2012/03/18

ハイデガー!五分で分かる現象学

わたしの好きな一文のなかから。
Philosophie ist universale phänomenologische Ontologie, ausgehend von der Herneneutik des Daseins, die als Analytik der Existenz das Ende des Leitfadens alles philosophischen Fragens dort festgemacht hat, woraus es entspringt und wohin es zurückschlägt.
泰然たる前半、胎動する中間、そしてこだまする後半。ドイツ語ならではの韻律だが、日本語では如何ともしがたい。次の程度の意訳はゆるされようか。斜体は無視した(19版)。

哲学とは、普遍的な現象学的存在論である。すなわち(そのつど私のものである)実存の分析論としてそれは、哲学的問いすべての導きの糸の片端がそこから寄せてはまたそこへと打ち返すところに舫(もや)われた現存在の解釈学、というものを出発点としている。(アノニマス)
ご覧のとおり原文は、「哲学」を総主語とした命題(陳述)である。

凡そ命題というもの、当然のことながら、主語と述語とにより成る。概念と判断、と言っても同じである。

ところでこの命題一般に至る過程をよくよく内省してみると、どれもこれもが、空間表象における継起的な推理証明を前提要件として成立した、いわば「額縁の中の真理」にしかすぎないことが分かってくる。海上に少しだけ突き出た海底火山の、ささやかで誤差のたいへん大きい、じつにはかない姿。。。と喩えることもできよう。

ハイデガー世界内存在する現存在モデル
ハイデガーモデル
その姿が、頂上からのものではなく海底のさらに奥深くにある岩盤の変容からのものであるように、わたしたちのそのつどの今の存在(生命)も、真っ白な空間表象に担保された絵画的で静止的な、したがって幾何的で水平的でもある推理証明や命題にすっぽり納まるしろものではなく、つねに絶えずどこかで , I am no such thing. I am MYSELF, MYSELF alone., と木霊することを通してのみ、それ自身たりえている。

「わたし」のみならず「わたしたち」とは、かつてカントが言及した「物自体」の限界をそのつどいとも簡単に粉砕しながらも、その存在の不可思議(神秘)から遠く旅立ち来りてはあたかも「今」噴出したかのようにしか認識の前景において待遇されない、したがってつねに最も立ち遅れた時間にみずからを無自覚に封印した、じつに奇怪な生き物なのである。

上掲の一文は、そのような人間存在の生成と変容に関与する鉱脈を射当てるべくハイデガーが、現象学と解釈学とを搭載した岩盤掘削機の先端を人間にあてがった、その瞬間にみずからをしてシャッターをきらせたものであろう。

そのように読めば、この一文はもはや静止的な命題ではなくなる。

試しに総主語「哲学」を、人間の仕草一切に関する他の概念に変換してみられるとよい。

幸とは。。。不幸とは。。。豊かさとは。。。貧困とは。。。自由とは。。。不自由とは。。。平和とは。。。戦争とは。。。善とは。。。悪とは。。。生とは。。。死とは。。。神とは。。。無神とは。。。釈迦とは。。。イエスとは。。。わたしとは。。。。。。

なんだって成り立つのが、お分かりになられよう。

この「なんだって成り立た」せてしまうハイデガーの述語こそ、わたしたち人間存在に関わるこれまでの一切の言説が、なるほど想像以上に複雑な回路から構成されたものではあるものの、じつはまことにシンプルな産出機序からそのつどすでに先立って同期現象してしまう全一的な出来事を、ただはなはだ立ち遅れた意識の前景で模造しただけのものでしかなかった、ということの証しなのである。


例をあげてみたい。

大地震が起こった。誰もが動顛した。大地を叩き慟哭する者も多くいた。

しかしながらそれらの反応は、あくまでも事象への反応群であって、事象にはるか先立ち全一的に立ち上がっていた「現象」に伴うものでは、どれひとつなかったのである。

大地震が「現象」を開始してしまっていたその時、はたしてわたしたちは何をしていたのか?

一家団欒、恋人との逢瀬、人生相談に商談。。。

大地震の「現象」と同期することができた者など、一人もいなかったのである。

そのことに思いを馳せると、わたしは激しく動揺する自分を感じる。

戦争に反対する者、差別偏見を糾弾する者、ネオリベラリズムを憂う者、罪を説く者、そして神の義を弁証する者。。。

どれもこれも立ち遅れてしまっているのである。

奇しくもスピノザ(1632-1677)は、自然や社会の不完全性の所以を問われ、次のように書き残している。
「神には完全性の最高程度から最低程度にいたるまでのすべてのものを創造する資料が欠けていなかったからである。」(『エチカ』畠中尚志訳)
弁証の極みにおいてスピノザは、善でも悪でもなく先立つ「現象」とその起点を、確実に覚知していた。

その意味から、スピノザはハイデガーの予型であった、と言いうるであろうか。

ニーチェはどうか。

ニーチェは、「立ち遅れる時」ゆえすべての事象が永劫回帰することを通し、「先立つ時」を感受している。

ならば二千年前の一瞬を駆け抜けたイエスはどうか。

福音書「マルコ」によるかぎり、「先立つ時」に最も同期しえた人物として記録されている。イエスの外部時間は過越祭に向かうよう配列されているが、内的時間はそのつどの今に垂直に聳え立っているかのようである。


現代を生きるわたしたちはどうか。

わたしたちは、「立ち遅れた時間」のなかに密閉されてしまっている。

では先立っていたはずのわたしたちは、どこに「ある」のだろう?「先立つ時の膨大」のここかしこで、押し花にでもなっているのであろうか?

わたしの直観は、「生ける花」のほうに傾いている。

つまりはこういうことである。

それらは、立ち遅れる時の篩(ふるい)の目に適わなかっただけのそのつどの「わたし」であって、先立つ時をなお羽織り続けては、立ち遅れる時のなかの「私」が、それらをもはや「私」ではない「わたし(A power more than ourselves)」として畏怖しつつ受容せざるをえなくなる奇跡の瞬間を、ただひたすら待機する、そのような「わたし」なのである。

イエスはもちろん、ニーチェやハイデガーやスピノザも、このような「わたし」に気づいてしまった人たちなのである。それをそれぞれがどのように命名呼称したかなど、問題ではない。


最後に、右派の論客佐伯啓思氏の近著『反・幸福論』第七章のタイトルを紹介しておきたい。
畏れとおののきと祈りと
内容は30ページ近くにも及んでいる。かつての硬派な佐伯氏からは、想像だにできないほどの切々たる叙述であった。「東日本大震災から。。。」で始められている。

ちなみにつづく第八章では、ハイデガーにも言及されている。

佐伯氏は1949年生まれ、わたしは1951年。

天と地ほどの違いこそあれ、佐伯氏もわたしも、「わたし」に気づいている。

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