2012/05/20

罪の告白(Confession)とは何か?贖罪論批判

「告白(Conffesion)する」、という言葉の語義を検索してみたが、どうも釈然としない。

そこで、対照するコンテクスト(文脈)をとりあえずは「マルコ福音書」第1章5節にさだめ、造語の痕跡を色濃く残すドイツ語に迂回してみた。


bekannten
不定形(原形)は bekennen で、語構成からは、be+kennen となる。

' be ' は前綴り(派生語形成接頭辞)で、後接する動詞を他動化する機能がその主なものである。主体において自己完結する動作(あるいは状態)がさらに動作主体外にも及ぶということから、結果として使役性を帯びた意味に変容する場合が多い。

kennen 、ドイツ語学習のごくごく初歩の段階に登場する動詞で、感動した方々も多かろうと思う。

第一位的意味は、「知っている」、であるが、ドイツ語には wissen という語もある。これも、「知っている」、である。

「知っている」に相当するドイツ語が wissen と kennen とに分かたれているのは、修辞上の問題ではまったくない。

ことごとしく申し上げればその併存は、いわば「経験知」と「体験知」というものへの厳粛な自己内世界分節の結果なのである。

したがって、 kennen は、認識の前景で処遇される乾燥した「経験知」を「知っている」と述べたものではなく、見た・聞いたを含む個別的で単独的な言語主体のそのつど一回きりの体験に舫(もや)われた、まさに存在の臭気漂う生々しき「体験知」を「知っている」と予告する震撼すべき呟きであり語りである、と敷衍することもできる。

とはいえ、存在の臭気漂う「話題(体験知)」など、だれが好き好んで言語主体外に呟き語ろうとするであろうか。だれがみずからしてその「話題」に耳を傾けようとするであろうか。

聞き手はもちろん、当の話し手をも無差別に襲撃するこの「拒否」に、それでも立ち向かい、近づき、さらには粉砕せんとする「告白(する)」とは、いかなる事情があってどのように出来(しゅったい)するのであろうか。。。


この問いは、「嘔吐」、という言葉を引き寄せる。

その生理機序から、「告白」の存在機序を垣間見ることができる。

「嘔吐」は、当人の体内になにがしかの不具合または不(調)和があることの徴(しるし)である。

意図してするものでは、本来はない。意図せずして、いやそれどころかそうはならないことをその予兆の刻一刻に願いとどめたにもかかわらず、当人を嘲笑うかのようにして「こみあがってくる」、それが「嘔吐」であろう。

だとすると、「告白」の出来(現象機序)」も、「存在者」とその「存在」との不和から「意図せずして」自体的に展開したもの。。。と直観したとしてそれほど不自然なことではない。

そもそもわたしたち「存在者」は、わたしたちの「存在」を不完全にしかコピーすることができない「幸いなる不和」を通してのみ「生きてある」ことができている。「存在」の完全コピーは、「死」以外のなにものでもないからである。すくなくともハイデガーは、そう洞察しそう記述した。

しかし「告白」をめぐってわたしが問うている「存在者」とその「存在」との、嘔吐の如く「こみあがってくる」不和は、この「幸いなる不和」を襲撃しさらには粉砕もしてしまうような不和のことである。「存在の反乱」、とでも名づけておきたい。

結論を急ぎあえて陳述化すると、
「告白」とは「存在の反乱」である
ということになる。

残念ながらハイデガーの洞察は、描画を拒否する。換言すると、描画できないそのことが、まさに出来(現象)に触れていることの証しとなっているのである。したがって、ハイデガー解説の書物などに見受けられる描画のすべてはデタラメである。これは過言ではない。

言わずもがな、わたしの下の描画もまったくのデタラメである。苦し紛れのあがきである。そう思われてご覧いただきたい。ハイデガーの洞察から、最低必要限度のものだけを拝借して、わたしの直観する「存在の反乱」の機序モデルなるものを素描して終わりたい。

なお近い将来、「3D」表現、または「ロボット」、または原子を構成する電子軌道のうちの「P軌道」などを通して、ハイデガーの洞察がより的確かつ生動的に示されることもあろう、と個人的には感じている。わたしにその力はない。

さて左の描画中、赤色で示してある Noesis(意識作用)/Noema(意識対象) は、恩師フッサールが多用した術語である。ハイデガーがそれらをSorge(気遣い、関心)のなかに格納したのは、依然として残る継起性(形而上学性)を払拭するためであった。

描画においてSorgeをフッサールの用語に差し戻したのは、「存在の反乱としての告白」を記述する上でたいそう便利なものだからである。また描画中日本語表示してあるものには、わたし個人の解釈が含まれている。あわせてご容赦願いたい。

このハイデガーモデルは、◆「(内外的)世界(Welt」にまったく同期している側面(SEIN)と、◆同期しているように装われてはいるものの、じつは不可避的な時間の誤差(Timelag 立ち遅れ)に駆り立てられながら「世界」を追認している側面(SEIENDE)とが、◆まるでフーガ(対位法)のようにしてその誤差を保ちつつ、◆しかしそのようなものとしてのみ、「自己」と「世界」を自己みずからに刻一刻奇跡的に開示することができている、◆その点をフューチャーしたものである。「現存在(Dasein)」と呼称し、簡単に「人間」とは記述できなかった、それがハイデガーの事情であった。

しかしこのハイデガーモデルは、わたしたち「現存在」の標準であるにすぎない。

わたしたち七十億の「現存在」の実際は、その今昔を問わず、いま喩えたようなフーガの恒常性が思うほどには堅固でなく、したがってみずからの「存在(SEIN)の反乱」に急襲される者もけっして少なくはない、ということを示してくれている。

「存在(SEIN)」とは、アイステーシス(感覚)に飽食した「統覚領野」一切の「世界」の追認追跡行為に先立ち、刻一刻の即自的「世界」接触を「Befindlichkeit(情状性)」において同時翻訳してしまうもので、「世界」の「Verstehen(了解)」と「Rede(語り)」の分節可能性とを、いわば和声としてその翻訳に取り込んでしまっているものでもある。そこに継起性はない。

「統覚領野」(→SEIENDE)の支配は、「存在(SEIN)」にはなかなか及ばない。しかし「存在(SEIN)」のこのような世界同期現象機序が、「統覚領野」の継起的恒常性を維持するためになくてはならない「時間の誤差(Timelag 立ち遅れ)」の根拠であることは否定できない。ハイデガー自身、「情状性」がいわゆる日常的な感情や情念等を指示したものではないことを指摘する一方で、日常的な「気分」様態が、その人のその時々の世界了解に結びついている場合もあることに言及している。

そうすると、「SEIN(存在)」と「SEIENDE(存在者)」に看取された「時間の誤差(Timelag 立ち遅れ)」の恒常的な質・量を決定しているのは、「Sorge(気遣い、関心→Noesis/Noema構造)」、ということにもなってくる。

つまりはこういうことである。

「Sorge(気遣い、関心→Noesis/Noema構造)」が、見えもせず聞こえもしない「SEIN(存在)」の世界了解にそれでも敬意を示している限り、「時間の誤差」は最適化され続ける。しかしながら、Noesis(意識作用)/Noema(意識対象)構造が極度な自己運動を始めると、「SEIENDE(存在者)」に「SEIN(存在)」の世界了解を供給しながら「時間の誤差」を産み出していた通路自体も、徐々に狭窄していく。

通路が狭窄しても、「SEIN(存在)」はある。そのため、「SEIN(存在)」の世界了解はどんどん膨張し始め、ついにその根源的な関心の中に、「SEIENDE(存在者)」自体を引き寄せるようになる。

「SEIN(存在)」みずからが、その姿を現すデモーニッシュな時である。

しかしどのようにして姿を現すのであろうか。。。


Noesis/Noema構造の恒常的な循環を寸断することから、それは始まる。

ノエシスの対象化機能は、捉えどころなく無際限である。構成されるノエマも、そうである。

「SEIN(存在)」は、このようなノエシスに止めを刺さない。それは「SEIN(存在)」の自死を意味するからである。

ノエシスの循環機能を寸断すると、おのずとノエマの構成が途絶え、そこが空位となる。

空っぽのノエマが構成され続けている、ということは、ノエシスが方域を見失っておなじところをぐるぐると旋回している、ということでもある。不穏である。

この状態に、わたしたちは長く耐えることができない。

おそらくこのあたりの機序に、存在の反乱としての「告白」が位置するのではないだろうか。

しかし事の顛末は、もう少し先にある。

ノエシスは、みずからの機能を回復しようとして「SEIN(存在)」への狭窄した通路を手探りで見出す。あれほど無関心であった通路を、である。

飛び込む以外ノエシスに選択肢はない。

飛び込んだ瞬間、ノエシスの機能は回復した。「SEIN(存在)」に対面したその背には、「世界」ばかりか、「Zeitlichkeit(時間性)」、さらには「Nichts(無)」にも接触するおぞましい光景が開いていた。

「SEIN(存在)」はこのようにして、みずからを示すのである。

ノエシスは忘我するほどに戦慄し、「SEIENDE(存在者)」に帰還した。

空位となっていたところに、徐々にノエマが構成され始めた。

ところが。。。

どれひとつとして、これまでと同じものはなかった。

「世界」の色そのもの、匂いそのものが、すっかり変わっていたのである。

これが、回心本来の姿であろう。

聖書に登場する夥しい数のユダヤ人の体験を疑うのは、存在論的には不可能である。

(下手な描画ですが、必要な方は自由にお使いください。何の制限もありません)

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