2013/12/27

行く年2013年。。。

☆行く年◆◆◆◆◆◆◆◆
◆2013年の命に感謝!
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今年も危うい年ではありましたが、読者の皆様方の声なき励まし、また実際のメッセージ等にもそのつど支えられ、なんとか無事一人、静かな歳末をむかえることができております。

aphorismos / Research Diarys」フロイトを語らせたら半端じゃないりょうさん、多くの励ましメールありがとう。なんとお礼を言ってよいのやら、ほんと恐縮します。何度も助けられました。
Nebuchadnezzar's Dream」作家のクリスさん、ミニ掲示板独占してくれてありがとう。あなたが大成しなくて誰が大成するのでしょう。大きな手術から唯ひとつしかないあなたの身体が無事帰還すること、祈っています。
意見とその表明」思想家のうまさん、プロフィールに圧倒されました。全部読み切れていませんが、今後もよろしくです。
カーネーションの丘」プロの写真家新川芳朗さん、モノクロな写真とても心安らぎます。男っ気のあるしかもどこかいつも色っぽい文章、最高!です。ありがとう。
sunset77」sunset77さん、研究とはなんぞや。。。いつもシャープな観察眼に驚かされています。ありがとう。突然の有馬記念情報、飲んでたコーヒー吹き出しました、マジで(笑)。
パリの断章」paul_ailleursさん、独特の遠近感あるとても美しいお写真、フランスからの貴重な学術情報など、ありがとう。来年も楽しみです。
理解社会学の工房」Shigfried Mayerさん、とても深い考察、いつも興味深く拝読しています。ありがとう。
ある保守主義者」の坂木さん、忘れた頃に届く鋭い社会批評・世界分析、またよろしくです。世のため日本のため、もっと吠えてください。ありがとう。
言葉を手にしていく感覚」Rhさん、話題にも視点にもいつも驚かされます。勉強になりました。ありがとう。それにしても文章がうまいですねぇ、ホント。言葉が水槽の中を泳ぐ金魚たちのように生きています。
自然な腰痛と歯痛」milk1tofu3さん、幻想的でとてもやさしい自然の写真についうっとりです。しかも文章がさりげなくて力みがなく、実にしなやか。勉強になります。大好きな豆腐情報もまたよろしくデス。ありがとう。
週刊「川柳時評」』如月和泉さん、実はこっそり?拝読しております。要領をえた気配りある川柳時評、素人のわたしにはもったいないくらいです。ありがとう。辞世の句を考えています。まだはやいでしょうか?
Erica Nakazawa」Erica Nakazawaさん、病に負けないでください。わたしも負けません。多くの人がそれぞれに闘っていること、忘れないでね。あなたのモデル写真は最高!です。売れないわけがありません。ありがとう。

その他グーグル・プラスワン時代の鎌田さん、いつも応援感謝です。ジョン・コナーさん、ご遠慮なくメールしてください。そして140名ほどの仲間たち、ほんとにありがとう。
あっ、そうそう共有ボタンやコメント機能の設置を取りやめました。
『「福音書」解読 「復活」物語の言語学』(講談社選書メチエ)著者、広島大学総合科学研究科研究員の溝田悟士君、コメントありがとう。ちゃんと保存してます。新たな論稿・著書期待してますよ。あなたが書かなくて誰が書く、です(笑)。

最後に、難病認定されていますパーキンソン病に苦しまれておられる皆様方からの、実に多くのアクセスに感謝いたします。わたしごとき愚かな人間の孤独にも授けられた闘いの知恵と平安。どうかどうか、苦しみのさ中におられる皆様方にも神が分け与えて下さいますように。どうしようもない時、わたしでよければご遠慮なくお便りください。ともにともに、来たるべき門に向かって、ひるむことなく堂々と歩んで行きましょう。

2014年も個性バリバリでわいわいがやがや、そこどけそこどけっとブログりましょう(ブロガーじゃない人、ごめんなさい)。

みなさん、良いお年を。

著者An
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2013/12/25

ダメ押しベンヤミン

Visconti Homo sapiens
Visconti Homo sapiens
posted by (C)enokov
「時代がすっかり変っちゃったんだよなぁ。。。」
「ほんとに。。。」

老夫婦の会話はそこで止んだ。

どうやら、秀でた才能を持つ若い芸術家たちのことを語り合っていたらしい。

実はわたしも気にはなっていたのだ。

「世界的な」という触れ込みで紹介される才(ざえ)ある若き芸術家の出演や公演がつぎつぎと休止され、延期され、あるいは取り止めになってしまったり。。。こうなってくると、テレビをまったく見ないトレンド音痴のわたしだって、やはり気にはなる。

2013/12/24

クリスマスに見る夢

その誕生からしてすでに飽きるほど多くの推理に弄(もてあそ)ばれてきたイエスですが、わたしなどは、一滴の海水もないそんな推理の大海をよくもまあ真顔して泳げるものだなあ、とむしろ同じキリスト者のほうをみてがっかりしてしまうことが正直あります。

聖書は夥しい数の人々の手からなったまことに幼気(いたいけ)なる、しかしあくまでもおとなのメルヘン。このようにぼつぼつ割り切るべき時代がこの国には来ているのかなぁ、と思ったりも最近はします。

それはわたしたちの体験しているそのつどの未踏の世界が、真実を明かすこと語ることは常に正義であるということを、これまでのようには必ずしも気前よく証ししてくれなくなっているからです。メルヘンでないと触れられない象(かたど)れない真実、そんなものがたくさんどこか近くに眠っているような気がします。

奇々怪々な世界をひとしく真顔で説得するのはとても危険です。豊かな果実に恵まれることもないでしょう。

ここはひとつメルヘンの世界にどっぷりと浸れるような奇想天外な情報発信がこの島国津々浦々の教会から、音もなく降りしきる粉雪のように目ざとくも隈(くま)なく、国内外の孤児・孤独者たちの冷たい窓の隙間めがけ届けられるそんな奇跡の風景を、ぼんやりとした夢の灯りの中に透かしてみたいと思います。

せっかくのクリスマスなのですから。ネッ!

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2013/12/23

もいちどベンヤミン断章

柘製作所
富士ブライヤーコンビ万年筆
posted by (C)enokov
たかが文庫本と言ってしまえばそれまでなのだが、ベンヤミンの『パサージュ論』全5巻(岩波現代文庫)を読了するにはそれなりの我慢は必要だ。。。と言うより、過度に構えず流すように読みながら、ウン?と感じたその言葉・言い回し・文脈などの「居所」だけを忘れないよう処置しておき(わたしの場合は5ミリ幅の手づくり付箋)、寄せ集め編集された各「章」又は各「巻」をまずは読み切ることに専念して、読み切った暁には遠慮せず胸ときめかせて?各所に立ち返ってみる、といったインターバルを採用したほうが断然よいとわたしは感じた。

上掲書第3巻に収録されている「N:認識論に関して、進歩の理論」は、ベンヤミンの思索の断片が一糸まとわぬ状態で集中した章である。わたしがN章に挿し込んだ「付箋」の数はちょうど五本。今回は、そのうちの一本につき投稿してみたい。すでに2巻からひとつを、そして1巻からもひとつを投稿した。お時間があれば、そちらのほうも合わせてお読み頂きたい。
それぞれの時代に生ける者は、歴史の正午に自分自身を知る。彼らには過去のために饗宴を整える義務がある。歴史家は、死者を宴卓に招待するために遣わされた者である。[N15, 2]
これですべてである。

2013/12/22

俳句?川柳?

#3776 センチュリー ペン先
(C)enokov
      灰にこそ 灼熱の炭 偲ばるれ

■自己評価■

「灰」と「炭」の違いは「山or火?」があるかないかだけですよね。なのにこんなに時空の懸隔があります。そこがなんともおもしろーーーいっ、とまずはどあつかましく自画自賛。「係り」助詞にフォルテッシモの「こそ(牙音)」をあえて選び、助動詞已然形「るれ」に呼応させた点、これみよがしな意図性を感じますよね。爺くささまるだしです。その結果、助動詞「る」が文法上の意味「自発」性を保持しえなくなり、ただならぬ意味論的反撥に晒されてしまいました。それをだらしなく放置している。なんとデリカシーのない自虐的な作品でしょう!不合格やなぁ。。。

自家撞着(どうちゃく)は人間に不可欠・不可避な存在論的「根拠(条件)」である、というテーゼが、はたして俳句や川柳などの金型に馴染むのだろうか、といったまあどうでもいいことをぼんやりと考えながら、ごろんとベッドに体をあずけて流し込んではみたのですが。。。その後ペンを持ったままどうやらうつらうつらの桃源郷。

仮眠から覚醒するやポロリと一句が。
愛なかば 残し残され さようなら
こんなん出ましたあああ。成熟したおとなってこんな感じなのでしょうかねえ?わたしは恋愛も波瀾万丈でしたので。。。せめてこうしてあげることだけでもできればよかったかなぁとただ悔いるばかりです。ということで今回はめずらしくこれでおひらきですぅ。ドンチキチン!

あと十日。読者の皆様方、体の健康・こころの健康に留意し、少々苦しくったってそれ以上に明るく楽しく過ごしましょう。まだ年内更新しますですヨ。

2013/12/21

ベンヤミン断章

中国万年筆 DUKE(ペン先)
(C)えこすけ
ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)は、『パサージュ論』第2巻[H2, 3](岩波現代文庫版)において次のようなメモ書きを残している。

事物をありありと現前させる真の方法は、それらの事物をわれわれの空間内において(われわれをそれらの空間内においてではなく)思い描くことである。(蒐集家はそうするし、逸話もまたそうする。)そのように思い描かれた事物は、「大いなる諸連関」からのいかなる媒介的な構成も許さない。



2013/12/20

枝葉など放っておけ!


An onymous 「お・も・て・な・し」の島国NIPPON国に生まれ落ちたわたしが、この国を愛さないでいられるわけがない。

しかしである。

そのように愛すれば愛するほど、信じれば信じるほどに、わたしの自我を覚醒させ、思春期にも片時も離れることなく、しかも人格の大元のほとんどを形成してくれたのであろう「日本語」が、あろうことかその後どんどんとわたしから乖離し、ついには呪わしきものとなってわたしを苛んでいた時期があったことも、また事実である。

2013/12/17

読者各位「変更」のお知らせ

いつもありがとうございます。

ブログに関する「変更」をお知らせいたします。

著者の体調を鑑み<g+1>への接続を当月で解除し、順次「初期設定時のブログ」に変更することにいたします。

そのことにより予想される読者様への変化・影響等を、以下に記します。
ブログ「十字架の現象学」自体は、これまで同様更新・維持されます。 
左サイドバーに関して。。。
現在の著者紹介は<g+1>に基づくものですので、接続の解除により一時閲覧不可となりますが、ほどなくアカウント名・内容を変えて表示されます。これまで常用してきましたカタカナ表記のアノニマスあるいは通信等における略称Anなどには、可能な限り配慮いたします。 
右サイドバーに関して。。。
<g+1>でのブログ記事の共有、またはサークルの展開あるいは諸サークルへの参加等、すべてから撤退することになります。ありがたくも<g+1>からブログ「十字架の現象学」にアクセスされて来られた方々におかれましては、特にご注意頂きますよう願います。
その他に変化はないものと予測いたします。

なお検索表示並びに表示順位には、大きな影響がでます。ご了解ください。

万が一不具合がありました場合は、ブログ左サイドバーに設置しております「ミニ掲示板」あるいはメールにて、お知らせ頂きますよう願います。

以上よろしくお願いいたします。

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2013/12/14

昔と今 ヘルダーリン


An onymous 「昔と今(Ehmals und jetzt)」という四行詩は、精神の薄明のうちに生涯を閉じたドイツの詩人ヘルダーリン(1770-1843)二十八歳のときの作品です。

躁から鬱へのそして不安から平安への異質なふたつの心の波形を対句としてしつらえ統合した四行詩。。。と言ってしまえばそれまでなのですが、いま少しその波間に漂っていたいような、そんな気持ちにわたしなどはなったりします。皆様方はいかがでしょうか。

翻訳と原文を併記してみます。
以下のみごとな日本語への翻訳は、岩波文庫版川村二郎氏のものを、また原文はtextlog.de Historische Texte & Wörterbucherのものを、どちらも「引用」に関する著作権法の許す範囲内で使用した。感謝申し上げる。

2013/12/13

ニーチェ箴言散策集・私家版 (14)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


125節から129節までをどうぞ。。。バックナンバーサイドバーから。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/12/11

「間主観性」「他者理解」への大きな誤解


An onymous フッサールの「間主観性」がわたしたちに抱かせそして感じさせた希望と失望を、「間テキスト性」の側から相対化し賦活させようとしたジュリア・クリステヴァ(1941-)の思索の生動性はもはや過去のものである、というわけでは必ずしもないのだ。

80年代になってさらに過熱したポスト構造主義の夥しい数の言説の渦の中に、はかなくも巻き込まれて浮上することができなかっただけのそれはただの不運、としか言いようのない哲学史の悪戯がクリステヴァを選んだ、それだけのような気がわたしにはする。

ブルガリア出身のユダヤ系評論家・哲学者・精神科女医であり、フランスを舞台に活躍してきた彼女の語りはじつにさりげなく示唆的で、まるで人それぞれの好みまで気遣った淡いコロンのような香りが、翻訳からもしてくる。

次は、84年の講演の翌年に出版された講演記録の一部である。クリステヴァ四十四歳。

2013/12/08

日本語ならぬ日本語


An onymous 子供に甲冑を着せたかのような不恰好で大仰(おおぎょう)、かつどこかしらとぼけたような文章を専らとするわたしが言うのもなんだが。。。いくら元は異国の宗教だからとはいっても、日本語で日本語を侮辱するようなテキストがよくもまぁ公的文書(もんじょ)として認められたものだなあ、とあきれた、と言うよりも感心した。

日本基督教団公式サイトの「お知らせ」(2013/12/03)『日本基督教団伝道推進室 「伝道礼拝・伝道集会等への説教者・講師派遣制度」開始のお知らせ』が、それである。

内容自体については、特段わたしから申し上げることはない。またそういった立場でもない。

わたしが気になったのは、その日本語である。

次の箇所が「あきれた/感心した」の発端である。

2013/12/06

自分を愛してますか?


An onymous 思い通りに事が運んだ時、わたしたちは誰よりも先に「みずから」を精一杯の安堵や満悦で祝す。そうはならなかった場合の歯ぎしりの程度や悔恨のぶざまを、百も承知しているからである。その祝祭がおしなべてド派手になるのは、それがためであろう。

わたしたち「人」は、みずからを開花させた光の加減に応じて恩寵を感じ、そしてみずからを飲み干した闇の度合いに応じて呪いを感じてきた。霊長類となってこのかた、この心模様が色褪せた時代など、ただの一度もないはずだ。

しかし仮にも。。。

2013/12/02

道徳教育とは言うが


An onymous 文部科学省による「道徳教育の充実に関する懇談会」の委員名簿を見ていると、絶望的な気分になってくる。

そこに孤児がいない寡婦がいない病人がいない罪人がいない、そしてそもそも道徳を蹂躙する者がいない。つまり「懇談会」とは、塵ひとつ落ちていない無菌の会のことだったのだ。そんなところの床だけを見て人を見ず、お互い何度も何度も同じところを掃除する振りをして何がそんなに楽しいのか、と愚痴りたくもなる。

さてこのところ少しレヴィナス続きであるが、今回の主題にも参照してみたい。

聴講者のノートなどをもとに復元された講義録「証しと倫理」のなかでレヴィナスは、「倫理」の極域で生起する出来事をおもいっきり冷却しこう述べている(1976/04/23 ソルボンヌ大学 『神・死・時間』に収録)。

2013/11/27

特定秘密保護法案第五章のポテンシャル


An onymous わたしは生き方がまことに下手な人間、と言うか、そもそもが流れに掉ささずには生きられない性分もあって、この期に及んでもなお世論の拍動から逸脱した不整脈な標題を掲げざるをえない。最近はそんな自分に嫌気がさし始めているのだが、すでに遅し。最後の関門もこのままぶっ飛ばす以外ない。皆様方にあってはどうかアノニマス文体に巻き込まれぬよう読み流して頂ければなあ、と願っている。

2013/11/22

信田さよ子氏の「先手」


An onymous その道では知らない人のおそらくはいないであろう信田さよ子氏であるが、イマサラドウダッテイイヤとうっちゃったはずの氏のわずかな言説が、どうかした拍子に脳裏に蘇ってくる。

『現代思想』今年度版1月号に掲載されていた「自助グループロマン主義」がそれである。『依存症をめぐる臨床』という主題のもとに企画された分割連載のうちの第六回目にあたる小論、正確に言えばそういうことになる。

次の箇所である。

2013/11/19

レヴィナス的補記


An onymous 「病は痛苦しない!」(当ブログ内記事 2011/12/21)を書き下ろして、来月で二年。自覚症状の始まりから数えるとおよそ四年の歳月を、わたしのパーキンソン病は一気に平らげた。病状の進行を否定するには遅すぎる地点にまで、どうやらわたしは無事到達したようだ。

と打ち始めて、自分の日本語がどこかしら歪んでいるのに気がついた。

2013/11/18

偽装関連ニュースを聴きながら


An onymousとても遅くに、最も遅れて[le plus tard]やって来るものは、ある起源に再び接近して、むしろ[plutôt]、起源より以前に起源に、始まりよりもさらに早く[plus tôt]起源に回帰することもありうるのだ。(ジャック・デリダ『精神について』のIX 港道隆訳)


三度読まずともわかる人は、無信仰であっても心清き信仰者である。
三度読んでもわからない信仰者は、ただ演じているだけかもしれない。

そしてわたしは思うのだ。

この引用とわたしのいかがわしい説法の意図そもそもがわからないと感じるその人たちこそ、おそらくはこの世で一等幸(さいわ)いな人間であり、尊崇の念を抱いてしかるべき最強のダスマン(世人)ではなかろうか、と。

しかしサルヴァトーレ・ナトーリ(1946-)に、わたしのような躊躇(ためら)いはなかった。
おのれの欲望のほかに法はない。本能の無制限な解放のなかで多神論と快楽主義が一致するようになり、エゴイズムと横暴がそれらに合流するのである。(『「世俗化」――無力な神の世紀』岡部宗吉訳 『RATIO 03』収録)
「予期していたはずの事態」を「予期せぬ事態」と彼らは言うが、その残酷はペトロなどの比ではない。人殺しまであと一歩ではないか。

ああ、人間よ。。。二足歩行の罠にまんまと引っかかった生き物よ!

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2013/11/15

ニーチェ箴言散策集・私家版 (13)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


120節から124節までをどうぞ。。。バックナンバーサイドバーから。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/11/13

踊り狂いたい。。。

 なり振りかまわず、もうホントなり振りかまわず、
 狂わされるがまま日の暮るるまで、踊ってみたい。
 きっと、寺井はわたしをそしてわたしも寺井を、
 フライングしつづけるであろう。
 おお主よ!
 あなたはそれらどの切迫の「時」にもいまします。

 ただ幻燈のように懐かしくも儚くて、
 ただ子供の涙ほどにもたまらなく切なくて。


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2013/11/08

償えないこともある


An onymous
人は誰も皆、誤った星の下に生まれ、それでも毅然とした態度で世の中に対処するということは、自らの星占いを毎日のように修正することを意味しているのである。(ウンベルト・エーコ『フーコの振り子』藤村昌昭訳より)

2013/11/06

ザラデルの攻撃性


An onymous
マルレーヌ・ザラデル『ハイデガーとヘブライの遺産 思考されざる債務』(合田正人訳1995年 叢書・ウニベルシタス475)

原本初版は1990年。時の経過をやや背負った学術書であるが、歴史の根拠への猛烈な内省を西欧が求められていた時代であったことを踏まえれば、当時としてはセンセーショナルな出版ではあったろうと推測する。冷戦構造と「壁」の崩壊を契機にグローバル化が加速し、民族・国家間紛争を足場にしたアメリカ新自由主義の攻勢もさらに強化されだしたのもこの頃からであろう。

2013/11/04

『必要なる天使』点描

An onymous
ヴェネツィア生まれのマッシモ・カッチャーリ(1944-)は、その著『必要なる天使』(原本1986年 柱本元彦訳2002年)「日本語版序文」において、極東という特異な風土に成形されたわたしたちの精神を配慮し、微塵の躊躇なく「天使」という術語の寓意性を次のように開示してくれた。

2013/10/31

マイルスの「枯葉」

「枯葉(Les Feuilles mortes)」(1945)と言えば、今なお世界中の多くの歌手・演奏家にカバーされているほどのスタンダードナンバーである。その旋律を知らない方は、ほとんどいないであろう。
トランペッターのマイルス・デヴィス(1926-1991)も、この曲をカバーしている。アルトサックスにキャノンボール・アダレイ、ピアノはハンク・ジョーンズ、ベースにはサム.ジョーンズ、そしてドラムは「ナイアガラの滝」ことアート・ブレーキーといった布陣。

わたしがマイルスの「枯葉」を入手したのは、二十歳の頃。ブルーノートシリーズの一枚であったと記憶している。以来40年を越えたが、秋になるとなぜかこのマイルスの「枯葉」が、波乱の時の尾根をつたって蘇ってくる。

原曲はシャンソンである。

2013/10/29

ニーチェ箴言散策集・私家版 (12)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


115節から119節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/10/28

イタリア一人旅・妄想版


An onymous 『哲学者の使命と責任』(上村忠男訳 2011年)所収論稿「真理を語る」の2において、ジャンニ・ヴァッティモ(1936-)はこう述べている。

聖書では、永遠の生は客観的な真理を幾何学的に観照するというよりも、基本的には饗宴のようなものであると考えられている。ただひたすら神を永遠に観照しつづけることに、なんの意味があるというのだろう。
「饗宴」とは、いわゆる神の国の一端を聖書的に寓意したものである。

『アウシュビッツの残りのもの―アルシーヴと証人』(邦訳2001年)や『残りのとき パウロ講義』(邦訳2005年)などを著した同じイタリア出身のジョルジョ・アガンベン(1942-)風に表現してみると、こんな風になろうか。
不定未来への「信」を通して彼岸側に微分されるメサイア的なエクスタシーであるが、そのつどの「今」とのあいだに醸成される信仰的緊張あるいは衝動あるいは切迫などを絶やすべからざる条件とせずには、個的にも共同体的にも、そのようなシニフィエ(意味されるもの)として現出・現前しえないもの。(アノニマス)
「福袋」への脱兎のごとき突進などをイメージしてみられると、分かりやすいかもしれない。

「福袋」にむかう衝動は、中身の不可視性とガラス戸一枚の作為的な境界線とその取っ払いの時間予告によって極限間際にまでたかめられている。しかしそもそも中身の全く分からない品物など、誰も買わないものだ。にもかかわらず彼らは買いに出かける。なぜか?

そう、答えは簡単。一万円の福袋にたとえば総計五万円相当の商品が入っていたことを聞いたか、見たか、体験したか、そのまま信じたかのいずれかの事情があったからである。彼・彼女らは、その「信」の持ち主であるのだ。

この卑近な事例は、ヴァッティモも「饗宴」の体験者ではなかったか、という類推を誘う。かつてこの種の体験を「稲妻に打たれて天から落下したようだった」と表現したのは、精神病理学者であり臨床医でもあったルートヴィッヒ・ビンスヴァンガー(1881-1966)であった(「夢と実存」原本初版1930年 荻野恒一訳、『現象学的人間学』所収論文)。しかもそれは誰に落雷しても、不思議ではないのだ。

2002年に『ヨブ 奴隷の力』を著したイタリア人アントニオ・ネグリは、メシアとは何かを自問するなかで、
様々の特権化された”経験の瞬間”の間には質的差異がない(第七章第二節 仲正昌樹訳2004年)
と明言し、またこれらすべての経験の瞬間が、
人間本性の一部を構成している(同上)
とまで言い切っている。

この体験を否定してきた人々はそこで終わったが、否定しなかった人々はそこから始まり、さらには脱-体験化(=経験化)にまで着岸する。わたし如き凡人がしてそうなのである。

以上のような解釈のムーブメントは、畢竟、伝統的な「贖罪(論)」を激しく孤立させる。

わたしは『ニーチェ箴言散策集・私家版』を書き下ろした2008年頃から、「罪とは自我分裂による意識の立ち遅れそのものに対するヘブライ的直観あるいは洞察であり、人間が人間であることの愛しむべき根拠である。いつもこうべを垂れていよ、などとはイエスは言わなかった」とことあるごとに語ってきた。アダムーエバ物語を読んでも、わたしにはそうとしか了解できなかった。せっせせっせと教会に通っていた頃は、さまざまな研究会や勉強会に参加しそう発言し続けたが、結果、ほとんどは笑って無視された。

ところがどうであろう。

大西雅一郎氏が2009年に翻訳本『脱閉域 キリスト教の脱構築1』(ジャン=リュック・ナンシー)を公刊されるやいなや、北米系(主にリバイバル派とその分派)の教会を除く牧師はじめ教会指導者が、キリスト教教義や聖書解釈の上書きをこそこそとはじめているではないか。日本基督教団の教会員でもある新約聖書学者大貫隆氏の近年の出版活動(一般向けのうちおよそ三冊)の影響も、大きい。

ナンシーの語る一節だけを紹介しておきたい。いずれも上掲翻訳本からのものである。
罪は第一に行為ではありません。それはひとつの条件(運命、環境 condition)です、起源にある条件なのです。
自己へと関係づけられたものとしての、他者へと開かれない、他者へと絆を解き緩めないものとしての自己なるもの
これが自我分裂へのハイデガー的言及でなければ、いったい何なのであろうか。

こう理解してこそ、冒頭引用したヴァッティモの語りが、キリスト教に対する同意だけでなく深いアイロニーをも含んだものであることに、ハタと気がつくのである。

ドゥルーズ / ガタリ『千のプラトー』に便乗しなかったイタリア出身の思想家たちは、お洒落な文体をもちじつに魅力的である。如何せん、日本語への翻訳作業はたいへん遅れているようだ。若き研究者諸君の奮起奮闘を期待したい。

2013/10/25

ニーチェ箴言散策集・私家版 (11)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


110節から114節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/10/24

西欧人の斜陽


An onymousジェラール・グラネル最後の刊行テクスト「実体から遠く離れて、どこまで?」(カント以降の思考の存在論的ケノーシスについての試論)(1999年)に対する読解試論「全体の無なることの信」(2001年)の5においてジャン=リュック・ナンシーは、グラネルのテクストの最終部を引用している。
何ということだ!反対に、神的な創造という発明物が、<存在>そのものの純然たる有限性のなかにある恐るべきものを前にしての、われわれの側の逃避にすぎないのだとすれば?(本テクストは『脱閉域 キリスト教の脱構築1』に全文収録 大西雅一郎訳)
まさにグラネル渾身のエクリチュールであり、「語り(証し)」でもある。

それに比し、引用者ナンシーの筆はじつに重い。

わたしなりに約めると、「ある恐るべきもの(ヌミノーゼを喚起する対象や体験)」から「逃避」するため(フロイトの言う補償作用として)人間みずからが「神的な創造という発明物(神話であろう)」を作為した。。。ということになろうか。

あのウィリアム・ジェームズも、このあたりにためらい傷をいくつかもっていた。モーセの顔を覆った布との類似性を強くもちながら、あえてハイデガーが「無」と表現せざるをえなかったのにも、同じ拍動が感じられる。その他西欧の先達たちはとりどりの身振りを示してきたが、そのほとんどがケノーシス(神の自己放棄)の問題に逡巡している。

あぁ。。。キリスト教一切の歴史とともにその魂を彫琢(ちょうたく)する以外なかった、したがって絶えずヤヌスたる唯一絶対神の統合失調と暴走を警戒しなければならない慢性的緊張を強いられてきた西欧人のパラノイア的苦悩は、四方を海に固く守られてきた極東を生きるわれわれの予想などをはるかに超え出てしまっている宗教的閉所の恐怖から現象しているのである。

したがって日本のキリスト教指導者の教条主義と平和ボケと劣化は、キリスト教信仰などとは一切関係なく、ただ彼らの宗教音痴が垂れ流してきた非奇跡の不法投棄の累々たる堆積と一対のもの、とみなすべきである。こちらは、干からびてもう剥せないのだ。それでも黙過の特権を得ているのが、日本のキリスト教界である。

2013/10/23

もいちどアナ・ヴィドヴィックを

あまりにもか弱すぎる右指のタッチ。しかしそのつど裏切ることなく産み出されてくる、強くて嫌みのない鮮明な音質。彼女の天才はその不思議に尽きる。

そのタッチと音質の関係は、パラド(ッ)クスや因果ではない。「弱ければ弱いほど強くなる」のでも、ただ「弱いから強い」というのでもないのだ。あえて申し上げれば、「受肉」である。この世一切の「強さ」からモイラの凶暴と悪戯を飲み干すため、ただそれだけのために「弱く」あり続け、ときに「怯え」てもいるのである。

彼女がそのことを知らないのは当然だ。なら使徒パウロはなぜ知っていたのか???


2013/10/22

こんな最新刊が


An onymous出来たてホヤホヤの一冊となれば。。。この十月(今月)出版の『「福音書」解読 「復活」物語の言語学 』(溝田 悟士 講談社選書メチエ)か?例の如くアノニマスひさびさの超絶技「立ち読み」開始五分。ナヌゥゥゥ?コノ内容ドコカデ聞イタコトガ。。。とその場で著者履歴を確認。


ナ~ンダアノ子ジャン!とニンマリ。2010年3月、神戸松蔭女子学院大学でおこなわれた日本基督教学会での発表者のお一人であった。わたしもその会場にいたのだ。冷たい雨の降る一日だった。この若い研究者の書物に対するアマゾンユーザーのコメントは、たいへん厳しい。どなたが投稿されたか、およその見当はつく。

この三年とすこしの月日がありながら、古傷を癒しきれなかった著者にも失策はあるか。こういった主題の書物の出版は、時期を見誤ると満身創痍になることがある。じっくりと「売れない」著作で足元を固めてから、ポ~ンポ~ンと放り投げるかのようにして出版するのが賢明かもしれない。この分野で言えば、たとえば近年の大貫隆氏のように。。。

ま、とりあえず出版おめでとう。やがてあなたたちの時代がやってきますよ。

アノニマスは体調不良のため2012年から学会には不参加です。もう参加することもありません。
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2013/10/20

あしたは通院日ですぅ


An onymousあしたは心療内科通院日だ。ひと月ぶり。もう六年になる。片道一時間、診察一分、処方箋少々。ミーティング(患者会)をさぼり、知り合った患者さん(少し年上の男性クリスチャン)とコーヒーして夕方帰ってくる予定。

25℃に17℃らしい。ピンクのカットソーにやんちゃなブラックシャツをボタン全開で羽織って行こう。もちろんストールをふんわりと二重巻きに。パンツは、お気に入りのアルマーニジーンズ。靴は紅葉をイメージしたアメリカ製のスニーカー。靴下?う~ん、ブラックにゴールドのストライプが入ったものにするかなあ。バッグは、革製の超ミニ手提げ。二百万円ほどはぎりぎり入るスリムタイプ。色はみかん色?ジーンズのカラーにはぴったり。

ちょっとチンピラっぽいが、かなり伸びた髪の毛と、髪裾に残っているパーマのめっちゃルーズな感じが全体の雰囲気を中和してくれるはず。アッシュ・ブラウンのアッシュな感じがだいぶでてきた。よしよし。年内あと一回染める予定。こんどこそアッシュ・ベージュ(またはグレー)にする。セットは、ムースと手櫛だけで荒っぽく。ドライヤーより自然乾燥のほうがよさそうだが、時間がかかる。

時計(MT-G1500)・ネックレス(クロス系)・指輪(マリア&クロス系)。。。でいざ出発。香水は診察が終わってから少々。

ああ62歳パーキンソン病患者アノニマス。ホントよくぞ復活したよなあ、えらいえらい。好きなように生きんシャイ!

よろしく!!

>>>裏話:

このところ土・日の午後九時以降はNHKラジオ「ワクテカラヂオ学園」に没頭しているらしい。。。リスナーのほとんどは中高生だっちゅうのにもう。。。

2013/10/18

森鴎外はいかが?


An onymous三浦綾子、遠藤周作、曽野綾子、椎名麟三などを引き合いにだされる方々が多い会合などで、森鴎外!と開口一番ぶっきらぼうに言い放つ、そんな人が教会にたくさんおられればいいのになぁ、とわたしなんぞは妄想する。


『舞姫』はもちろん、およそほとんどの短編のここかしこ、濃淡さまざまに残された鴎外のキリスト教観・宗教観には瞠目すべきものがある。

数ある短編例から一点。。。となれば、『かのように』を推奨したい。通読するのに15分もあれば、皆様方には十分であろうと思う。ただし新約聖書中、「コリントの信徒への手紙 一」七章29-31周辺に記述されている使徒パウロ三重の時間認識(覚知?)を頭に入れておく必要はある。

結論はふたつである。ひとつは、「かのように」という表現で示された現世(世俗)への関わり方が真逆になっている点にある。鴎外は現世の生をまっとうせんがために嘘を嘘として受容する必要に力点を置いているのに対し(短編『寒山拾得』はその実験であろうか)、パウロは不定未来に預言された終末時(メサイアの時)到来への切迫感から、途切れそうなほど希薄な現世への信徒的関与のモデルを強調している。

もうひとつは、大戦後の西欧においてキリスト教の政教分離(いわゆる世俗化)が進み過ぎ、特にフランスやイタリアで第二のルネッサンス(聖書の新たな解釈を通じ政教分離・世俗化の質を向上させるための運動)が起きている点にある。鴎外の『かのように』の逆転は日本では起こらなかったし、現在も起こっていない。鴎外の考え方を逆転させると、アウシュビッツ、ホロコーストにいたるまでの西欧キリスト教の暗黒史に突入する。今起きている西欧キリスト教の大きな変化と教会回帰は、その暗黒史を限りなく踏み台としたものである。。。というふうになると、もう日本のキリスト教指導者の出る幕ではないということにもなる。そもそも日本のキリスト教史には、逆転を呼び寄せうる歴史的な要因がまったく存在しないのである。だからこそ近年、アメリカや韓国のペンテコステ派、聖霊派、いわゆるリバイバル派等に寄生するようになってしまっているのであろう。

ところで『かのように』は、鴎外五十歳(1912)のときの作品である。

ぼくの祈りはひとことになりました


An onymous何を祈ってるの?。。。と聞かれて言葉がでなかった。存在の地軸がクラーっと揺れ始めてしまったからである。

その僅かなとき・ところを祈ら「ない」で通り抜けることなど、ぼくには怖ろしくてできないのだ。その不穏極まりないとき・ところを駆逐するのは、きまってほんの数分前のたわいもないぼくの日常である。ただ違うのは、それらがきまって奇跡の連呼のなかに凱旋してくることである。

ぼくが生きているのは、この主体と脱主体さらには主体の再領土化が、まさに恐怖の「祈り」のさなかで実現してきたからである。「助ケテクダサイ。。。」、ただこれだけの「祈り」であったのに。

2013/10/14

ニーチェ箴言散策集・私家版 (10)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


105節から109節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/10/10

ニーチェ箴言散策集・私家版 (9)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


100節から104節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/10/06

十字架の現象学 ご無沙汰失敬

厳冬の二月、ブログ更新ついに滞るにいたるも、その旨の周知だに思うにまかせず。さるに、不自由極まりなき身辺整理のときのみならず破天荒なときまでを、千変万化するやまいと老いの機嫌にあつかましくも卑しく乞うては、はや神無月。読者様方には、たいへん申し訳なく感じておりまする。

2013/02/11

ニーチェ箴言散策集・私家版 (8)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


95節から99節をどうぞ。。。既投稿分閲覧右サイドバーリンクから。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/02/08

What is the "facticity" ?


Take a closer at these gears, please...

The biggest gear certainly looks like the main source that is putting each small gear in motion. While doing so, I get confused in my perception whichever gear works the other gears. Soon...all gears slowly begin to dissolve into somewhere, and finally only the power of the generating overwhelms me.

It is not until people despaired of their lives or are taken seriously ills that they learn words are of little use. Theist or atheist, they cannot exist even for a bit without just about the inexplicable power.

I'm afraid we modern human beings have totally forgotten that fact.

2013/01/11

ヘーゲル「有論」が暴く!「創世記」冒頭の誤訳

河出書房新社版
エンチュクロペディー
八十七節冒頭部分
1970年代初頭に20歳代~30歳代を生きておられた方々にとって、ヘーゲル(1770-1831)という人物の名は懐かしくも響くことであろう。

この世代の方々は、60年安保闘争をまのあたりにした方々、またはアンガージュマンした方々、あるいは70年大阪万博の狂乱のさなか日米安保条約が自動延長されたその時代を生きておられた方々、その翌々年の72年、軽井沢は浅間山山荘での連合赤軍事件と時空を共にした方々、その後第4インターナショナルにまで四分五裂した学生運動、さらには民族運動末期の不穏のただなかにおられた方々、などである。

わたし自身は、後者の初代に属していた。復員兵が機縁となった団塊世代の直後にもあたる。

しかし同時に、ドイツ観念論の終焉ヘーゲルの著作自体をまじめに読んでいた人も、今思い返せばほとんどいなかったようにも記憶している。

その事情は、しごく簡単である。

2013/01/08

ニーチェ箴言散策集・私家版 (7)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


90節から94節をどうぞ。。。既投稿分閲覧右サイドバーリンク便利。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

2013/01/07

起きろ、アノニマス!

はや七日。。。

読者様をほったらかしにして
何をしているのかと思いきや
「十字架の現象学」著者アノニマス
寒さに弱くてお布団から出られなかったとのこと。

どうやら
ガオゥー
と吠えそうな気配ですよ。
ほんとわがままですよねぇ。
(笑)
(笑)
(笑)
明日からいよいよ更新開始です。

RSSリーダーの読者様
ブロガーの皆様
+1のフォロワー様
なんだ、このブログ?と憤慨された訪問者様
そして
心身に起こる不可思議な病に翻弄されてこられた大切な方々

気長に気長に
アノニマスとお付き合いくださいますようお願いいたします。

今年も時々カラオケます。
カンツォーネ
などいかが?