2012/11/10

心の最前線

(以下の記事は、2010.09.30、に書かれたものです)

「前頭葉切り」という言葉を、皆様方はご存知であろうか。

なんとも物騒な表現ではあるが、これで1949年にノーベル医学生理学賞を受賞した神経学者がいた、というのだから驚きである。ポルトガルのモニス氏が、その人らしい(時実利彦『人間であること』)。

前頭葉をバサリと切ったら、チンパンジーがおとなしくなった。こりゃしめた、ということで、不安神経症や躁うつ病患者の前頭葉を切った。効果があった。全世界に波及した。

そこまではよかった・・・

ところがところが、バサリと切られた患者の予後を観察すると、思考力・創造力・意志力・情操の消失等々、いわば植物人間。こりゃあ、おとなしくもなるわい、と感じた。嘘のようなまことである。


さてそのまことから半世紀以上がたっているわけだが、われわれの「心」はどのように捉えられているのであろうか。

その最前線、と言っては大仰だが、斎藤慶典氏(慶應義塾大学)の書かれた『「心―脳」問題と現象学』(2010.03号『思想』収録)は、なかなかおもしろい。上下二段組全34ページほどの学術論文である。


無礼ながらそのご結論だけを簡単に主題化させていただくと、およそ次のようになるであろうか。

---われわれが一般に思い浮かべる素朴な「心」は、「脳」に規定されている。このことを疑うわけにはいかない。しかしながら、「脳」に規定されている、というその記述(高次の心の内省作用)がなければ、そもそも「心」に対する「脳」の規定性自体、われわれは意識することが出来ない。その意味で、「心」は「脳」に規定されながらも、高次においては「脳」を「包摂」するものでもある。したがって、「脳」と「心」の間に、留保なしの直接的な因果関係を読み込むことは問題である。

しかもこの高次の「心」は、「脳」と「心」の法則性(の記述)につねに先立っており、「脳」の在・非在と運命をともにしながらも、自己のみならず他者および世界にも開かれた異なる次元を形成している。ゆえに、行為の「自由」とその対抗となる「因果的必然性」は、相互に自己疑念を内包しながらも、高次に開かれた「心」の可能性のなかにおいては、統一されているのである。---


およそ、このようなご意見である。

わたしが、「なかなかおもしろい」、と上述した理由は三点である。

第一点目は、近代哲学の古典的な難問とされてきた「自由」と「必然」の矛盾を、E・フッサールの「超越論的主観性(相互主観性とも)」において統合せんとされたその着眼の斬新さ、である。

第二点目は、論文を拝読しながら、思わず毛沢東の『実践論・矛盾論』「矛盾論」の次の一節がぼんやりと浮かんできたからである。
  • 「歴史の発展の全体のうちでは、物質的なものが精神的なものを決定し、社会的存在が社会的意識を決定することを認めるが、同時にまた、精神的なものの反作用、社会的存在にたいする社会的意識の反作用、経済的土台にたいする上部構造の反作用をも認めるし、また認めなければならない」(松村一人・竹内実訳 1974年版岩波文庫)
特に他意はないが、パラダイムだけを取り出せば若干の類似性が見られる。ちなみにこの毛沢東の論文は、1937年8月延安の抗日軍事政治大学での講演が基となっている。

第三点目は、「脳―心1―心2」という積み上げ方の順次は、その逆も真であることを含意しているのか、ということと、たとえば「心n」といった派生を食い止めている条件は何なのか、といった浅学ゆえの疑問がわいてきたからである。


この第三点目の疑問を、少しだけ敷衍したい。特に、心nの派生、についてだけ触れておく。

わたしの言う「心nの派生」とは、心3あるいは心4・・・などのことである。

斎藤氏の考察された「脳―心1―心2」が、「心2」で終わっているのは、そこが他者あるいは世界との臨界であるということを、氏が一度も疑われなかったことの帰結ではなかろうか、と推測する。依拠されたE・フッサール自身が、そうである。

わたし自身は、「心2」の臨界性は思うほど自明なものではない、と感じている。それは、この13年の間わたし自身が「心nの派生」に苦悩し、また同じように苦悩するじつに多くの人々に関わらせていただき、その実際を目の当たりに見聞してきたからでもある。

統合失調症の人の心しかり、癲癇病者の心しかり、躁・うつ病者の心しかり、解離性人格障害者の心しかり、性同一性障害者の心しかり、離人症者の心しかり、依存症者の心しかり、フラッシュバック体験者の心しかり、パニックさなかの人の心しかり、自傷行為者の心しかり、バイオレンスの当事者の心しかり、そして厭世者の心しかり・・・

多くの彼・彼女たちは、程度にこそ差はあれ、「心2」からの衝撃的な疎外、隔離、逸脱の体験者である。つまり、自らの生一切を維持せんとする限りは、その不本意な「心n」の派生に身を任せる以外なかった人々なのである。彼らの話に聴従していると、おしなべて、他者および世界との和解が保たれていた「心2」への諦念、あるいは激しい思慕のようなものを感じる。言葉の背後に広がるその「気分(情状性)」こそ、「心n」がまさにそこに開示していることの紛うことなきしるしである。

したがって斎藤氏の示された「脳―心1―心2」という立論とその証明は、あくまでも標準モデルという試験管のなかで実施されたものであろう、と思われる。

「心2」からの疎外・隔離・逸脱を体験せざるをえなかった人々は、「心2」と和解しているかのように見える他者や世界のみならず、自らのなかに痕跡として残っている「心2」の自画像の自体存在にすら、ひそかに疑惑を抱く。

回復とは、「心2」に回帰することでも「心2」を奪還することでもない。その願望は、「心2」に安住する者たちのエゴである。ご当人たちの回帰・奪還は、不可能事である。最も大切なこと、それは、「心nの派生」のなかに永住する以外ないことを察知・了解し決断することである。そしてそこにおいて再度、「自画像」を描ききることである。その「自画像」を展示し続けることである。


パウロは、次のような出来事を述べている。
  • 「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。」(コリント第二12.2-4)

    ' I have known a man in Christ , fourteen years ago -- whether in the body I have not known , whether out of the body I have not known , God hath known -- such an one being caught away unto the third heaven ; and I have known such a man -- whether in the body , whether out of the body , I have not known , God hath known , -- that he was caught away to the paradise , and heard unutterable sayings , that it is not possible for man to speak. '(Young's Literal Translation)
キリストに結ばれ第三の天にまで引き上げられた人を知っている・・・

「新共同訳」のまことにお粗末な翻訳から、皆様方は何を感じられるだろうか。「恵まれた体験だ。」「素晴らしい体験だ。」、と知ったかぶりして済ます説教が、この島国には多い。「ここは、残念ながらわたしには分かりません。」、と正直になぜ言わないのだろうか、とわたしなどは思う。

併記したロバート・ヤングの、ギリシア語底本に忠実な逐語翻訳をご覧いただきたい。

拙訳で恐縮だが、この程度にはなろう。
  • 「わたしは、キリストにある一人の人の出来事を知っています。それは十四年前のことです。それが、その人の体のなかで起こったことなのか、外で起こったことなのか、今もってわたしには分かりません。しかし神は、知っておられます。まるで第三の天にまで連れ去られてでもいるかのような、そのような一人の人を、今もわたしは忘れられずにいるのです。もう一度言います。その出来事が、その人の体のなかで起こったのか、外で起こったのか、今もってわたしには分かっていないのです。神のみぞ知る、ということなのです。しかし思うに、彼はパラダイスに連れて行かれ、伝えることなど到底できない名状しがたい語りというものを聞いたのです。」
これで、パウロの了解と解釈が少し見えてくる。

「ある人」(パウロ自身とする説もあるが、どちらでもよいことである)に尋常ならざる出来事が起こっていた。それは、その人の身体を含みながら全存在自体を震撼させるほどのものであった。その状況のさなかに、目撃者としてのパウロもいた。

「ある人」が、紛うことなき「心nの派生」のただなかにいたことは、間違いなかろう。

仮にその状況に居合わせていたパウロが、上述した安定的な「心2」に安住する人物であったとするならば、立ち止まることはあったとしても、その場に居続けることは不可能であったろう。低次にある「心2」からは、高次にある「心nの派生」が見えないからである。

とするとパウロは、自らの「心nの派生」において、「ある人」の「心nの派生」を瞬時に了解した、ということになる。「その人の体のなかで起こったことなのか、外で起こったことなのか、今もってわたしには分かりません」、というのは、「ある人」に起きたヌミノーゼ(畏怖)をじゅうぶんにパウロが感じとっていたことの証しではなかろうか。

だからこそ、「しかし思うに、彼はパラダイスに連れて行かれ、伝えることなど到底できない名状しがたい語りというものを聞いたのです。」、というパウロの解釈が起動したのではなかろうか。

さらに言えば、「心nの派生」とは、実は「心2」から捉えたただの異常なのではなく、「心2」の解体可能性をも見透かすことのできる高次、すなわち信仰の生息次元なのではないか、とわたしは感じている。

そこをバチンと射当てるのが、説教者の務めではないのだろうか。

そのためには、少なくとも「心nの派生」者たちを、説教者が忍耐強く追認していなければならない。そこに神学は不要である。必要なのは、御身をその渦中に投ずる覚悟のみである。


(以上の記事は、2010.09.30、のものです)

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