2012/11/20

私家版・ニーチェ箴言散策集 (4)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


75節から79節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

)))075節(((
Grad und Art der Geschlechtlichkeit eines Menschen reicht bis in den letzten Gipfel seines Geistes hinauf.
或る人間の性欲の程度と性格とは、その精神の絶頂にまで及ぶ。 
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原文冒頭は、ご覧のとおり<Grad und Art der Geschlechtlichkeit eines Menschen…>となっており、どちらかと言いますと、「人間性欲の度合いや流儀」、つまりはその質・量、ということでしょう。

もちろん「性欲」という表現は、ニーチェ不動の思索の核となります「意志」や、「意欲」や、「根本衝動(情念一切)」や、それらを作動させる場としての生成の源(みなもと)「力」、等々のメタファーです。


箴言の「主題」を「問い」の形で述べますと、ではなぜ、多種多彩な「意欲」や「情念」のうちから、あえて「性欲」だけを選び取ったのか?ということになります。

結論を急ぎますと、「神」とは異なる「超人」、という代物(しろもの)の質・量を、万人に体感させるためのニーチェ的な方策ではなかったか、というのがわたしの推断です。


『ツァラトゥストラ(はかく語りき)』においては、「ツァラトゥストラの序説」からはやくも、「超人」のイメージは語られています。

この「序説」自体、量的にごく僅かなものですが、それでも、「大地」、「大河」、「雷電」、「狂気」、「熱狂」、「狂熱」、「灼熱の火」、「最大のもの」、などの表現が、群集を前にしたツァラトゥストラ自身の語りの中に、連続して登場しています。

「性欲」という表現自体は、『ツァラトゥストラ(はかく語りき)』の中に出現しません。本書全体の完成が、当箴言の収録されています『善悪の彼岸』完成の、すこし前であったことに関係しているのかもしれません。(この段、中央公論社中公バックス版「世界の名著」57所収「年譜」参照)


上掲箴言の「絶頂にまで及ぶ」は、当然、オルガスム(orgasm)のことで、究極の目標とする強烈な官能的快感に「性欲」が至ることです。


箴言に、高きところへ超克せんとする「超人」のイメージを重ねましたのは、わたしの独断ではありますが、しかしそれ以外、どのように解すればいいのやら。。。あまりにも表現が直截すぎて、年齢の所為もあってか、少々困惑させられた箴言ではありました(苦笑)。

(2008年07月12日 記)

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)))076節(((
Unter friedlichen Umständen fällt der kriegerische Mensch über sich selber her.
平和な状態にあるとき、好戦的な人間は自己自らに襲いかかる。 
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短い箴言ではありますが、とても大きくて本質的な問題性を帯びています。

その「問題性」を一言で申し上げますと、歴史の推進力とは何ぞや、というものです。

これで終わってしまいますと、「ナメトンカ!」、と叱られそうですので、すこしだけ敷衍(ふえん)することにします。


まず、「平和な状態」、ですが、これは表現どおり、当該社会・国家の安寧秩序(あんねいちつじょ)が、とりあえずは無事に保持されている状態です。その反対は、「危急存亡のとき」、になります。


次に、「好戦的な人間」、のほうですが、こちらはいささか問題のある語句のようです。

言語学的には、限定語句でもあり、認識論的に判断しましても、「好戦的でない(平和的で温和な)人間」を対項に措定した、いわば表現からは隠された前提のもとにおいて、種別的に概念化されているもの、と普通ならば考えるでしょう。

ところが、何度かこの箇所を往復していますと、イヤ待テヨ。。。というわたしの頑固虫が、またもや、もぞもぞと動き出し、ソウデハナイカモ。。。とわたしを小声で唆(そそのか)します。


この「好戦的な人間」が、仮にも、種別化された概念でない、としたならば、いったい何者なのか。。。?

応えるのに難渋しはするのですが、ソウデハナイカモ。。。という気持ちが消えません。皆さん方なら、何者だと思われますか?

手掛かりとしましては、やはり、「平和な状態」のときではなく、「危急存亡のとき」のわたしたちの身の処し方にあるでしょうか。

逃げ惑う人、為すがままに身を委ねる人、そして戦う人。。。人それぞれ、と言ってしまえばそれまでなのですが、しかし、わたし自身を例にとれば、わたしは、槍や箒(ほうき)など、何を持ってしてでも、ダメモトの気持ちで戦います。

逃げ惑っても、いつかは捕縛されます。為すがままに身を委ねるにしても、いくらかは、信仰心が求められます。それならば。。。というのが、今のところのわたしの選択です。

しかしわたし自身には、自分は「好戦的な人間」である、という自覚が微塵もありません。なのに、「危急存亡のとき」を想像しただけで、想定事実としては、「好戦的な人間」になっています。


どうやら、「好戦的な人間」とは何者か、という問いかけは、「わたし(自分)とは何者か」、のステロタイプであるのかもしれない。。。とまあ、そういうふうなことを、じくじくと、考えたりしています。

ニーチェには、凡そ人間たるもの「好戦的」なり、と考えていた形跡があります。

『近隣の種族の間に敵がもはやなくなり、生活のための資力が、まして生活を享楽するための資力が有り余るほどになる。一挙にして古い訓育の紐帯と拘束が切れる。・・・中略・・・。歴史のこの転回点には、互いに並び合い、またしばしば入り混じり絡み合って、一つの見事な、多様な、原始林にも似た繁茂と伸長の姿が示される。その生長の競い合いには一種の熱帯的なテンポが見られ、また巨怪な没落や自滅も現われる。これは、互いに「太陽と光とを求めて」格闘し、もはやこれまでの道徳からはいかなる限界をも、いかなる制御をも、いかなる保育をも取り出すことを知らないような、荒々しく互いに対向し合う、いわば爆発的な利己主義の所為である。』(『善悪の彼岸』第九章 一部傍点あり)

なんともおどろおどろしい表現が連ねられているのですが。。。

要は、長い戦いの果てに獲得した「安寧秩序(平和な状態)」も、やがては自らのその姿に耐えきれなくなり、またぞろ戦いへの「意欲」に傾斜するように、いわば破壊と創造を延々と繰り返す如き本性を、その存在の自同性として、わたしたしはわたしたち自身に内在させて存在しているのではないか、ということのようでもあります。


これでどうにか。。。箴言の、「自己自らに襲いかかる」、という箇所の歴史解釈も、可能になってきます。


いやぁホント、ニーチェ様には、やきもきさせられてしまいますねえ(苦笑)。

(2008年07月12日 記)

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)))077節(((
Mit seinen Grundsätzen will man seine Gewohnheiten tyrannisiren oder rechtfertigen oder ehren oder beschimpfen order verbergen: - zwei Menschen mit gleichen Grundsätzen wollen damit wahrscheinlich noch etwas Grund - Verschiedenes.
人々は自分の主義・原則によって自分の習慣を暴圧するか、是認するか、尊重するか、誹謗するか、隠蔽するかしようとする。――それ故に、同じ主義・原則をもつ二人の人間でも恐らく根本的に異なるものを欲することがありえよう。 
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ポイントは、「習慣」に秘められたニーチェの歴史感覚でしょう。

ここが解(ほど)けないと、「同じ主義・原則をもつ二人の人間」なのに、どうして、「根本的に異なるものを欲することがありえ」るのか、という問題性への了解が困難になります。


『善悪の彼岸』には、「民族と祖国」、という章が第八章として独立に設けられてはいますが、むしろ第九章、「高貴とは何か」において、この「習慣」の本性を窺わせるような叙述が示されています。

「一つの種族が発生し、一つの類型が固定し強くなるのは、本質的に同じ不利な諸条件との長い戦いのもとにおいてである。」(一部傍点あり)

そして、次のように結ばれます。

「僅かではあるが極めて強い特色をもった一つの類型、厳格で戦士的で賢明寡黙で排他的で閉鎖的な人間の一つの類型(しかもそれでいて社交の魅力と≪ニュアンス≫に対する極めて繊細な感情をもった一つの類型)が、このようにして世代の交替を越えて確立されるのである。」

実際は、「徳」がいかにして生じるか、という文脈において叙述されたものではありますが、そのまま、「習慣」の成立にも転用することができる内容になっています。


箴言に登場します「主義・原則」は、「理性」や「認識」に属するもので、よしんばどのような種別の「主義・原則」であったとしても、ニーチェにとって見れば、どれも人間存在の前景に位置しているものにすぎません。


ただし、その「主義・原則」によって、上述のように形成された「習慣」をどのように変容させようと、すべてを無にすることは、アナーキスト(無政府主義者)でないかぎりは、不可能です。

そうしますと、「同じ主義・原則をもつ二人の人間」であっても、その「同じ主義・原則」の拘束や支配を受けない「習慣(風習・儀礼・伝統など)」の残余、というものの影響に、存在自体において、そのつどさらされて「ある」、ということにもなります。

したがって、実存論的・存在論的な立場にいるニーチェから見れば、その「習慣」の「残余」を、どのように評価し選択するか(意欲するか)は、ひとえに、そのつどの人の「力」への「意志」の作用如何(いかん)によるもので、畢竟、それは人それぞれに違うものになるのだ、ということになるのでしょう。

「二人の人間」が異民族であればなお、その「異なるものを欲する」意欲の違いには、顕著なものが見られる、ということなのでしょう。


強引に換言してみますと、「意欲(根本衝動たる意志)」が「同じ主義・原則」を「突き抜く、突き裂く」、とでも表現できるかもしれません。

こう表現しますと、あの連合赤軍事件の顛末(てんまつ)が思い出されてもきます。壮絶な意欲の介入劇でした。

(2008年07月12日 記)

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)))078節(((
Wer sich selbst verachtet, achtet sich doch immer noch dabei als Verächter. 
自分自身を軽蔑する者も、やはり常にその際なお軽蔑者として自分を尊敬する。 
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人間存在の内奥の、いわば「臨界点」に立った者のみに許された表現、と言ってもいいでしょう。

「力への意志」の自我分裂と超克の瞬間が、簡明に描出されています。

自我分裂、とは言いましても、「軽蔑する者」が、そもそも自らの支配者(命令者)でなければ、「軽蔑」することすら出来ない、という意味での自我分裂です。そのことによって、自己超克の可能性が示唆されています。「尊敬」とは、その超克を前提とした自称敬意です。


『ツァラトゥストラ(はかく語りき)』第一部「ツァラトゥストラの序説」4でニーチェは、架空の超人ツァラトゥストラに、次のように語らせている箇所があります。

「 わたしは愛する、大いなる軽蔑者を。かれは大いなる尊敬者であり、かなたの岸への憧れの矢であるからだ。」(手塚富雄訳 「世界の名著」中央公論社中公バックス版57 初版1978年 改段ママ)

自らのなかにある「弱い意志」(『善悪の彼岸』第一章)は、「軽蔑」という名の、「力(生成)」への「意志の作用」を経由せずしては超克できるものではなく、したがって人間存在をさらなる高みに誘(いざな)うこと自体も成立しなくなる、という意味から、「尊敬者」とも呼ばれ、「憧れの矢」とも喩えられているのでしょう。

「他者」との関係や場面を基体とした通常の倫理観では、「軽蔑」はむしろ、具体的で非倫理的な仕草として種別化されていますため、その立場に立つかぎりは、以上のことは、理解しがたい、否むしろ容認しがたい内容ではあります。


しかしながら、ニーチェの言う「軽蔑」は、他者や場面や事物などを第一義的な対象としたものでは決してなく、あらゆる価値を含む「情念」や「意欲」、つまりは、「認識論的な自我」前において作動する「根本衝動」一切のさなかに、同期的に起動する「意志の作用」の結果にすぎない、と見ることもできます。

上掲の箴言冒頭、「自分自身を軽蔑する」自体がすでに、尋常な仕草とは必ずしも言えないものですが、そのことも、今述べましたニーチェ特有のオントロジー(存在論)に身を寄せてこそ、ある程度まで了解することができるようになるものではないか、と思われます。

冒頭、自我分裂と称しましたのも、「強い意志」(同書同章)と「弱い意志」との死闘を、一過的な「異常態」であるどころか、「生」あるかぎりの「常態」と感知するニーチェの思索様態に、便宜上、焦点を絞った表現にすぎません。


上掲『ツァラトゥストラ』第三部「大いなる憧れ」には、次のような「語り」があります。

「 おお、わたしの魂よ。わたしは軽蔑するということをおまえに教えた。それは虫けらのようにやってくる軽蔑ではなくて、愛情をもつ大いなる軽蔑である。つまり最も軽蔑することによって最も愛をそそぐ軽蔑である。」(改段ママ)

この「愛情をもつ大いなる軽蔑」に値するものとして、ツァラトゥストラは、たとえば、「小さい徳」「小さい賢(さか)しら」「砂粒のような斟酌(しんしゃく)」「あわれむべき安穏」等々を指摘しています(同書「第四・最終部」3)。

そして同時に、次のようにも諭すことも、忘れていません。

「 自分を抑制して、通り過ぎるほうが、より多くの勇気の例証であることが、しばしばある。それはいっそうおのれに値する敵と戦うために、おのれを貯えておくのである。」(同書「新旧の表」21 改段ママ)


ツァラトゥストラの基本的な「問いかけ」は、「人間はどのようにして保存されるか」ではなく、「どのようにして乗り越えられるか」にあります。

その点において齟齬(そご)が生じますと、思わぬ誤解が生じたりもします。その意味では、『善悪の彼岸』、ならびにその誤解への「一つの論駁書」として著わされた『道徳の系譜』は、ニーチェの思索から逸脱しないための重要な文献となるでしょう。

ほぼ同時期に完成した大著、『ツァラトゥストラ(はかく語りき』は、そのニーチェの思索の、叙事的展開として読むべきものではないでしょうか。


自己愛の膨張と現実生活との狭間に執刀を試みて事足れり、としたり、精神鑑定になお疑義をはさむ昨今の論調ですが、むしろ論者みずからの倫理観を顧(かえり)みて、一度くらいは洗浄し世人に見せてみる論者の余裕などを、いま少し示して頂ければなあ、と、いつもの「立ち読み」のさなかに、ふとわたしは感じました。

論陣を張れば張るほどに、彼らの中のなにかが、遠ざかります。
灯台下暗し、とでも言っておきましょうか。。。
潔白な人間など、どこにもいないはずです。
その埃を隠してなにをか言はんや、です。わたしも、そして貴方も。

(2008年07月12日 記)

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)))079節(((
Eine Seele, die sich geliebt weiss, aber selbst nicht liebt, verräth ihren Bodensatz: - ihr Unterstes kommt herauf.
自分が愛されていることを知りながら、しかも自分では愛することをしないような者は、その魂の沈澱物を暴露する。――その最も底の滓までが浮き上がって来る。 
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175節の箴言にも通じています。

「愛されていること」を無償に近い「愛」と想定することができれば、箴言全体は、一気に解(ほど)けるでしょう。

そのことを「知りながら、しかも自分では愛することをしないような者」は、それではいったい、何をしているのでしょうか。

「その最も底の滓(かす)までが浮き上がって来る」ほどにざわつき、しかも落ち着きのない「魂の沈澱物」に翻弄されているのでしょう。その「魂の沈澱物」こそ、「愛することをしないような者」が、対手に対して、「(利己的な)欲望」を押しつけたり、満たそうとしている「意志」の変容態、と考えられます。男女ともにあるものと思います。もちろんわたしにも。

175節のほうは、やや隠蔽的で淡々とした表現になっていますが、本箴言は、全体として色彩が濃厚で、しかもそこに、野獣的な支配欲や独占欲のようなものが感じられます。


あるいは主体を取り替えて、こんなふうに解することもできます。

「その魂」は対手のものである、とする理解の仕方。こちら側があえて、「愛することをしない」ことで、愛することの「利己性」を相手に暴露的に知らしめる・・・

いずれにしても、核心は同じですが。


愛し合っている期間がいくら長くても、その愛が壊れのは、一瞬の出来事です。愛だけに限らず、時間をかけ努力し、こつこつと積み上げてきた成果や実績なども、そうでしょう。理由はどうあれ、瓦解(がかい)するのは、こちらもまた一瞬です。

どうしてなのでしょうか。

気味の悪い言い方ですが、何かしら「両生類」のようなものが、人間の奥底で息をひそめ、太古以来、まだ生き延びているのではないでしょうか。わたしたちだけが、ただ知らないだけで。。。


DV(ドメスティック・バイオレンス)という言い方も、その是非はともかく、日常の言葉として、およそは定着したようです。「虐待」なども、そのようです。

そうする人と、そうしない人との差は、何なのでしょう。

その間にしっかりと境界を設けてしまいますと、偏見や疎外が生じますし、誰にでも起こるものだ、と主張すると、「ソンナコトアルモンカ!」、と叱責されます。。。難しいですねえ。


陸に上がった両生類が爬虫類になり、そのなかの一部が恐竜になりましたのは、皆さんよくご存知のとおりです。この恐竜の獣性をいかに抑制するか、悪く表現すれば暴圧し圧制するかの方途を、どこからどのようにして、人間は獲得したのか、あるいは獲得し得なかったのかの差、と見ればどうでしょう。

人間の「認識」や「理性」は、パラダイムとしても、とても進化してきています。しかし「情」は、進化していません。いやそれどころか、延々と反復してきているだけです。人間の「獣性」の住処は、その「情」内部に構えられています。「認識」や「理性」だけをもって、殴り合いをする人たちなど、わたしは見たことがありません。それらは、ちょっぴり白熱した「議論」までしか、演出できないからです。

ところが、「認識」や「理性」の進化の速度が速くて、「情」が置き去りにされてしまう場合が、往々にしてあります。一旦置き去りにされてしまいますと、どんどんどんどんと、「認識」や「理性」からの距離がひろがり、ついにはお互いに、その動きそのものが見えなくなるところまで、離れてしまうことだってあります。

その見えるか見えないかのあたりの「臨界点」を越えた地帯から、「獣性」は「獣」に化身し、吠え立て、逆にわたしたちの前景に突出し、そして、周りの人々を驚愕させるほどの行為に及ぶからこそ、「自分タチトハチガウ、コレハ人間ジャナイ!」、と人々は思っているだけではないでしょうか。

他節でも引用させて頂きましたが、医学博士の福島章先生は、P.パリンの説を要約されながら、「攻撃性は自我の庸兵であり、自我によって訓練され武装される」、と述べておられます(『現代人の攻撃性』太陽出版 初版1974年)。

「訓練され武装される」決断がいつなされるか、というその臨界点は、ひとそれぞれに異なるでしょう。しかし少なくとも、その「臨界点」を人間存在全体の支点としながら、危うく蛇行しながらもどうにか、わたしたちは生き長らえている、そのこと自体を否定し去ることはできないでしょう。

「こちら」から見れば、「あちら」は、いつまでたっても「あちら」にしか見えません。しかし「あちら」から見れば、「こちら」は「こちら」ではなく、やはり「あちら」に見えています。

「理性」や「認識」では、今のところ、この矛盾は解けていません。『デカルト的省察』において、フッサールの叙述が大きく乱れましたのも、この問題に差しかかった時でした。

一方、「情」には、思わぬ浸潤性、というものがあります。

ドラマを見て涙しているのは、「理性」や「認識」ではなく、「情」です。自分の内面がうまく語れず沈黙した人を前に、思わず涙した経験が、私には何度かあります。皆さんにも、きっとあることでしょう。「情」は、「こちら」から「あちら」へ、そして「あちら」から「こちら」へ、染み入るようにして通り抜けるものです。「理性」や「認識」は、あくまでもその追認の小道具にすぎません。

いつ、どこで、「本」と「末」が転倒したのでしょう。

騙されても、一度は「情」に棹差し、ほだされてみることも必要かと。。。

(2008年07月11日 記)

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