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2014/02/22

気骨とは情念である

[キリスト教] ブログ村キーワード
帝釈峡雪景色4
帝釈峡雪景色4
posted by (C)やっぴ~
::俳人・江國滋(えくにしげる 1934-1997)氏も、そういったたぐいのお一人であったのであろう。知名度は、お嬢様(江國香織氏)のほうが高いかもしれないが。

江國氏が食道癌を告知されたのは、1997年の2月6日。同年8月10日が最後の日。今のわたしの年齢である。結果的に、辞世の句となる作品(おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒)(注)を書き留めたその二日後、ということになる。
(注)氏の覚悟は整っていたものとわたしには思われる。自らの死をもって癌を道づれにすることができることを確信していたのであろう氏の、この最後のユーモアに秘められた覚知は、潔く透明で荘厳だ。

2013/12/14

昔と今 ヘルダーリン


An onymous 「昔と今(Ehmals und jetzt)」という四行詩は、精神の薄明のうちに生涯を閉じたドイツの詩人ヘルダーリン(1770-1843)二十八歳のときの作品です。

躁から鬱へのそして不安から平安への異質なふたつの心の波形を対句としてしつらえ統合した四行詩。。。と言ってしまえばそれまでなのですが、いま少しその波間に漂っていたいような、そんな気持ちにわたしなどはなったりします。皆様方はいかがでしょうか。

翻訳と原文を併記してみます。
以下のみごとな日本語への翻訳は、岩波文庫版川村二郎氏のものを、また原文はtextlog.de Historische Texte & Wörterbucherのものを、どちらも「引用」に関する著作権法の許す範囲内で使用した。感謝申し上げる。

2013/12/06

自分を愛してますか?


An onymous 思い通りに事が運んだ時、わたしたちは誰よりも先に「みずから」を精一杯の安堵や満悦で祝す。そうはならなかった場合の歯ぎしりの程度や悔恨のぶざまを、百も承知しているからである。その祝祭がおしなべてド派手になるのは、それがためであろう。

わたしたち「人」は、みずからを開花させた光の加減に応じて恩寵を感じ、そしてみずからを飲み干した闇の度合いに応じて呪いを感じてきた。霊長類となってこのかた、この心模様が色褪せた時代など、ただの一度もないはずだ。

しかし仮にも。。。

2013/11/13

踊り狂いたい。。。

 なり振りかまわず、もうホントなり振りかまわず、
 狂わされるがまま日の暮るるまで、踊ってみたい。
 きっと、寺井はわたしをそしてわたしも寺井を、
 フライングしつづけるであろう。
 おお主よ!
 あなたはそれらどの切迫の「時」にもいまします。

 ただ幻燈のように懐かしくも儚くて、
 ただ子供の涙ほどにもたまらなく切なくて。


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2013/11/08

償えないこともある


An onymous
人は誰も皆、誤った星の下に生まれ、それでも毅然とした態度で世の中に対処するということは、自らの星占いを毎日のように修正することを意味しているのである。(ウンベルト・エーコ『フーコの振り子』藤村昌昭訳より)

2013/10/18

ぼくの祈りはひとことになりました


An onymous何を祈ってるの?。。。と聞かれて言葉がでなかった。存在の地軸がクラーっと揺れ始めてしまったからである。

その僅かなとき・ところを祈ら「ない」で通り抜けることなど、ぼくには怖ろしくてできないのだ。その不穏極まりないとき・ところを駆逐するのは、きまってほんの数分前のたわいもないぼくの日常である。ただ違うのは、それらがきまって奇跡の連呼のなかに凱旋してくることである。

ぼくが生きているのは、この主体と脱主体さらには主体の再領土化が、まさに恐怖の「祈り」のさなかで実現してきたからである。「助ケテクダサイ。。。」、ただこれだけの「祈り」であったのに。

2012/11/23

教会は自死(自殺)念慮者を救えるか?

(以下の記事は、2011.04.03、に書かれたものです)

「自死(自殺)」に関する日本のキリスト教全体としての見解には統一性がない。またその研究・対策も、かなり遅れている。説教者たちのなかには、なにがしかの精神疾患が関与した「自殺」は「病死」である、と判断して憚らない方々も、いまだおられるようである。

あるいは、神をどこかで拒否していたからではなかろうか、といった戯言(たわごと)をもっぱらとする説教者もおられる。なんという残酷な神学であろうか。。。

2012/11/11

体験・・・の機序(2)

(以下の記事は、2011.03.06、に書かれたものです)

1945年4月14日に脱稿された西田幾多郎最後の完成論文、「場所的論理と宗教的世界観」二(章)の部分に、次のような一節がある。
  • 「宗教心というのは、多くの人の考えるように、有限と無限とか、相対と絶対とかいう如き過程的関係において生ずるのではなくして、我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、はじめて意識せられるのである。」(岩波文庫版『西田幾多郎哲学論集 3』所収 下線引用者)
この一節は、西田氏御自身が「前方」に座し、わたしたちからの応答を待たれて書かれたものではない。

体験・・・の機序(1)

(以下の記事は、2011.03.05、に書かれたものです)

皆様方よくご存知の、「青年(少年たち)よ、大志を抱け!」、という文句は、米国人ウィリアム・クラーク博士(1826-1886)が札幌を立ち去る時に残されたもの、と言われている。

その博士の影響を受け立ち上げられた「札幌バンド」、いわゆる基督教信徒グループのなかに、内村鑑三(1861-1930)氏がいた。旧五千円札紙幣でおなじみの新渡戸稲造(1862-1933)氏も、そのうちの一人である。

2012/11/10

心の最前線

(以下の記事は、2010.09.30、に書かれたものです)

「前頭葉切り」という言葉を、皆様方はご存知であろうか。

なんとも物騒な表現ではあるが、これで1949年にノーベル医学生理学賞を受賞した神経学者がいた、というのだから驚きである。ポルトガルのモニス氏が、その人らしい(時実利彦『人間であること』)。

前頭葉をバサリと切ったら、チンパンジーがおとなしくなった。こりゃしめた、ということで、不安神経症や躁うつ病患者の前頭葉を切った。効果があった。全世界に波及した。

そこまではよかった・・・

2011/10/10

あの鳩かも?

人気のない公園の木陰。

餌付けされた群れのなかから、一羽の鳩が近づいてきた。

わたしとの距離は3メートルほど。

じっとわたしを見つめている。雌鳩である。

「どうした?」

そっと声をかけてみた。すると。。。