tag:blogger.com,1999:blog-89047619813395318372024-03-14T17:18:45.246+09:00ドキッ!ちょっと大人の「十字架の現象学」Anhttp://www.blogger.com/profile/13032806251149355738noreply@blogger.comBlogger16315tag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-17950486090341101312014-05-04T09:37:00.001+09:002014-05-05T03:56:08.037+09:00通院――途上の妄想 (1)<a href="http://keyword.blogmura.com/key00018281.html">[キリスト教] ブログ村キーワード</a>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiWYd7wASUigv4uT5Jzx4NUZF_IOO1R7Yyp4bfcKEY81mMw4egW5YhOuQXJqYFs8Tgz1-tFnveYAB6FCV1E46QAN8q7-iMOm6GXIW-O_k7wBbrntqUEA_-oA_iNVgDudeikUZskdobPMuxY/s1600/me-01.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiWYd7wASUigv4uT5Jzx4NUZF_IOO1R7Yyp4bfcKEY81mMw4egW5YhOuQXJqYFs8Tgz1-tFnveYAB6FCV1E46QAN8q7-iMOm6GXIW-O_k7wBbrntqUEA_-oA_iNVgDudeikUZskdobPMuxY/s1600/me-01.jpg" height="120" width="120" /></a></div>
出かける前に帰宅時間を気にするなんて、わたしらしくない。<br />
<br />
よほど気分が澱んでいたのだろう。<br />
<br />
案の定、フライング気味の外出となった。<br />
<br />
ほかでもない。連休の合間に挟まった通院日のこと。<br />
<br />
<a name='more'></a><br />
何のために開発し、なぜ認可したのか。突き詰めればたちどころに分からなくなる深刻な副作用ある薬剤を、アルゴリズムよろしく処方する思想なき巨大医療システム。その無際限に近い既得権域空間を「(あらゆる)癌」「(あらゆる)障害(碍)」「(あらゆる)難病」「(あらゆる)成人病」といったラベルが我が物顔で跋扈(ばっこ)している。医療従事者の誰からも愛でられ称賛されるこれらラベル群に憮然たる思いを馳せていると、どこからともなく次のような声が纏(まと)わりついてくるのだ。。。<br />
<blockquote class="tr_bq">
アナタ、ハヤク死ニタイノ?延命シタクハナイノ?</blockquote>
'No, I don't./Yes, I do.'と言い切るには相当の覚悟が要る。<br />
<br />
およその人は、断末の激痛時や錯乱時を除き、「Nouuu!」と懇願するであろう。この応答の圧倒的な不自由さが、「ラベル群」の生気を一層漲(みなぎ)らせてしまう。医療従事者ならびに経営者、そして関連会社職員ならびに事業主たちがほくそ笑むのは、そのパラド(ッ)クスである。そこから滴り落ちる果汁である。その巨大圧搾機のどこかに挟まれているのであろう無力な自分を構成し凝視していると、わたしのいぶせき妄想は歩くにつれさらに肥大していくのだ。<br />
<br />
そのような妄想すらも起こらなくなる寸前の時は在る。<br />
<br />
その時の最後の断面に激しく圧(お)しつけられた人間は、どのように振舞ってきたのであろうか?<br />
<br />
わたしたち人間が最後の化粧を落とす時。<br />
<br />
午後十二時、すべての日の影が消失する、その寸前の束の間の時。永遠へのとばくち。<br />
<br />
おそらくきっとそれは、見るも無残、聞くも無残な痙攣するが如き剥き出しの(しかし)すでに遅かりし無為の「語り」あるいは「叫び」(パロール:ことばの「その人性」)あるいは「虚空を掻きむしるような仕草」であったろう。それら表現のフラグメンツが「祈り」の原型であったのではないか、とふと感じたりもする。十字架上のイエスが何かを語ることができたとしても、そのディメンションあるいはフィールド内でのことであったろう、というのが今のわたしの率直な思いである。<br />
<br />
イエス時代をイエスに倣って生き切った人々の祈りが、みずからの死に直面せざるをえない喫緊の世界内存在状況における出来事であったとしたならば(事実そうであったのだが)<sup>(注)</sup>、わたしたち現代を生きるキリスト者のほとんどの祈りは、そのディメンションとフィールドを根本的に違えてしまっているのではないか、と思われてもくるのだ。<br />
<blockquote class="tr_bq">
<div style="font-size: 8pt; line-height: 9pt;">
(注)「<a href="http://office-maria.blogspot.jp/2012/11/blog-post_19.html" target="_blank">イエス時代前後の宗派状況概観</a>」を参照されたい。</div>
</blockquote>
このわたしの思いを否定される方々のおおよそは、そのように死の門をくぐったイエス「の」唯一神信仰を(わたしのように)信じておられるのではなく、「イエスは神の子である」と推理証明し認定したローマ人御用学者たちの手による「使徒信条」という名の古き時代の異邦人新興宗教を信じるように訓育され、そしてそれを下敷きとして礼拝を守り『聖書』を読んでこられたのであろう、とわたしは単純に思っている。だからこそひとたび家庭に戻れば、何年たっても信仰それ自体を巡っての言い争いが絶えず、お互い水平の関係においても垂直の関係においても、サタン呼ばわり(人権侵害・蹂躙)して憚らない不思議な家族が形成されても(すべてがそうだとは言わないが)きたのではなかろうか。。。<br />
<br />
地下鉄を乗り継ぎ、地下道の混雑を通り抜け、ようやく歩道に上がることができた。<br />
<br />
ゲート入り直前の新馬のような若者たちの人いきれ。<br />
思春期のような新緑の眩しいほどの恥じらい。<br />
これみよがしな青い空と陽射し。<br />
<br />
数歩も歩まぬうちに建物側に依(よ)れ、立ったまま、バッグからサングラスを取り出す振りをし、そうして呼吸を整えていた。笑顔、笑顔、笑顔。。。さすがに、妬ましくも小癪な気持ちになってきた。<br />
<br />
いつもはその歩道を道なりに下って行くのだが、今回はフライング外出ということもあり、そのままもたれる様にして建物の中に入った。空調はじつに適切であった。少し安堵した。吹き抜けを見上げると大型書店が窺える。<br />
<br />
まだ完全には、狂っていなかったのだ。
<br />
<br />
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Anhttp://www.blogger.com/profile/13032806251149355738noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-69659385204956347962014-04-30T18:19:00.000+09:002014-05-02T00:03:06.202+09:00大学受験現代文講義(1991)「音源断片」公開第2弾!イエスの子供たちへ。<a href="http://keyword.blogmura.com/key00004162.html">[大学受験] ブログ村キーワード</a><br />
予告しておりました全統模試の解説音源を変更し、関東全域を本拠地としていたToshin High schoolからの招聘を戴く前(今から二十数年前)、関西の老舗某予備校において作成しました完全オリジナル<u>「<b>大阪市立大学二次模擬試験</b>」国語(現代文部分)の解説講義の音源</u>を選択しました。素材は内田芳明氏の風景論なのですが、どのご著書に基づいて作成したものか、年数が経ちすぎて特定することができませんでした。今回の<u>「音源」はおよそ<b>24分程度</b>です。主に<b>記述設問解説</b>の音源の一部をハイライト</u>しています。「正解」が実戦的に造形されていくプロセスにご注目ください。なお録音中「六月むつき」と聞こえます箇所は、「六月水無月(みなづき)」ですぅ(ペコリンコ)。この音源を、イエスの子供たちである大学受験生(高校生・浪人生)の皆様に捧げます。<br />
<br />
第1弾の「<b>3分30秒版</b>」は→<a href="http://office-maria.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html" target="_blank">こちらからどうぞ。</a><br />
<br />
<div>
<iframe frameborder="no" height="166" scrolling="no" src="https://w.soundcloud.com/player/?url=https%3A//api.soundcloud.com/tracks/147193047&color=ff5500&auto_play=false&hide_related=false&show_artwork=true" width="100%"></iframe><br />
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<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="float: left; margin-right: 1em; text-align: left;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi0iDnCe7iXzjVCSH3us960zMPIyzinuUXRBc7kPBsbTr_mT2qBuvj-TnS_ZoVXm7Zv7vaURPio6xqiVGBz-v4KAjwDieseE7gxsM641XIEPVb4bfi56uLi3hyaP6gcSZzZAE4FJGnTTQJ_/s1600/nietzsche.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img alt="ニーチェ箴言散策集" border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi0iDnCe7iXzjVCSH3us960zMPIyzinuUXRBc7kPBsbTr_mT2qBuvj-TnS_ZoVXm7Zv7vaURPio6xqiVGBz-v4KAjwDieseE7gxsM641XIEPVb4bfi56uLi3hyaP6gcSZzZAE4FJGnTTQJ_/s1600/nietzsche.jpg" title="" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">Friedrich Nietzsche</td></tr>
</tbody></table>
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)<br />
<br />
<br />
☆<b><span style="color: red;">今回141節の読みどころ</span></b>☆<br />
<b>「性」の問題もなんのその。慧眼の士、ニーチェ!</b><br />
<div>
◆<span style="color: red;">全既刊号はカテゴリーからどうぞ。⇒⇒⇒</span></div>
<div>
<br /></div>
<div style="font-size: 8pt; line-height: 9pt;">
原文・翻訳からの引用は「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。</div>
<br />
<a name='more'></a><div>
)))141節(((</div>
<div>
<blockquote class="tr_bq">
Der Unterleib ist der Grund dafür, dass der Mensch sich nicht so leicht für einen Gott hält.</blockquote>
</div>
<div>
<blockquote class="tr_bq">
人間が自分をそう容易に神だと思わないのは、下腹部にその理由がある。 </blockquote>
</div>
<div>
++++++++++</div>
<div>
<br /></div>
<div>
。。。と考えているのは、じつはニーチェではない。</div>
<div>
これは、「一神教(主義者)」を批判するための言わばパロディである。。。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
とまぁこんな風にギョッとする視点から眺めて頂きますと、「下腹部」に終始する議論(が悪いと言うつもりはありませんが)の退屈さから、いかほどかは解放されるのではないかと思います。ニーチェ主義者を自称される方々の真贋(しんがん)鑑定にはもってこいの箴言のひとつかな、とも感じます(笑)。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
当箴言に登場しています「人間」は、したがってこの地球上すべての人間というわけではなく、「一神教」を国家宗教に仕上げようとし、そして実際近年まで問答無用の勢いで仕上げてきた壮絶なヨーロッパに歴史内存在してきた「人間」、というものをニーチェは思い浮かべていたものと思われます。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
さて上掲箴言中、「(自分を神だとは)思わない」という表現がありますが、ニーチェ的にはやはりここは「思わない」というように「意志する」と解したいところです。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
そう解しますと、「(自分を神だと)思う」あるいは「(神の意志・計画に近づこうと)思う」というように「意志する」ことも同じくできる、という理屈も成立することになります<sup>(注)</sup>。</div>
<div>
<blockquote class="tr_bq">
<div style="font-size: 8pt; line-height: 9pt;">
(注)「諸君は禁欲主義的理想の三つの大きな飾り言葉が何であるかを知っている。清貧と、謙遜と、貞潔と。」(『道徳の系譜』第三論文の八)</div>
</blockquote>
</div>
<div>
つまり「一神教」の下に生をいただいた限りは、神に近づくことを「意志」しようと神から離れることを「意志」しようと、いずれの「意志」も、すでに「一神」を始原に抱く「(キリスト教の)大きな物語(堕罪物語=原罪論→贖罪論)」から押し出された同音異義語ならぬ「同義異音語」なのだ、とニーチェはひとりごち、深いため息をついていたように感じられます。極東を生きるわたしたちが、西欧人の憂鬱や孤独をなかなか実感できないことの理由は、この出口のなさといった宗教的な深い閉塞感にあるのではないでしょうか。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
ニーチェは、『道徳の系譜』第二論文において次のように語っています。</div>
<div>
<blockquote class="tr_bq">
神に対する負い目、この思想は彼にとって拷問具となる。彼は自分の固有の除き切れない動物本能に対して見出しうるかぎりの窮極の反対物を「神」のうちに捉える。彼はこの動物本能を神に対する負い目として(「主」・「父」・世界の始祖や太初に対する敵意、叛逆、不逞として)解釈する。[・・・中略・・・]それは精神的残忍における一種の意志錯乱であって、全く他に比類を見ることのできないものである。[・・・中略・・・]この人間獣が行為の野獣たることを少しでも妨げられるとき、奴は何を思いつくことか!(木場深定訳)</blockquote>
</div>
<div>
特に信仰共同体の指導者・先導者たちは、とんでもない無知蒙昧から、いつの世も凡そ「性」に関わる問題情報の多くをクローズドにしてしまい、誤った指導や介入、隠蔽や圧殺、さらには露わな人権の蹂躙や凌辱・虐待行為、ついには歴史からの抹殺に至るまで、間接または直接にも関与してきました。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
今年2014年は、教皇フランシスコのバチカン改革にも相当の拍車がかけられてはいるようですが、内外の反勢力の動向も流動的で、一度巻き上げられた緞帳(どんちょう)がまたすぐに巻き下ろされるという可能性も、じゅうぶんに想定されます。それほど宗教、就中キリスト教の西欧精神ならびに文明・文化への浸透は隈なきにわたり、しかも暦を独占するほどに長過ぎたということなのです。どの暦をめくってみても血の匂いがします。愛が大きく深かっただけに、憎悪も半端じゃなかったということでしょう。その風土から日本のキリスト教教界をのぞめば、まるで蝉の抜け殻のようにも見えてきますが、いかがでしょう。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
性的少数者(sexual minority)の存在はもちろん、性的嗜好(sexual preference)を含む「性愛(sexual love)」の事実・実体、そしてそこに随伴あるいは同伴する深刻な精神症状のアスペクト(諸相)や連動する諸事件、といった複雑で深刻な主題群は、一般社会のみならずどの宗教どの宗教家の歩みにあっても、メジャーな主題として扱われることはありませんでしたが、近年ようやくにして議論の俎上(そじょう)に載るようにはなってきたようです。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
信仰と性愛とがこんがらがってにっちもさっちもいかなくなり不倫した離婚したという話などありえない!と思っておられる幸いな信仰者の方々が多いようですが、なんのなんのどこにでもころがっている話ですし、事実長い信仰歴を経て来られたご夫婦間の齟齬ばなしなどに耳を傾けながら、性的な問題全般へのあまりの理解のなさに驚かされることが間々あります。御両人とも、齟齬の背後に深刻な性的問題が横たわっていることには、まったく気づかれておられません。ただの不信仰のレッテルの貼り合いで終わっているようです。心貧しいとは、こういうことなのではないでしょうか。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
凡そ宗教と名のつくもの、新旧を問わず、タブー(禁止命令=教義教理)を背もたれにして成立しています。システムあるいは組織としての宗教にはある程度必要なものではありますが、個人あるいは個人間の信仰には必ずしも必要なものだとはかぎりません。むしろ夫婦間や恋人間に本気でそんなものを持ち込むと、メンタル面のここかしこにおいてお互いに大変な問題を引き起こし、場合によっては取り返しのつかないことにもなりかねません。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
ニーチェが言うように、「下腹部」の備わっていない人間など通常はいないわけです。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
問題は、「下腹部」にジンボールされた「性」の主題を(他の生理機能・生理現象・生命現象すべても例外なくそうなのですが)動物的本能=(パウロの口癖である)霊に対する肉=100%悪霊又はサタン、といったデカルトに始まりカントで完成をみた古色蒼然たる二元論(二者択一)的判断のカルト的転用で簡単に処理したりしないことが大切です。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
二元論は思惟の亡骸、ただの形式にすぎません。百歩譲っても、頭の中のリプレゼンテーション(表象)のひとつです。実際に存在するもの自体ではありません。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
遅々として進展しない現代思想でしたが、ようやく、ブラックホールが誕生したと推理されている始原的「爆発」寸前のモード(存在様式)を思想的に「表現できる」ところまでやってきています。きっかけは他所でも少し触れていますが、主にハイデガー哲学の継承者ミシェル・アンリへの遅ればせながらの評価の高騰です。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
これまでアポリア(難問)に分類されていた心脳問題や意識の半自律性の問題等が、これまで以上にくっきりと描き出される契機が与えられたと思われます。「性」の問題もそのような大きな枠組みのなかでこそ光をあてられるべき主題だと感じます。人間の「性」は、子孫を維持するためだけのものではまったくありません。人間存在そのものの機序が、そのようには構成されていないのです。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
こころの問題が解決しない(→<a href="http://office-maria.blogspot.jp/2012/11/blog-post_10.html" target="_blank">心の最前線</a>)。自殺念慮者が去って行く(→<a href="http://office-maria.blogspot.jp/2012/11/blog-post_23.html" target="_blank">教会は自死(自殺)念慮者を救えるか?</a>)。「性」の主題が満足に論じられない等々、もう日本の教会に任せる主題はありません。<br />
<br />
わたしの思いはいつも同じです。<br />
<br />
はやく教会を売却し資金を凍結して未来に備えるべきです。礼拝は会議室でもどこでもできるはずです。ネットと連動できればなおすばらしい。牧師も平信徒に戻るべきです。一人一人公平にみずからの信仰を語り継げば言いわけです。そうすれば莫大な人件費など必要なくなり、経費は場所代だけで済みます。すべてがそうだとは言いませんが、明らかに分派の黒幕となってきたキリスト教系学者は、本来の研究に専念挺身すべきで、集いの場所ではただの信徒以上の不可解な行動をとるべきではありません。また個人献金や寄付一切を廃止すべきです。これも権力の発芽に連なります。必要なのは、信仰を求める人と聖書と会場費の僅かな分担金だけです。過度な宣教・伝道も不要です。メモその他一切の言行記録を残さないことも、人一人一人の真実がそれぞれに守られるためにはとても重要なことです。<br />
<br />
ごく僅かな点だけを指摘しましたが、イエスが生きていたならきっとそうしたでしょう。<br />
<br />
要は法人格を返還し、権力(垂直)型でない衛星(水平)型の自助グループモードに切り替えることが求められています。日本のプロテスタント教会が選択すべきそれが最善の道であり目的地だとわたしは思っています。それが「持続する精神」の本義であったはずです。<br />
<br />
(2008年06月10日付旧記事再読するも、露ほども意に満たざりしかば破棄してき。)<br />
<div>
<br /></div>
</div>
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<br />
<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="float: left; margin-right: 1em; text-align: left;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiSkAXXkH55Ttu3Knf3TtxDKWQ3iG-8Apa9hjSevYs06pJAIRQX9xeSKWmpYRKbO91vFAHByBtktPuP0vcBPPzHdl7ZCFcUDhTM61Yid9NXL92u_cGo7ybXn-Qhj6XZgC5E80C-_ngB3m6X/s1600/SimoneWeil.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img alt="シモーニュ・ヴェイユ" border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiSkAXXkH55Ttu3Knf3TtxDKWQ3iG-8Apa9hjSevYs06pJAIRQX9xeSKWmpYRKbO91vFAHByBtktPuP0vcBPPzHdl7ZCFcUDhTM61Yid9NXL92u_cGo7ybXn-Qhj6XZgC5E80C-_ngB3m6X/s1600/SimoneWeil.jpg" title="" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">Simone weil</td></tr>
</tbody></table>
<div>
::翻訳本初版定価800円程度のマザー・テレサ『書簡集―平和をもたらすために』(片柳弘史訳 全199ページ 2003/12)が、今や古書店の世界で一万円から一万五千円で取引されていると聞く。再販されない、となぜかしら確信する事情があっての高騰であろう。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
英語ペーパーバック版(416ページ)の"Come Be My Light"は1,400円台で安価。ページ数がかなり違うので、別物かもしれないが、何か匂いますねぇ。。。。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
その点についてはまた他日触れることにし、さて、</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<div>
ユダヤ系フランス人女性哲学者・思想家シモーニュ・ヴェイユ(1909-43)の断章を扱うのは、これで二度目となる(→『<a href="http://office-maria.blogspot.jp/2012/11/2_24.html#more" target="_blank">「永遠」って何?何?何?(2) 2012.12.24</a>』)。</div>
<div>
<br />
<a name='more'></a></div>
</div>
<div>
ペラン神父の紹介でギュスターヴ・ティボン宅に1941年8月に寄宿し、二・三か月ほど農作業に従事するも、翌年五月、ドイツ軍のフランス全土占領を目前に両親とともにアメリカへ亡命。その間際に彼女は、ペラン神父には洗礼拒否の弁明書を、またティボン氏には数冊のノート(カイエ)を託している。<br />
<br />
彼女の名を知らしめるに大きく貢献したと思われる田辺保訳の『重力と恩寵 『カイエ』杪』(ちくま学芸文庫)は、託された彼女のノート(カイエ)の一部をティボン氏が相当に編集し手直しして出来上がった底本からの翻訳本となる。ノート全体の忠実な全訳復元は、『カイエ』としてみすず書房から分冊出版されている。ヴェイユ研究者が通常参照するのは、原本はもちろん、後者の邦訳のほうである。(以上二段、「訳者(田辺保)あとがき」・「年譜」とギュスターヴ・ティボンによる「解題」参考)<br />
<br />
少しまとまった論稿として『根を持つこと』が岩波文庫から、また個人的に関心を強く抱いた『前キリスト教的直観』が法政大学出版局から刊行されている。その他数冊ほどの翻訳本があることにはあるが、各社の出版事情にばらつきがあるため、系統的に読もうとされる場合には若干の注意が必要かと思われる。<br />
<br />
今回は標題にあるように、キリスト者でなくとも人間であるかぎり避けては通れない大きな主題「愛(隣人愛)」を、キリスト者にはならなかったユダヤ系フランス人の彼女が、健康にまったく恵まれずしかも根無し草のように不穏な生き方を時代から強いられるなか、どのように感じ、思索し、捉えていたのかについて、そのいかほどか癖のある断章だけを頼りに(以下すべて田辺保訳)、信仰者・非-信仰者のくだらぬ垣根に誑(たぶら)かされることなく、読者の皆様方とともに勇を鼓して、夭逝の天使ヴェイユから学んでみたい。<br />
<br />
<center>
☆☆☆</center>
<br />
さっそく、次の断章をご一読いただこう。前後に文脈はない。<br />
<blockquote class="tr_bq">
<b>愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。わたしたちは、他のものをしか愛することができない。</b>(『重力と恩寵』「愛」の章より)</blockquote>
全三文。難しい熟語・語句はこれといって見当たらない。いかがであろうか。<br />
<br />
一度読んだだけでは、何のことかまったく分からないのが普通。。。よかよか。</div>
<div>
<br />
「分からない」という場合、およそ次のような問題の関与が推定される。(この箇所スキップしてもよし)<br />
<blockquote class="tr_bq">
●資料それ自体の問題 </blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
・<u>語・語句の難度が高い。</u>→辞書・事典類でほとんどは解決する。<br />
・<u>語法・文法レベルでの誤解。</u>→口語文法は義務教育内!<br />
・<u>文内外の論理関係(推理形式の法則的な連鎖)が見えてえこない。</u>→基本的な推理形式は現代風までを視野に入れても五つ六つといったところ。恐れないこと。野矢茂樹『入門!論理学』(中公新書)程度で十分。<br />
・<u>意味の反発やねじれが起きている。</u>→作者の意図的なものが非常に多く、逆に解釈の取っ掛りになりやすいのでこだわりを持つこと。<br />
・<u>レトリック(表現技巧)に関するものは、ほとんど引き立て役。</u>「何」が「どのように引き立てられている」のかが感じられればOK。場合によっては無視してもよし。 </blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
●読み手側の問題</blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
・<u>先入見</u>があらゆる解釈の最大の阻害要因。<br />
・「隣人愛」と聞いて『あっ!それって「善いサマリア人」の?』といった<u>ステロタイプの思考回路を一度疑ってみる。</u><br />
・<u>解説書などを絶対読まない。</u>最初は自分の体験・経験・見聞・感性だけでがんばってみる。<br />
・<u>常に「問い」を発するポイント発見に貪欲であること。</u>「問い」続ける限り「解釈」は風化しない。「問い」が出なくなると「解釈」が止まり、やがて思考も止まり、心地よい眠りと都合のよい従順だけが残る。夢の中を天の国と妄想し始める。<br />
・<u>教理教義(要は「使徒信条」)が解釈を先導していないか常に敏感であること</u>が、信仰で苦しまないコツ。</blockquote>
一回読んでサッパリ分からなくても、慌てちゃあダメ。<br />
<br />
深呼吸するように与えられた三文全体を包み込みながらしばらく眺めてみる。。。すると、<br />
<blockquote class="tr_bq">
<b>主要命題(S)何々は-(P)何々である)←{根拠1(S-P)+根拠2(S-P)}</b></blockquote>
三文がそれぞれこのような関係(論理構造)になっているのがなんとなく分かってくる。<br />
<br />
<center>
☆☆☆</center>
<br />
ここからは個別攻撃。<br />
<br />
主要命題は少々手ごわそうだ。ここは遊撃戦スタイルをとり臨機応変に根拠1・2あたりからの奇襲攻撃が無難か???<br />
<blockquote class="tr_bq">
<b>根拠1 神は、自分をしか愛することができない。</b></blockquote>
ここで「問い」を発するのだあああ!<br />
「ドウシテ自分シカ愛セナイノカ。神ナノニ?」<br />
そうそう、その調子その調子。そして自問自答する。<br />
<br />
「イヤ、待テヨ。デキナイノデハナク、自分ダケハ愛セルノダ。」<br />
「ソウカ、ト言ウコトハ、デキナイ、ハレトリックダッタンダ。ヨシ!」<br />
「ソウスルトダ。。。Anサンハ、レトリックハ引キ立テ役ダ、ッテ言ッテタガ、一体何ヲ引キ立テヨウトシテイルノダロウ?ムムッ。。。」<br />
少し頭打ちになりかけたが。。。<br />
<br />
「ソッカ!自分ヲシカ、ッテ書イテアルジャン。コノ限定ヲ強調シテルンダヨキット。ダッテ、自分ダケジャナク他ノ者ガソバニイタラ、神デアル自分カラ見テモ、ソバニイル他ノ者カラ見テモ、ドチラモ同ジ相対的ナ存在ニナッテシマウジャン?コレジャア、絶対的絶対神ガ相対的絶対神ニ格下ゲダヨ。ヴェイユハ、(絶対的絶対神)ガ(相対的絶対神)ニ世俗化サレテイル傾向ニ抵抗シテイタンダヨキット。ナルホドナルホド。」<br />
「コレデ根拠2モイタダキダ!」<br />
<blockquote class="tr_bq">
<span style="color: #741b47;">Anのおせっかいなハイレベルアドバイス: </span></blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<span style="color: #741b47;">「自分をしか愛することができない」というヴェイユ特有の表現は、なにかが不足・欠乏していることを表現したものではまったくなく、見えも聞こえもしないが、それだけでまったく充足している即自的何かあるいは力(ちから)をあえてそのように表現したものとも考えられる。 </span></blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<span style="color: #741b47;">換言すれば、意識作用(ノエシス)で意識対象(ノエマ:イマージュ・表象・想像・妄想・幻想等)を構成するずっと以前の存在状態に対応しており、ミシェル・アンリ(1922-2002)が大作『現出の本質』(1963)においてしきりに強調した「自己経験(自己が自己を絶対的に経験することで不可視・不可触)」に近い即自的存在様式が自我分裂する寸前の動態を直観したものと思われる。したがって当然、ハイデガーの「存在者」に対する「存在」にも対応しており、その後の現象学一切に連動する可能性を高く保持する驚くべき洞察であると思われる。ただ前段(カタカナ部分)までがなんとなく分かれば、「十字架の現象学」大学はトップ合格でござる(笑)。</span></blockquote>
<center>
☆☆☆</center>
<blockquote class="tr_bq">
<b>根拠2 わたしたちは、他のものをしか愛することができない。</b></blockquote>
根拠1と比べると、文構造が明らかに対句(ついく)構造(統語配列は同じで配当された言葉の意味・価値等が反転する)になっているのが分かるため、解釈の初動作に困難をきたすということはないと思われる。「わたしたち」とは、改めて言うまでもなく人間の総体的表現である。<br />
<br />
上述したが、わたしたち人間を語るうえで「自我分裂」の問題は、たとえ人間に関与するいかなる機能を議論しようとも、避けて通ることは不可能である。「自我分裂」とはそれほどに重要なアイテムになる。<br />
<br />
「自我分裂」を分裂として相対的構造の中で相互に照らし出すデヴァイスあるいは生命機能とは何か?フッサール以降の現象学の沿革に従って述べれば、これはもう「意識作用(ノエシス)」の実に多様な驚くべき予測のつかぬ動きである、としか言いようがない。「意識対象(ノエマ:物自体の仮構仮象であったり、意識が混濁・混線して表現される幻聴、妄想、幻覚、錯覚などなど)は、その恒常的な当面は安定した状態で同期上映されているシネマのようなものである。<br />
<br />
わたしたち人間は、人であれ事物であれ、他者他物を際限なく規定しなから同時に規定されもして、その生命活動を維持している。この内界と外界を縦横に出入りするノエシ-スノエマ構造は、言語はもちろん、知覚・情動・衝動・欲望・本能などに絡まれながらさらに濃密で高機能な働きを獲得し続けるものである。<br />
<br />
したがって、自我分裂する以前の内的時空間、つまり絶対的絶対神のディメンションに極めて類似した、しかしまったく異質な存在の場(あるいは層)においては、意識のノエシス-ノエマ構造が機能せず、そのために「みずから」が「みずから」を愛すること(自己による絶対的な自己経験)など、統覚自我の確証が得られない限りとこしえにできない、ということにもなる。<br />
<br />
まさにヴェイユの言うとおりである。<br />
<br />
このままの状態では、絶対的絶対神と人間が交差する点どころか次元そもそもがどこにもない、ということになってしまうのだ。もちろん同じ星の地表に思い思いに触れながら。。。ばらばら。<br />
<blockquote class="tr_bq">
<b>愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。</b></blockquote>
まさに「悲惨」以外の何も残されていない。「悲惨」とは、見ておられぬほど惨めで痛ましい様のことである。<br />
<br />
むしろそのことこそが、「愛」を思惟し語るヴェイユの若くして底を知った短い生涯にいわば啓示されていた再生可能性(「エゼキエル書」37参照)であり、我が命を「活=生かさむ」がための渾身のメッセージのはじまりを息絶え絶えに告げる徴(しるし)であり、ささやかながら路傍に倒れた人間の耳をつんざくにはじゅうぶんな鐘の音でもあったのである。<br />
<br />
以上ふたつの交わらぬ対句的根拠が、主要命題の悲惨をボトムに貶(おとし)めたのである。彼女への評価は、おそらくこのあたりで分かれるのであろう<sup>(注)</sup>。<br />
<br />
<div style="font-size: 8pt; line-height: 9pt;">
(注)ヴェイユが採用した対句構造に、西田幾多郎(1870-1945)氏が晩年盛んに使用したキーワード「逆対応」との類縁性を指摘することもできないわけではないのだが、ハイデガーと禅宗の関係が話題になった時もそうであったように、(インタヴュー取材に対する社交辞令的なご本人の言及を真に受けた)どこかしら児戯のような議論に堕する傾向がある。近年では、西田幾多郎氏のみならず鈴木大拙氏をも果敢に取り込んだ今村純子氏の『シモーヌ・ヴェイユの詩学』(一橋大学大学院博士号取得論文 慶應義塾大学出版会 2010年)などが注目されるが、わたし個人としては、それぞれが独自の内在的な思惟を展開してきた途上において、たまさかよく似た軌道を描いただけのものに過ぎないとむしろ抑制的に考えている。研究者ならば、販路の喧騒に耳をそばだてることつゆもなく、いま少し地道なテクスト・クリティークと精緻なテクスト解釈に、古色蒼然たる風貌と学者魂と確実な仕草をもって専心して頂けたらなあと、これだけ一億総ライターの時代ともなれば、そう思いたくもなってくるのだ。ご理解賜りたい。</div>
<br />
<center>
☆☆☆</center>
<br />
「悲惨」の種明しはここからである。いま少しご辛抱願いたい。<br />
<br />
ヴェイユはこうも語っているのだ。<br />
<blockquote class="tr_bq">
<b>他人を自分自身のように愛するということの中には、対照的に自分自身を<u>他人のように愛する</u>ということが含まれている。</b>(同書同章 下線An)</blockquote>
もちろん『聖書』を意識した表現である。<br />
<br />
今回は、イエス自身の言葉(の伝承)であったかどうかの議論は大事ではない。よしんばイエスの言葉でなかったとしても、以下の展開になんらの影響もない。なお、上掲引用前半部の初出は「福音書」ではなく「レビ記」である。<br />
<br />
むしろ「愛」を思惟し語るヴェイユの真価を決定づける言説であるかどうかを見極めることにこそ、今回の大事がある。『聖書』にキリスト者以上の深い理解を示しながら、しかし『聖書』を超えざるをえなかったヴェイユの過剰な精神の舞踏はもちろん、その預言者的資質などにも、信仰者・非-信仰者を問わず、一度は関心を抱いて頂ければなと思っているだけである。<br />
<br />
さて最初に引用した断章の段階で、ヴェイユが(根拠2 わたしたちは、他(自分以外)のものをしか愛することができない。)と考えていたことは確認することができた。<br />
<br />
ところが今引用した断章では、「自分自身を<u>他人のように</u>愛する」(下線An)ということを、内容はさておき、手のひらを返すようにヴェイユは認めているのだ。ただし聖書に登場する各表現に共通するのは(レビ記19. 18 マルコ12. 31 マタイ19. 19/22. 39 ルカ10. 27 ヤコブの手紙2. 8 ガラテヤの信徒への手紙5. 14 ローマの信徒への手紙13. 9)、「他人を<u>自分自身のように</u>愛する」(下線An)という箇所である。つまりヴェイユは、元の一節と鏡に反射させた一節との両方を、ついに見届けることのできなかった読者に提示していたのである。<br />
<br />
ヴェイユが推理的に追い詰められて逃げ出したかのように見えるが、彼女も『聖書』の記述を前提にしたうえで「<u>他人のように</u>」(下線An)という語句を畳み込んではいるがそっと『聖書』に差し戻してもいるので、それは見当違いであろう。</div>
<div>
<br />
はたして、「他人を自分自身のように愛する」ことのなかに「自分自身を他人のように愛する」ことを凹凸のようにして仕込んだ彼女の意図は何だったのであろうか?<br />
<br />
結論から申し上げたい。<br />
<br />
そのひとつは、<br />
<blockquote class="tr_bq">
ヴェイユは、被造物(beings created by God.)意識(知覚・感覚)を他者・他物との紐帯を担保する人類共通の基盤として最重要視した。</blockquote>
もうひとつは、<br />
<blockquote class="tr_bq">
その裏側で不安定になってきている宗教的紐帯(ちゅうたい)を、義と公平の実践を通しリカバリーし続けようとした。</blockquote>
残念なことだが、いわゆる「隣人愛」という術語が使用されているコンテクスト(文脈)は、わたしたちが想像している以上に複雑多岐に分枝してしまっており、一義的な釈義ではカバーしきれなくなっている。まさに川床に眠る砂金をザルで掘り当てるほどの困難さを特に信仰者は感じてきている。もはや「善いサマリア人」だけでは、一片の砂金も採取できない、そんな時代にすでにわたしたちは足を踏み入れてしまっていることに、気づき始めているのだ。<br />
<div>
<br /></div>
問題のコアはどうやら、自我分裂を根拠とする「他人(他者)的自己」とヴェイユが深く思索していた「他人」との違いにあるようだ。<br />
<br />
いわゆる自我分裂の現象過程には、「(絶対的)自己経験」といった相対化を拒否する前史が横たわっている。その不可視不可触な「(絶対的)自己経験」が、存在論的ビッグバーンとでも呼称すべき出来事を通して能動受動一切の機能を司る脳の生理機能から半ば自律したかのように偽装された自我(他者的自己)を成立させ、さらにその自我分裂(衝動・情動・知覚・意識する自分とされる自分)の活動を総体として再度対他化する統覚自我の登場をもって、わたしたち人間はそれぞれなりの自我分裂の循環に依存しながら、恒常的で安定的なとりあえずの「人格」というものを獲得しているのである。<br />
<br />
一方ヴェイユが直観していた「他人」とは、そのような自我分裂の証しとなる「意識」の「対象」として再構成された「他人的(しかし)自己」とイーコルではないのだ。その「他人的自己(ノエマ)」への愛が「自己愛」にすぎないことをヴェイユは百も承知なのだ。それはいとも簡単に憎悪に変容し、信じられないほどの攻撃性・暴力性・排他性となってみずからを昇華せずにはいられないものである。しかも極めて巧妙・狡猾な仕草を性癖としており、演出性の多重人格も出現しやすいため、判別・警戒に多くの支障をきたす。<br />
<br />
だからこそヴェイユは、わたしたち人間が「他のものをしか愛することができない」存在であるのなら、すなわち「他者的自己」を愛して過度な自己愛に陥るのなら、極めて不安定で危険に満ち満ちた反逆的な意識対象としての自己を「他人」と錯覚することを自覚的に停止し、そのノエシス-ノエマ構造の空位に、まったくの「他人」であると感じるほどの「被造物」(性/感/観)を受容あるいは体験し、自我分裂し続けるその「他者的自己」を絶妙のバランスで制圧し続けることの重要性を、不穏な時代を生きながらにしてなお、義と公平に満ちた世界の到来を預言するかのごとく頑なにも主張したのではなかったか、とわたしは思っている。<br />
<br />
ヴェイユの思索のどこにも矛盾は起きていない。<br />
<br />
「被造物」とは、「絶対的自己経験」からあくがれ出づる生命現象であり、その所有権は「絶対的自己経験」それ自体にある(出エジプト記3. 14)。しかもこの「被造物」には、自他の区別があるようでいて根源的には実はなく、いかなる局面においても「被造物」としてのアノニマスな公平が守られている。それでもわたしたちそれぞれが日々あらゆる局面で不公平を感じ苦しみまでするのは、上述した自己愛を受け過ぎた「他者的自己」の執拗な干渉と反抗のせいなのである。<br />
<br />
ヴェイユは、次のような問いを発している。<br />
<blockquote class="tr_bq">
<b>不幸があまり大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される。同情はある段階までは降りて行くが、それより下へは降りて行かない。愛がその下へまで降りて行くのは、どうしてだろう。</b>(同書「重力と恩寵」の章最終断章 改行無視)</blockquote>
「同情」は自己愛の変容である。<br />
<br />
「それより下へ」下降することができるのは全き「被造物」になった「他人」のみである。その「他人」が、これまた全き「被造物」に化した「他人」に下降していくのである。「神の似姿」を証しする人たちは、そういう無名の人たちなのではなかったか。<br />
<br />
わたしはかつて、全国有数の日雇い労働者と簡易宿泊所(ドヤ)の街、大阪は西成の愛隣(あいりん)地区で七年間ほどを鳶職人として生きていた。鉄骨の柱を親石にボルト締めし、その柱によじ登って対向する柱との間に梁(はり)を備え付ける。そうして仮締めをした不安定な梁の上を風に吹かれ伝い歩きしながら命綱をはっていく。そんなことを幾度も幾度も繰り返しながら上昇し、床も壁もないそれぞれの階で命が削り落とされていく音を定刻まで聞かなければならない、そんなとんでもない仕事であった。なぜこの職業を選んだのか、とたまに尋ねられることもあったが、「死ぬ勇気がなかったから」としか最後まで答えなかった。<br />
<br />
一日の仕事が無事終ると、茶封筒に入れられたその日の命の対価をいただく。薄っぺらな封筒を鷲掴みしたまま挨拶もせず、タオルでねじり鉢巻きをし、汚れた上着だけを今頃の季節なら七部袖の透けるような鳶シャツに着替え、腰道具を入れたバッグを肩にかけて、連れ立ってきたもうひとりの鳶職人と今度は肩で風を切りながら、そそくさと駅に向かう。駅で一杯、車中で一杯、ここは天国新今宮駅下車で一杯、そして行きつけの屋台で一杯。それからドヤ(簡易宿泊所)に戻る。路傍には大勢の人間が、ここでもそこでも、一様の表情をしてうずくまっている。<br />
<br />
わたしの鳶装束のポケットには小銭がいつもいっぱい。ドヤに到着するまでその小銭を少しずつ彼らにばらまく、と言うより酔った勢いもあってか、放り投げる。彼らはただの「乞食(こつじき」ではない。わたしも彼らを見下していたのではない。明日をも知らぬ我が命。彼らとて同じなのだ。彼らは彼らなりに達観しているのだ。いつ立場が逆転してもここでは何の不思議もない。長くその地区で生活していると、そういった無言の了解が成立する。本名も素性もお互いに分からない。詮索もしない。しかしどこか似ているのだ。皆、死にきれなかった人間であったからであろう。見ず知らずの人間に小銭をばらまくのは、この世界では、働くことが出来た者の当然の義務だ。この街は公平に満ちていたのだ。<br />
<br />
ヴェイユは先ほどの「問い」に自信を持ってみずから次のように応えている。同書「愛」の章からふたつの断章を併記させて頂くことにする。改行は無視した。<br />
<blockquote class="tr_bq">
<b>よろこびと苦しみとが、同じくらいの感謝の思いを生じさせるならば、神への愛は、純粋である。 </b></blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<b>幸福な人において、愛とは、不幸のうちにある愛する人の苦しみをともに分かちあいたいとねがうことである。不幸な人において、愛とは、愛する人がよろこびの中にいることを知るだけで満たされた気持ちになり、そのよろこびにあずかることなく、あずかりたいと望むこともしないことである。</b></blockquote>
これほど値(あたい)高い公平が「被造物(beings created by God.)」性/感/観の体験あるいは獲得から生まれて来ないとすれば、いったいこの地上のどこのなにから生まれてくると言うのであろうか!<br />
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Anhttp://www.blogger.com/profile/13032806251149355738noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-2701189162559071952014-04-20T12:01:00.000+09:002014-04-20T12:11:04.408+09:00ニーチェ箴言散策集・私家版 (21)<a href="http://keyword.blogmura.com/key00200691.html">[ニーチェ] ブログ村キーワード</a><br />
<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="float: left; margin-right: 1em; text-align: left;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi0iDnCe7iXzjVCSH3us960zMPIyzinuUXRBc7kPBsbTr_mT2qBuvj-TnS_ZoVXm7Zv7vaURPio6xqiVGBz-v4KAjwDieseE7gxsM641XIEPVb4bfi56uLi3hyaP6gcSZzZAE4FJGnTTQJ_/s1600/nietzsche.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img alt="ニーチェ箴言散策集" border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi0iDnCe7iXzjVCSH3us960zMPIyzinuUXRBc7kPBsbTr_mT2qBuvj-TnS_ZoVXm7Zv7vaURPio6xqiVGBz-v4KAjwDieseE7gxsM641XIEPVb4bfi56uLi3hyaP6gcSZzZAE4FJGnTTQJ_/s1600/nietzsche.jpg" title="" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">Friedrich Nietzsche</td></tr>
</tbody></table>
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)<br />
<br />
<br />
☆<b><span style="color: red;">今回140節の読みどころ</span></b>☆<br />
<b>「韻」を踏むニーチェの機知の思わぬ意図。</b><br />
<div>
◆<span style="color: red;">全既刊号はカテゴリーからどうぞ。⇒⇒⇒</span></div>
<div>
<br /></div>
<div style="font-size: 8pt; line-height: 9pt;">
原文・翻訳からの引用は「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。</div>
<br />
<a name='more'></a><div>
)))140節(((</div>
<blockquote class="tr_bq">
Rath als Räthsel. - 》Soll das Band nicht reissen, - musst du erst drauf beissen.《</blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
謎のような忠告。――「紐が切れないようにするつもりなら、――君はまずそれに咬みつかなければならない。」(一部傍点あり) </blockquote>
<div>
++++++++++</div>
<div>
<br /></div>
<div>
ドイツ語原文を見ますと、ここぞとばかり韻を踏んでいるのががわかります。'(nicht) reissen'と'(drauf) beissen'がそれです。面白いですねぇ。月の松島しぐれの白河。。。日本語のストイックな韻の踏み方(松島の「し」・しぐれの「し」・白河の「し」)とはだいぶ趣が違います。こちらは、山本譲二さんの大ヒット歌謡曲『みちのくひとり旅』(作詞 市場馨・1980年)です。気がつかれましたか?(笑)</div>
<div>
<br />
このちょっとしたニーチェの機知を日本語に翻訳するのは、至難の業です。木場先生も諦められたようです。「プチ(っと)切れないように」「バク(っと)咬みつく」といった変形翻訳でもよかったかな、と個人的には思ったのですが。。。(くそまじめな編集者は嫌がるでしょうが)。<br />
<br />
それはさておき。<br />
<br />
「紐」と訳されている部分から、まず「紐帯」を連想し、そして「見えない紐=関係(男と男、女と女、男と女、集団内外・共同体内外・階級内外・国家内外など)」に引き伸ばしてみますと、どうもニーチェは、それぞれのアイテム間の因果関係ではなく、むしろ支配(関係)の強度を保つ方途について、思いを巡らしていたようです。<br />
<br />
「謎のような忠告」。。。これはしたがって、一文字の子音の交替(こうたい)でその点をうまくハイライトできたと自画自賛したからこその書き出しだったのでしょう。聞き手の一瞬の虚をつこうとしたのかもしれません。悪戯半分、本気半分、といったところですので、あまりしかめっつらして考え込まないほうがいいかもしれませんね。<br />
<br />
「そうせよ!」と強要しているのではなく、そういった「真理」もあるのではないかとサジェッションした、という程度に解しておくのが賢明だと思われます。<br />
<br />
否、ソンナ解釈ハアマリニモ世俗的ダ!、と不満やるかたない方は以下をどうぞ(苦笑)。<br />
<br />
<br />
ニーチェは、彼自身にのみその所有権を託した神たる超人、ツァラトゥストラの全身を解体するかのようにして、次のような表現群を、『道徳の系譜』第二論文のなかにちりばめています。そのうちのいくつかを、実験的につなげてみましょう。<br />
<blockquote class="tr_bq">
「自立的な長い意志をもった約束をなしうる」「独我的個体」で、「うらなりの果実」、と喩えられるほどに、「自ら生身となったところのものについての誇らしい、全筋肉を痙攣させるような意識を、真の権力意識と自由意識を、およそ人間の完成感情なるもの」をもつ「支配者」でもあり、「約束をしたり自己自身を保証したりすることのできないすべての者に対し」、「足蹴の用意をし」「懲らしめの笞を用意する」ことによって、「自分がいかに立ち優っているかを、いかに多くの信頼、いかに多くの恐怖、いかに多くの畏敬」を「起こさせる」かを、「この健忘の化身」に知らしめる者である。</blockquote>
いかがでしょう。<br />
<br />
これぞニーチェ!という感じがします。ドイツ語で読むとそこいらじゅう唾だらけになりますよ(笑)。<br />
<br />
この「うらなりの果実(成熟した果実、とも)」の可能的存在への到達を目的因として、古代の残酷な「刑罰」は存在したのだ、とニーチェは考えています。<br />
<br />
「うらなりの果実」は、『旧約聖書』「創世記」に登場するエデンの園にあった「木の実」に対抗して案出されたものと考えられます。<br />
<br />
「謎」と言うほどではない箴言を、「謎」という言葉から書き始めたところが、また「謎」ですね(笑)。<br />
<br />
もひとつおまけで、話はとびますが。。。<br />
<br />
「咬(か)み」つかなくても「切れない」結び目、というものを人間の知恵はすでに生み出しています。主には、漁村から。<br />
<br />
その結び方、または結び目を、「もやい(結び)」と呼びます。<br />
<br />
ロープの結び方の要諦は、三つです。「結び易く、離れ難くも、ほどきも易し」となります。<br />
<br />
その他、「いわし」や「かんぬき」、さらにはそれらを組み合わせた結び方もあります。そうそう、「なんきん」というのもありました。<br />
<br />
また機会がありましたら、ビデオで実演してみましょう。<br />
<br />
(2008年06月10日 記)<br />
<br /></div>
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