2012/11/19

イエス時代前後の宗派状況概観

(以下の記事は、2010.11.15、に書かれたものです)

ラビのイジドー・エプスタイン(1894-1962)は、次のように記述している。
(紀元七十年のエルサレム第二神殿)破壊の時代に存在していたすべての党派と分派のうちで、古代の資料によれば二十四派あったということであるが、民族の大変動にも生き残った唯一の派は、パリサイ派であった。(『ユダヤ思想の発展と系譜』第十二章 安積鋭二・小泉仰共訳 1975年初版 英文原本初版1959年 *「古代の資料」とは、"Jerusalem Talmud"のこと ( )内アノニマス) 
実際に二十四派であったかどうかはともかく、ユダヤ民族亡国寸前の宗派状況の混沌と、パリサイ(ファリサイ)派の強烈なアイデンティティはうかがえる。

ヘレニスト(パウロを先導者とする主にギリシア語を話すユダヤ人キリスト者たち)は、すでにほとんどがローマ帝国圏内に離散していた。しかしエルサレム神殿を根拠地としていたヘブライ派(イエスの兄弟ヤコブを長とする律法遵守のキリスト者たち)は、ヨルダン東岸域に辛うじて逃げのびはしたものの、ほどなく消失を絶っている(ジャン・ダニエルー『キリスト教史1 初代教会』上智大学中世思想研究所編訳参考)。

「福音書」もさることながら、ルカの「使徒言行録」やパウロ書簡の牽引が強力であるだけに、『新約聖書』だけからイエス時代の宗派状況を見定めるのはむつかしい。

そこで、上限を紀元前2世紀前後とし、また下限を紀元70年の第二神殿崩壊前後にして、その間の主要な宗派、基礎資料、重要人物およびその著作等を、「覚書」程度に概観してみたい。なお、参考にした文献がわずかであるため、あくまでも素描にすぎない。
アンドレ・シェラキ『ユダヤ思想』渡辺義愛訳、イジドー・エプスタイン(上掲書)、村岡崇光「七十人訳聖書」・野町啓「ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ思想」・市川裕「タルムード期のユダヤ思想」(以上三編『岩波講座東洋思想』第一巻収録論文)、ユリウス・グットマン『ユダヤ哲学』合田正人訳、その他ヘレニズム関連文庫・新書
◆まずはユダヤ教の「宗派(教派・階層)」であるが。。。

ご承知のとおり『新約聖書』の範囲内では、大祭司・サドカイ派・律法学者・ファリサイ派・熱心党(ゼーローテース派)等に構図化されている。しかし実際は、もう少し複雑であったようである。

ユダヤ教の自覚的な再編という観点からその淵源を求めるとすれば、紀元前586年、新バビロニア帝国による南イスラエル(ユダ王国)壊滅以後のバビロン捕囚期、ならびにエルサレム帰還後の政情の転変期(バビロニア支配→ペルシア支配→マケドニア支配→エジプト支配→シリア支配→マカベヤ戦争→シリアからの独立→ローマ支配(ヘレニズム化強要)→ローマ傀儡ヘロデ政権)における「預言者(ネヴィーイーム)」たち、そしてトーラー(モーセ五書:律法)解釈やアラム語への翻訳に尽力した「ソーフェリーム」たち、さらには、「口伝律法」の伝達教授にひたすら民族の命運をかけた「タンナーイーム」たち、となろう。

『新約聖書』に登場する大祭司・サドカイ派・律法学者・ファリサイ派・熱心党(ゼーローテース派)等も、以上の淵源から隔絶したものではない。

紀元前1世紀前後から激化する宗派(教派)乱立に、ヘレニズム(古代ギリシア・ローマ型思想文化)の圧倒的な同化攻勢が連動していた点も見逃せない。それは混交・言語間接触のみならず、語族の異なるヘブライ民族固有の世界分節の解体を余儀なくさせるほどの危機であったろうからである。

結果、大祭司・サドカイ派・律法学者・ファリサイ派・熱心党(ゼーローテース派)以外にも、「死海文書(Dead Sea scrolls)」の発見やフィロン、ヨセフスなどの史料を通じ明らかにされた「クムラン教団」、そこから分枝したのであろう「エッセネ派」・「サドク派」が存在していた。いずれも神殿礼拝を忌避した禁欲的な共同体であるが、トーラー(律法)を捨てたわけではない。その分枝として、「幻視派」の存在も旧約典外において確認されており(「ヨベル書」「エノク書」)、また「ダマスコ教団」と呼ばれるものも見出されている(ザドカイ文書『カイロ・ゲニーザ』)。いずれも、メシア以前の救い主たる教師をこそ求めていたとされている。


一方イエス(集団)の側であるが、こちらも一枚岩とは言えない。

残念ながら「福音書」は、宣教活動開始以前のイエスを語らない。

しかしながらイエスが、『新約聖書』のみならず(タキトゥス、ヨセフスによる)史書においても言及された歴史的人物であるかぎり、上述のようなユダヤ教諸派の混沌たる宗派的状況(世界内的状況)を鑑みず、ヘレニスティックな思惟の産物「使徒信条 」だけに牽引されて、さもありなむ、とイエスを語り継ぐことにいかほどの意義があろうか、ともわたしは感じている。

イエスの磔刑(たっけい:十字架刑 30年頃)後ほどなく、残されたイエス集団に断続的な迫害が加えられたことは、ルカの「使徒言行録」に書き留められているとおりである。ペトロ、ヨハネに対する二度の逮捕、そしてヨハネの兄弟ヤコブの犠牲がそれであるが、迫害の実行者はアンナス家大祭司とサドカイ派であって、律法学者やファリサイ派ではない。

このイエスの直弟子グループが、上述したイエスの兄弟ヤコブ率いる「ヘブライ派」である。それが証拠に、ヘレニストであったステファノの処刑には、逆にファリサイ派が積極的な役割を果たしている。

これらの交差する反応に、ヘブライ派キリスト(ユダヤ・キリスト)教徒とヘレニストのキリスト教徒(律法・神殿礼拝から離脱するギリシア化されたユダヤ人・異邦人)との大きな懸隔を見て取ることができる。

エルサレムで中核的な役割を果たしていたこのヘブライ派には、「デスポジュノイ(イエスの縁者)派」や「エビオン(貧しい人々)派」なども連なっていたが、紀元40年から70年の第二神殿崩壊までに、三重の苦難を強いられている。エルサレムを拠点としたローマ傀儡政権からの迫害、そしてそのローマの侵攻に徹底抗戦の立場をとったユダヤ人民族主義者たちからの疎外・圧迫、さらには、「割礼」の問題をめぐり49年「エルサレム使徒会議」で顕現したヘレニストたちとの齟齬(そご)・軋轢(あつれき)などがそれである。「会議」には、ヘブライ派のリーダーから長老ヤコブ(イエスの兄弟)、ペトロ、ヨハネ、異邦人宣教の途上にあったヘレニストたちの先導者からは、パウロ、バルナバ、テトスなどが参加している。

ヤコブは62年に(ヨセフス『古代誌』、エウセビオス『教会史』)、そしてパウロは67年に殉死したと伝えられている(「第二テモテへの手紙」、「クレメンスの手紙」)。

イエスの兄弟ヤコブの後継者は、イエスの従兄弟シメオンであったが、神殿の崩壊とともに消息を絶つことになる。

エルサレム以外の地域を視野に入れると、さらに大小さまざまな宗派(教派)が玉石混交たる状況において浮上してくる。列挙程度に記しておく。

ユダヤ教とユダヤ・キリスト教との境界域に位置するものとして、「ゲニスト派」、「メリスト派」、「ガリラヤ派」、「バプティスト派(サバ派、マスブタイ派:非ユダヤ人)」、などが指摘されている(ユスティノス『ユダヤ人トリュフォンとの対話』)。その他「サマリア派(≒シモン派→グノーシス派へ:ルカ「使徒言行録」、ユスティノス『第一護教論』)」、「シリア系キリスト教(『トマス福音書』等)」、「ナザレ派(神殿崩壊以後バプティスト派に合流?)」、などもある。


以上が、イスラエル内部にいたイエス時代前後のユダヤ教教派・キリスト教教派の状況である。

これらの状況を概観するかぎり、30歳以後わずか数年にもみたないイエスの宣教が、いわばゲリラ戦の様相を帯びざるをえなかったであろうことを疑うことはできない。それは、「福音書」を読む際の大前提である。混沌ではあるが、しかし生動的でもあるこの宗派状況への関心をおろそかにすると、たちまちイエスの言動は、幾何化され、過剰な普遍化にも晒されて、途方もなく格言化し、いつでもいとも簡単に抑圧的なドグマと化してしまうことになろう。


◆さて、この時期を考えるうえでの「基礎資料」であるが。。。

なによりも『七十人訳聖書(Septuaginta)』を、筆頭にあげておきたい。

その成立年代および場所については多岐にわたる議論の沿革はあるものの、村岡崇光氏によれば、主にヘブライ語アラム語から疎外されずにはおられなかった離散のユダヤ教徒の教化のため、紀元前2世紀頃に、エジプト北域のアレキサンドリアにいたユダヤ人学者たちによって完遂されたようである(「七十人訳聖書」岩波講座東洋思想第一巻収録)。

特に、「モーセ五書」を中心とするユダヤ教正典外(偽典)となる「第一エズラ書」・「第一~第四マカベア書」・「トビト書」・「ユディト書」・「ソロモンの知恵」・「ベン・シラの知恵」・「バルク書」・「エレミヤの手紙」・「ダニエル書への附加」・「ソロモンの詩篇」は、ユダヤ思想(ヘブライズム)とギリシア・ローマ型思想(ヘレニズム)との接触如何を知る上で重要なものとなっている。パウロ以後の異邦人宣教への大きな影響も、見逃せない。

イエス時代の宗派(教派)状況に関連する基礎資料に限定すれば、『新約聖書』はもちろんのことであるが、「死海文書(Dead Sea scrolls)」・「ユダヤ砂漠文書(Wadi mouraba'at)」・『トマス福音書(Evangelium Thomae)』・『十二使徒の教え(ディダケー)』・『イザヤの昇天(Ascensio Isaia)』・『ヤコブの黙示録(Apocalypsis Iacobi)』・エウセビオス『教会史(Historia ecclesiastica)』・ヨセフス『ユダヤ古代誌(Antiquitates Judaicae)、ユダヤ戦記(Bellum Judaicum)』・タキトゥス『ゲルマニア(Germania)、年代記(Annales)、歴史(Historiae)』・『ヒュポテュポーセイス(Hypotyposes)』・『クレメンスの手紙(Epistula ad Corinthios)』・『バルナバの手紙(Epistula Barnabae)』・『パレスティナのタルグム(Targum Palaestinenses)』・『ナザレ人福音書(Evangelium Nazareorum)』(断片)・エピファニオス『パナリオン(Panarion)』・『ダマスコス文書(Damascus Document)』・『サドク派文書(Zadokite Documents)』・『十二族長の遺訓(Testamenta 12 Patriarchum)』、などが列挙される。


◆最後に、イエス時代の重要人物およびその著作であるが。。。

ここでは、イエス自身はキリスト教徒ではない、という厳粛な事実から出発し、そのかぎりでの重要人物を拾い出してみたい。

イエスが、ユダヤ教の影響下に生きていたことを否定することはできない。

したがって、イエス「の」信仰それ自体(der Glaube an sich von Jesus)へのわたしの関心は、預言者以降のハハーミーム(賢者たち:律法の教授階層、広義のラビ)をまず捉えている。

ハハーミームには変遷がある。

旧約時代の「預言者(ネヴィーイーム)」、アラム語への聖書翻訳を求められた「ソーフェリーム」、そしてユダヤの数々の「口伝律法(ミシュナー)」を伝えた「タンナーイーム」。以後延々と変遷は続くが、このタンナイームの活躍していた時代が、紀元前1世紀末と考えられている(市川裕氏「タルムード期のユダヤ思想」)。イエス生誕に最も近いユダヤ教的状況であり、「トーラ(律法)」釈義解釈の膨大な伝統と足跡もそこにはある。比喩・寓意・逆説と言われる表現形式は、イエス固有のものではない。

このタンナーイームの賢者のなかに、ファリサイ派の指導者でもあったヒレルとシャンマイの二人がいた。

ご承知のように、イエス時代のユダヤ人自治機関はサンヘドリン(最高法院)である。最終的な裁量権はローマ総督にあったが、その下部組織としてのサンヘドリンの権限は大祭司にある。そのさらに下に、市民生活上の指導的権威を持つ賢者(ナスィー)と宗教問題における権威を持つ賢者(アブ・ベート・ディーン)とが分化していた。前者を政治サンヘドリン、後者を宗教サンヘドリンとも呼ぶ。

ヒレルはナスィーであり、シャンマイはアブ・ベート・ディーンであった。律法解釈について、シャンマイのほうは成文律法に厳格で、ヒレルのほうは口伝律法にも寛容であったようである。二人の死後、そのままファリサイ派内部に二大学派が形成されることになる。

「福音書」のなかでイエスにまといつく律法学者やファリサイ派は、この二大学派の影響下にあるユダヤ人であった。したがって律法をめぐる問答に関しても、イエスだけに実施されたというものではなく、むしろ当時のユダヤ人社会にあってそれらは日常的な出来事であった、と考えるほうが自然であろう。

文献的には、"Babylonian Talmud"、"The Mishna , Ethics of the Father" 等からの遡及となる。Michael L . Rodkinson(1918年)の"Babylonian Talmud" の英訳は、こちらから閲覧できる。

イエスと同時期の重要人物となると、アレクサンドリア(エジプト北域)のユダヤ人哲学者フィロン(紀元前54?~25?-紀元後13?~45?))となろうが、稿を改めなければならない。

パウロ書簡に見受けられるギリシア的思惟の程度如何を知る上でも、素通りすることのできない人物である点だけを指摘しておく。


以上粗雑ではあるが、イエス「の」信仰それ自体(der Glaube an sich von Jesus)への関心を有意義化させるための素材なるものを、概略ではあるが、列挙してみた。

他意はない。

(以上の記事は、2010.11.15、に書かれたものです)

0 件のコメント: