel ' のほうが、まだしもシンプルではなかろうか。

いずれにしても、「ペトロの宣教」に働いていた「力」との結び目が、すでにほどけてしまっていることをもしや知らされずにして、わたしたちは「福音」という日本語を用いているのではないか・・・そんな気さえするのである。


その点、ドイツ語の ' Gote Nachricht ' には、考えさせられる。

ずばぬけた造語機能をもつドイツ語ではあるが、そのことが、日本語の「福音」という言葉の、いわば金属疲労の度合いを知らしめてくれる。

' Nachricht ' は ' nach+richt ' に分割される。

その契機は ' nach ' にある。元来は、「…の方へ、…のあとで」、を意味する前置詞であるが、名詞や動詞などにたやすく前接し、じつに多くの語彙を派生させている。あのヘーゲルが親しんだ ' nachdenken(追認する、追思考する)・das Nachdenken(追認、追思考) ' などもそうである。

注目すべき点は、その時・空間的性格にある。

「何か或るものから、時間的に不断に立ち遅れている」という意義と、「何か或るものに向かって空間的に不断に立ち返ろうとする」意義とが、裂きえぬほどに癒着しているのを、わたしは感じる。

ドイツ語を習い始めた人が困惑する事例の一種に、時間表現がある。

たとえば、「3時5分です。」、というたったこれだけのドイツ語表現が、すぐに出てこない。

' (Es ist) fünf Minuten nach drei. ' これだけなのである。

たったこれだけの原因で、せっかくの大志を放棄してしまった、そのような方々も多かろうと想像する。

「長針」は絶えず「短針」に遅れをとる。「3時」という時間領域のみならず、すべての時間領域の「60分」を、先行的に支配しているのは「短針」である。その「短針」から見離されることを「長針」は畏れているのである。だからこそ休むことなく必死になって、その「短針」に立ち返ろうとするのである。

「長針」は、すでに「3時」に突入した「短針」を「5分」立ち遅れながらにして、しかし「5分」立ち返っている。

「短針」の正体は ' richt ' 「(神の)義」である。その「義」との恒常的なよき循環。これが、' Gote Nachricht ' なのではないか、と感じる。

日本語ではどうか・・・

「3時」はあくまでも「3時」、「5分」はあくまでも「5分」である。つまり、「短針」と「長針」とがまったく断裂しているのである。ここに、日本の平均的な精神風土がある。

ところで・・

「祈っても祈っても、わたしの願いは聞き入れられません。苦しみも痛みも不安も恐れも貧しさも腹立たしさですら、いやましに増しています。イエス様の執り成しの祈り、またそれをお聞きになる神様は、どうして沈黙なさるのでしょう。イエス様の十字架によって、わたしの罪は購われたはずですのに・・・父なる神様は全知全能であられますのに・・・」

このような方にとっての「福音」とは、どのような出来事を指すのであろうか。

おそらく、この島国を跋扈(ばっこ)するいかなる「キリスト論(贖罪論)」、いかなる「神論」、いかなる「教義」、いかなる「教理」、いかなる「慰め」、いかなる「癒し」であれ、この方を倫理的に訓育し馴化(じゅんか)することはできたとしても、「福音」への道標を示すことは困難ではなかろうか、とわたしは思う。

なぜか???

この方の熱心な「信仰」は、すでに「逆立ち」させられてしまっているからである。

この方の「存在」の危機は、その「存在」に先行する紛うことなき力の層のうえに接して堆積し展開している。ところが、灯篭の如くはかなき思惟に身をやつす饒舌な羊飼いたちは一斉に、「そこに神と御子はおられない」、と指笛を吹き、このような方を激しく呼び戻すのである。そして、すったもんだの挙句、信仰の浅さ、罪の深さに自己回帰させて済ますのである。その結果、上述のように自虐的な苦悩が噴出するのである。

仮にもわたしなら、その方にとっては皮膚を剥ぐほどにも耐えがたく聞こえるであろうが、こう言う。

「あなたの熱心な信仰、あなたの熱心な祈りは、そのすべてがみごとに逆立ちしています。しかし自責する必要など、そもそもどこにもありません。あなたはただ、一人芝居を強要されているだけです。わたしにはハッキリと見えますが、あなたはどうですか?」

もしその方が激怒されるとしても、その苦悩のすべてが、ただの甘えにすぎなかったことは証しされる。反対に、きょとんとされた場合、あるいは怪訝な表情を示された場合には、「祈りの出所」の追跡と、祈りの方域の勇気ある根源的な上書きをこそ、わたしは促すであろう。


奇しくもハイデガーは、こんな叙述を残している。
  • 「落ち着いた気分というこの気分は、死への先駆のなかで開示される全体存在しうることの可能的な諸状況を瞬視している決意性から、発現する。」(『存在と時間』第六十八節(b) 渡辺二郎訳)
この背面に接している力こそ、「福音」を「福音」たらしめるものであったのではなかろうか。


(以上の記事は、2011.02.16、に書かれたものです)

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