tag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.comments2022-04-02T21:35:22.125+09:00十字架の現象学Anhttp://www.blogger.com/profile/13032806251149355738noreply@blogger.comBlogger11125tag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-25910938277253954762013-10-24T10:54:31.309+09:002013-10-24T10:54:31.309+09:00伊太利亜思想でしたら、ウンベルト・エコの作品など本書と極めて関係がありますね。
記号論、と全体的に...伊太利亜思想でしたら、ウンベルト・エコの作品など本書と極めて関係がありますね。<br /><br />記号論、と全体的に言えば「フワフワ」した思想のように思われますが、テクストの解釈が完全に自由なものではなく「なぜ」制限されるのか、という点について、ヒンティカなどの論理学者に範を求めているのは、エーコの論が「本当の意味での説得力」を持つと認識されるもとになっていると思います。<br /><br />さて、例の書評、あれはある意味では大変よく出来上がっている「反論書評」ですね。読んで最初はムカムカ、あとから呆れて、その後はかめばかむほどおいしいと思うようになりました。<br /><br />著者の紹介に始まり(これはありがたい限り)、あまり評者として触れられたくない決定的根拠(レストルフ効果)の部分もさらしていますし、言語学的な概念の使用で決定的なミスを「数箇所」行っています。<br /><br />名詞の「属性」なんて言葉、ラムダ抽象をやるくらいのつもり、外延を決定する要件は何かを明示するつもりで使わないと本来はダメでしょうけど。<br /><br />そして触れていない箇所(同一性言明など)は、評者が理解「したくなかった」箇所と言うことになります。<br /><br />また、旧約聖書の問題となる箇所は具体的に示して欲しいものです。わたしは二カ所ほど、事前に問題となる箇所をマカバイ、トビト両書で指摘されたことがありますが、前者は内容的に全く関係ないし、後者はラルフス版をみて、いつごろのどの写本によってるのかと噴飯ものでしたけれど。<br /><br />ところで、この評者は、私の「元」指導教官ではないと思います。私には、この評者には別の心当たりの人物があります。<br /><br />この評者ももう少しカール・ポパーあたりを読んだほうがいいんじゃないかね。自分の議論の正当性を、「注解書」を読む「私見」にもとめちゃ、いかんでしょ。分析の根拠と手順、それがいかに他の科学でも保証できるかを明示するのが、この手の研究ですからね。<br /><br />私の「元」指導教官が、こんな<br /><br />「そう言語直感に基づいて解釈したいだろうが、そうしないのが自然な解釈だ」<br /><br />のような支離滅裂、いや自己撞着な評を書くとは思えませんよ(笑)。<br /><br />これは彼の名誉のために言っておきましょう(いくら「元」指導教官であったとしても)。<br /><br />さて、面汚しはこれくらいで。私の本も、可能世界を導入する前に、論が終わってますから、こりゃダメですと自己反省してるんですから。<br /><br />ぜひぜひお体、お大事になさって下さいませ。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-70657715445202273972013-10-23T16:04:50.353+09:002013-10-23T16:04:50.353+09:00わたしのような者のブログをよく発見されましたねぇ(笑)。
「無反応よりまし」。。。わたしもそう思い...わたしのような者のブログをよく発見されましたねぇ(笑)。<br /><br />「無反応よりまし」。。。わたしもそう思いますよ。研究発表時のあなたのレジュメ、たいせつに保管しています。<br /><br />幾度が聖書解釈ブームのようなものが、ご承知のとおり、日本にもありますが、「今」もうすでにあらたなブームのなかにいるのでは。。。と感じたりもします。<br /><br />わたしは今、イタリア現代思想のあたりをふらふらさまよっています。<br /><br />ますますのご活躍、期待しています。Anhttps://www.blogger.com/profile/13032806251149355738noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-16776097506318640852013-10-23T10:52:04.535+09:002013-10-23T10:52:04.535+09:00ありがとうございます。その「著者」です(苦笑)。
さて、この評者、Specific Usage(特...ありがとうございます。その「著者」です(苦笑)。<br /><br />さて、この評者、Specific Usage(特殊な用法:こちらは)とSpecific Reading(特定解釈:こちらは意味論に関係する)を混同されていますね。<br /><br />まあ、この評者も言語学は完全な畑違いでしょうから大目に見ることにしますが、明らかな「間違い」ですね。もう少し注意深く「文章」を読むことをお勧めしたいところではあるんですがね。<br /><br />まあ、書評なんてこんなもんでしょう。無反応よりまし、と言われました。とりあえずブログにおとりあげいただき、ありがとうございます。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-31608787183597146822012-12-15T07:22:37.870+09:002012-12-15T07:22:37.870+09:00何よりも拝読頂きましたこと、感謝いたします。
よく勉強されているなぁ、と感じました。
ご指摘のと...何よりも拝読頂きましたこと、感謝いたします。<br /><br />よく勉強されているなぁ、と感じました。<br /><br />ご指摘のとおり医学・心理学からの接近もじゅうぶん可能です。ニーチェに対するものというより、ハイデガーの語る「存在」とフロイト『快感原則の彼岸』で扱われました「死の欲動」との異同を巡る議論は、古くて新しいものでもあります。<br /><br />ご承知だとは思いますが、その議論の最も簡潔な沿革としては、木村敏『心の病理を考える』第二章「精神病理学の歩み」を挙げることができます。<br /><br />「デジャヴ」に関しましても、木村敏『偶然性の精神病理』第二章四節五節六節などに、ひとつの考え方が示されています。<br /><br /><br />「デジャブ」に関しましてわたし自身は、フッサールの「ノエマーノエシス」構造が還流する際の一過的な「しゃっくり」のようなもの、と感じていますが、きっとこの散策集連載のどこかで触れているはずだと思いますので、気長にお待ちください(冷汗)。<br /><br />最後にご指摘になられた「第六感」は、Ryohcoさんの仰るとおりです。一歩踏み込みますと、「第六感」と言いますより「第一感」に位置する。。。と捉え返したのが(少々強引な書き方ですが)ハイデガーであった、とわたしは感じています。<br /><br />これからも気長に気楽にお読みください。<br /><br />ありがとう<br />アノニマスAnhttps://www.blogger.com/profile/13032806251149355738noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-67509012026759773552012-12-15T02:52:54.814+09:002012-12-15T02:52:54.814+09:00大変勉強になり、非常に興味深い内容でした。
まず女の虚栄ですが、他者への批判的思考が根源にあるから...大変勉強になり、非常に興味深い内容でした。<br /><br />まず女の虚栄ですが、他者への批判的思考が根源にあるから見栄を張るエネルギー(対抗心)へと変わる。この解釈は心理学でも確かにあります。<br /><br />記事中では4点程の観点解説がなされており、1点ずつに答えたくなる衝動はありますが、コメントとしては膨大な文字数になってしまいますので、それは自身のブログにて解説したいと思いました。<br /><br />気になった2点だけに触れます。<br />『忘却』について、医学上ではある種の記憶喪失や失認を発症しても、やはり『自らが意識する意識』内では思い出せないだけであって、一度体験経験した事を完全に忘れる・消去する事はないと言います。<br />それは単に一時的な外的要因によって海馬や小脳変性体など記憶を司る電気信号の誤作動に過ぎないというものです。<br /><br />ニーチェ、ハイデガーが言語化と表彰化を試みた結果は医学的(科学的)実証が困難であり、フロイトが提唱した『意識と無意識』『無意識の中の意識』に由来出来得る同意だと思います。<br />同じように、自我・エス・超自我と「現実的外界」を加えた四要素の相互関係から人格形成論が展開されました。<br />それらは、主観的(感情)に感じて(意識)している自分、客観的(内向的)に感じる(無意識)もう一人の自分、そして他者から見られている(想像or憶測)自分であり、意図的で容易に自らを操ることを人は瞬間的にやってのけているものであり、そのことにまた気付いてもいないと解説されます。<br /><br /><br />よって脳刺激性物質依存者が見る、幻覚や幻聴、幻視などは『状況』としては在り得なくても、その人の中の潜在意識(深層心理)に確かに存在し、また覚醒(非依存)した後もその記憶は忘却し得ないものです。<br />リビドー(心的エネルギー)に刻まれ、それは逆行的回想内(エディプス・コンプレックス)に起因しているからです。<br /><br />それが『恐るべき体験』を意味しているのではないでしょうか。<br /><br />私はデジャヴをよく体験します。<br />怪奇現象、ラップ音や衝撃波、真実か否かは自分で理解出来ませんが俗に言うドッペルゲンガー体験などあります。<br />よく五感しか存在しないと科学者らは言いますが、第六感や予知は確かに存在します。<br /><br />そう云った「いま」に遭遇している時、意識はまさに「エポケー」というのですか?その様なある種の瞑想状態にも似た空白の世界に自分が居ます。<br />本人は自覚がなく、また何故か記憶も現当時にはなく後から思い出します。<br /><br /><br />興味深き記事を拝見させて頂き、有難う御座います。ryohco-edonahttps://www.blogger.com/profile/02845037935941991314noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-64895479323098161642012-11-24T03:54:34.548+09:002012-11-24T03:54:34.548+09:00少しも無礼なことはありません。
これからも、ご遠慮なくご意見を展開してください。ありがとう。少しも無礼なことはありません。<br /><br />これからも、ご遠慮なくご意見を展開してください。ありがとう。Anhttps://www.blogger.com/profile/13032806251149355738noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-56490421243854353442012-11-24T02:18:34.619+09:002012-11-24T02:18:34.619+09:00少し言葉足らずの部分があったようで、すみません。
『精神と肉体は連動している』
これを書き足さねばと...少し言葉足らずの部分があったようで、すみません。<br />『精神と肉体は連動している』<br />これを書き足さねばと思いつつ書き損じました。<br /><br />私の記憶が悪くTwitterで呟いた事なのか、ブログに書いた事なのか、自分だけの日記に書いた事なのか探しても今見つけられませんが、頭の中に残っている言葉をご紹介します。<br /><br />『死因』を問題視するのは死んだ人間ではなく、実は残された方にあるのだ。<br />ただ死ぬ人にとって、遺書を残すか残さないかは大問題であり、生きた証や死に逝く思いを知らせたいかどうかに向き合わなければならない。<br />その最期の仕事は唯一自分の為だけに成すことに過ぎない。それはこの世から去る自分と向き合う最期の瞬間だからだ。<br /><br /><br /><br />生ける者、死に逝く者のその後を考えていた時、こんなことを思いふけった事がありました。<br />キリスト教会でもお寺でも、あの世へ送り出す人たちに(神父、住職)一番勉強して欲しいと思う事です。<br /><br />無礼なのは私の方かもしれないと感じてしまいます。ryohco-edonahttps://www.blogger.com/profile/02845037935941991314noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-69859992313647617412012-11-23T21:17:00.832+09:002012-11-23T21:17:00.832+09:00率直なご意見に感謝します。
「自死」と「自殺」は違うというご意見、よく理解できます。ただ、情報操作...率直なご意見に感謝します。<br /><br />「自死」と「自殺」は違うというご意見、よく理解できます。ただ、情報操作の主導権がわたしたちにはありませんので、従来の「自殺」の意味が「自死」に包摂されていく趨勢自体を阻止するのは、困難かなとも感じます。たとえば「経験」と「体験」は、わたし個人は全く違うもの、と今でも考えていますが、いつのまにか「体験」の生々しき意味は、「経験」というドライな表現に包摂されてしまっています。「体験」と言うべき時に、人々は平気で「経験」と言うようになっています。わたし個人でこの趨勢を阻止することはできません。<br /><br />二点目ですが。。。<br /><br />身体的な病気と精神的な病気の前後関係について。わたしの立場からは、見えようが見えまいが、同時に起こっている、と考えています。どちらかが原因でどちらかが結果であるという考え方は、じゅうぶん理解はできますが、今のわたしにはありません。精神疾患をかかえた方の「自殺」を「病死」だ、と断定する牧師には、やはり同意しかねます。<br /><br />最後に、信仰者は精神医学の基本を学んでおく必要がある、というご意見には同意します。ただ、日本にプロテスタント系キリスト教が移植されてすでに150年がすぎています。それでこの状態です。日本には約8000の教会があります。指導者は1万人を越えています。自殺問題に関しての指導者の無関心は尋常ではありません。<br /><br />今はほとんどの教会が財政危機に直面しています。信徒が減少しているからですが、指導者たちの関心が自殺問題に向けられることは、全体としてはなかろう、とわたしは絶望視しています。教会は中産階級化しています。たとえば、日雇い労働者たちの姿を教会で見ることはほとんどありません。<br /><br />イエスは、短い期間でしたが、最初から最後まで荒野で、社会からはじかれた人々とともに食し苦しみ励まし行動しました。イエスの信仰とふるまいは、まったく現代のキリスト教指導者のふるまいとは異なります。<br /><br />回答になりましたかどうか、無礼がありましたらお許しください。<br /><br />コメントありがとう。<br />Anhttps://www.blogger.com/profile/13032806251149355738noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-48999408401825284662012-11-23T19:21:47.707+09:002012-11-23T19:21:47.707+09:00『自死』と『自殺』について私の見解をひとつ。
自殺についてのtwittを見たので私の意見を。この所自...『自死』と『自殺』について私の見解をひとつ。<br />自殺についてのtwittを見たので私の意見を。この所自殺ではなく『自死』と表現を変えようという動向。造語が氾濫する中、それは違うと思う。自死は餓死等の原因や不可抗力により死亡したもの、自殺は何らかの手段を使用し自分を死なす行為。まったく本質の意味が違う。<br />と以前Twitterにて書いたことがあります。<br /><br />これは恐らく精神分析や医学的な観点の捉え方でしょう。<br /><br />しかしこの神学観点からの記事での、精神的な病巣からの死は、病死という捉え方は間違っていないと思います。<br />確かに死に至る過程には、先に肉体が病んで精神が病んでしまう(反応性うつ状態)のか、精神が先に病んで身体機能が低下し肉体が病んでしまうのか、どちらか一つだけが問題となって死んでしまうものではない場合があるでしょう。<br /><br />ただ神学教会でのアンケートで、何とも答えかねた理由は、やはり『自殺』の衝動に駆られる概念が『神学的観念』でしか計れない故、聞くことしか出来ないが本当の答えなのではないでしょうか。<br />では、神父はどのように対応したら良いのか?という議題そのものが愚問にならぬために、気付くべきことは一体何かです。<br />それは『聞くに徹する』ならば、心から相手の心の叫びに耳を傾けて、耳と心を澄ますことに解決の糸口(神学者にとっての)があることでしょう。<br /><br />ただ聞いてくれるのなら道端の石でも夜空の星でも何でも独り言を言えば良いのです。<br />しかし求めてくる念慮者は、最後の温かさをその相手に求めています。<br />『心の毛布』を与えることこそが、神父の役割ではないかと思います。<br /><br />実質的な効果を与えられるのは医師しかありませんが、その医師でさえ薬剤とカウンセリング、心理療法を駆使しても救えない命があります。<br /><br /><br />昔から精神科域では、時に信仰が精神を安らげ病気を救うものになる、と言っています。<br />それはどんな優れた医者や薬剤にも勝るとも言います。<br /><br />そう云った観点からも神学者は『出世』に捉われず、また神学だけに目を向けるのではなく精神医学の概要だけでも少し勉強されては如何かと思いました。ryohco-edonahttps://www.blogger.com/profile/02845037935941991314noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-67857577552875166552012-11-23T08:24:41.769+09:002012-11-23T08:24:41.769+09:00丁寧にお読みいただきありがとうございます。書き出しは、「ヤコブから一筆啓上」、となっています。迫害に...丁寧にお読みいただきありがとうございます。書き出しは、「ヤコブから一筆啓上」、となっています。迫害に苦しむ指導者への往復書簡の一部であったようです。重訳の許可は、初代(原始)キリスト教資料の管理者米国のピーター・キーバイ君から得ておりましたので、全文掲載を、とも思いましたが、ブログとしては長すぎるため、一部だけを紹介しました。<br /><br />仰るとおりいずれの信仰も、「生き死に」の孤独極まりなき人間体験が主幹となっています。そこからさまざまな枝がとりどりの宗教となって生い茂ります。どの枝振りをよしとし選ぶか、あるいは選ばないかも含め、全権はその方個人に委ねられています。<br /><br />ご指摘頂いた通り、信仰と宗教の順位が逆転している現実が多くあります。キリスト教も組織化されるにつれ、夥しい数の無垢な信仰者や異民族に筆舌しがたい犠牲を強いてきました。<br /><br />わたしがイエスの言動の背後に信仰のまことを強く感じながら、教会を離れましたのは、ただイエスの信仰とわたしの信仰を、宗教という名の世俗的な権力機構から守るための選択でした。イエスの生き様とその揺るぎなき信仰が、病にあるわたしを奮い立たせてくれています。<br /><br />ありがとう。<br />Anhttps://www.blogger.com/profile/13032806251149355738noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8904761981339531837.post-44034186582405009092012-11-23T01:07:25.239+09:002012-11-23T01:07:25.239+09:00私はキリスト教徒でも仏教徒でもありませんが、唯ひとつ未だに勉強して考えふけっているモノがあります。こ...私はキリスト教徒でも仏教徒でもありませんが、唯ひとつ未だに勉強して考えふけっているモノがあります。この記事に対して不適切かも知れませんが投稿させて頂きたく思いました。<br />それは『般若心境』を10代から書いて居り、救いを求めるとかそう云うものではありません。<br />以前から仏教とキリスト教にとても共通していると感じていたのは、正に『生とはどういう事であり、死とはどういうものなのか』これを同じ様に説いている節です。<br />『究境涅槃三世諸仏依』とは、簡略すると唯命とは在るものだという意味です。<br />しかし生を受け死に行くまでの命は瞬きの如く非常に儚く短いものだが、どの様に生きるのかを選択するのは自分であり、それがやがて死に様に現れるであろう。<br />この記事のイエスの言葉は、自分にしてきた事、自分がされてきた事、そしてイエスが最期をどのように迎えたのか、そこから学びなさい。そして、いつでも思い出しては自らの行いの様を振り返り、悪に流れ易き己を律する事を知りなさい。そのように言っているように感じました。<br /><br />『姿なきイエス』という言葉、『十字架を信仰させようとする信徒』これは大変勉強になりました。<br />イエスや釈迦が教えたかった事は、人の振り見て我が振り直せだったのではないかと思います。<br />双方とも他者を切り捨てるのではなく、受け入れる心を磨きなさい。ではないのかと思う所があって、殺し合いをしろとは一言も言っていないにも関わらず、聖地争いや宗教の対立をする生ける人間の愚かさを静観しています。ryohco-edonahttps://www.blogger.com/profile/02845037935941991314noreply@blogger.com