2012/11/10

語る・聞く、の出入り口

(以下は、2010.10.10、に書かれた記事です)

「聴従」という言葉を、「(神への)従順」という文脈に転用する説教者が多い。

文句を言うつもりはないのだが、これでは淡水魚を海水に放ったも同然である。百害あって一利なしである。

「聴従」という熟語を訓読みすれば、「聴き従う(gehorchen)」となる。言葉の問題に限定すれば、与格を同伴する動詞である。与格がなければ、たちまちこの動詞は、ただの落書きか雑音になりさがる。

実は「聴従」という熟語の生い立つこの対他的与格性が、説教者の思惟を「(神への)従順」に牽引するのである。信徒を牽引しているのは説教者ではなく、この熟語の対他的与格性なのである。

この危険を鋭く察知していた人、それがマルティン・ハイデガー(1889-1976)である。



結論から申し上げて、ハイデガーは、「聴従」の対自的与格性(再帰性)が獲得した「現(Da)」に降り立ち、そこで「聴従」の対他的与格性に「現(Da)」への遡及力を充填装備させ、形而上学的言説に遮断された他者のものなる「現(Da)」を標的にして、この「聴従」を発射台に載せようとした、と言ってもよかろうと思う。

「現(Da)」とは、われわれのそのつどの存在が存在として存在することを告げ知らせる(開示する)「気分」のことである。この「気分」の目覚めと同時にわれわれは、すでに他者をも含む世界を「了解」してしまっているのである。しかし普段ほとんどの人は、この原事実にまったく気づいておられない。この「了解」が、「解釈」の存在論的な根拠になる(とハイデガーは考える)。

「理性、判断、概念、定義、根拠、関係」(『存在と時間』序論第二章第七節B 原佑訳)などは元来、すべてこの「解釈」の派生態にすぎなかったものである。

ところが・・・

この「解釈」の派生態が、いつの日からか、存在の開示を告げる「気分」と世界「了解」とに結ばれていたはずの糸の目をひそかにほどきはじめ、ついにはわれわれを、日常のかまびすしき言説捏造の虜(とりこ)にしながら、われわれの存在から引き裂いてしまったのである。人類の共同幻想なるものも、それと同時に大半が潰えたのである。

ハイデガーの孤独と苦悩は、そこにあった、と言ってもよいであろう。

ハイデガーの憂鬱は、神の喪失といったレトリックからではなく、存在の忘却への察知からこんこんとわき出たものである。


さて、「語る」と「聞く」の出入り口の話である。

お気づきのように「語る」人は、身体のどの部分に依拠しようが、その人の世界解釈の出口に立っている、ととりあえずは言っておこう。では「聞く」人は、どうであろうか。

「聞く」人は、「語る」人の身体運動に一方向的に関心を寄せている限りにおいて、身体に依拠して「語る」人の世界解釈の入り口に立っている、と言えるであろう。

しかしながら、「語る」人にとっての出口が「聞く」人にとっての入り口となる、この単純極まりないアンチノミーの止揚は、そう簡単なものではない。困難極まりない、と言ったほうがよいかもしれない。

なぜか・・・

出口で開陳される語りが語りの体裁をとる以上、真偽はさておき、「解釈」段階での派生態の拘束を逃れることはできない、という事情がある。「解釈」の派生態を逃れるとき、それは唯一、その人の世界解釈を先行的に開示する「気分」と「了解」が、その派生態(思惟化)に激しく抵抗するときである。突発的嗚咽、突発的絶叫、突発的暴力、突発的狂乱等、いわば突発的興奮がその代替表現となる。それらも、世界解釈の紛うことなき姿ではある。

また、最も困難であり忍耐を要するのは、その人の語りからある程度判断しうる論理の整合・不整合が、その人に開示していたのであろう「気分」・「了解」における世界解釈と常に対応しているという保証はどこにもない、という点にある。

その意味から、語り手の身振り手振り・声の調子・表情・ちょっとした仕草などが、「解釈」の派生態化を辛うじて免れ出た当人の「気分」・「了解」への不確かな、しかし魅惑的な誘いにもなりうる。その可能性を最後まで破棄してはならない。


つまるところ「聞く」とは、「解釈」の派生態としての語り手の言葉に熱心にも耳を傾け、頷いたり首を傾げたりする素振りを言うのでは実はなく、語り手当人にすら気づかれていない「現(Da)=気分・了解における世界の開示」に結ばれた細い一本の「糸」を、「解釈」のもつれにもつれた派生態としての言葉(あるいは身体)に襲撃されながら捜索する初動作を意味する。

その「糸」の導きを信じ、語り手の背後に閉ざされつつも開示している「気分・了解」の状況に方域をしっかりと固定し、そしてたえずその「現(Da)」に向かわんとすることが、「従う」ことである。

『「聞きつつ聴従して」いる』(上掲書 第一篇第五章第三十四節)というハイデガーの思索は、その点に触れたものである。


ところでハイデガーは、このように警告することも忘れない。
  • 「自己こそ、世人への傾聴のために聞き落とされてしまっていたし、また聞き落とされているその自己自身にほかならない。こうした傾聴は打ち破られなければならない。言いかえれば、こうした傾聴を中止させるなんらかの聞くことの可能性が、現存在自身によって現存在に与えられなければならない。そうした傾聴を打破しうる可能性は、媒介なしに呼びかけられるということのうちにひそんでいる。」(上掲書 第二篇第二章第五十五節 渡辺二郎訳)
初めて読まれる方々にとっては、難解であろうとは思う。

簡単に申し上げると、上述したように、語り手の言葉に熱心にも耳を傾け、頷いたり首を傾げたりする素振り(傾聴)は、自己(聞き手)自身がすでに自己の「気分」と「了解」に先導され自己と世界を開示してしまっていることを忘却(聞き落とし)している姿にすぎない、ということである。「聴従」が、「傾聴」とは似て非なるものであることを強く指摘している。

冒頭、わたしなりの言葉で述べた「聴従」の「対自的与格性(再帰性)」の復権とその契機が語られた、最も大切な箇所である。

この「対自的与格性(再帰性)」の先行的体験を通じてこそ、語り手にはほとんど気づかれずにいながら、しかしその背後で確実に「気分」・「了解」として開示しているご当人の「世界それ自体」への突入が、可能になるのである。

そのために聞き手は、すでにどこかで、「媒介なしに呼びかけられ」ていなければならない。それは、「解釈」の派生態においてではなく、日毎の目覚めとととに、音もなく世界を開示する「気分」・「了解」においてである。その「気分」・「了解」における根源的な情状的色彩を、「実存の途方もない不可能性という可能性」(第二篇第一章第五十三節)、つまりは死への「不安」としたのである。

このような「不安」の発見は、ハイデガー自身のものではない。アウグスティヌス、ルター、キルケゴールによって深化させられてきたものではある。

しかしハイデガーの思索の革命性は、「不安」それ自体にあるのではない。

われわれの存在と世界を、われわれの気づかないところですでに開示してしまう「気分」・「了解」に、前人称的とでも言うべき次元を察知していたことにある。
  • 「他者は、自我がそのうちから取り出されても残っている、私を除いた残余の人々全部と同じではなく、他者は、むしろ、ひと自身がそれからおのれをたいていは区別しないでおり、ひともまたそのなかに存在しているところの人々なのである。・・・中略・・・世界は、そのつどすでに私が他者と共に分かちあっている世界なのである。現存在の世界は共世界なのである。内存在は他者と共なる共存在なのである。他者の世界内部的な自体存在は共現存在なのである。」(上掲書 第一篇第四章第二十六節)
また恩師フッサールへの批判を重ねながら、次のようにも叙述している。
  • 『「感情移入」は、共存在をはじめて構成するのではなく、共存在を根拠としてはじめて可能であり、感情移入が不可避的になるのも、共存在の欠損的な諸様態が優勢であることによって動機づけられているのである。』(同上)
そして以下のように、ハイデガーは確信するのである。
  • 『他者と共なる了解しつつある世界内存在としての現存在は、共現存在とおのれ自身とに、「聞きつつ聴従して」いるのであり、この聴従においてそれら両者に耳を傾けつつ帰属しているのである。』(上掲書 第一篇第五章第三十四節)

ところで、「媒介なしに呼びかけられ」るとは、どういうことなのであろう。ハイデガーは、次のように言う。
  • 「呼び声の開示傾向のうちには、衝撃という契機が、中断させる揺り起こしという契機が、ひそんでいる。呼び声は、遠くから遠くへと響く。呼び声に打たれるのは、連れもどされたいと意志する人なのである。」(上掲書 第二篇第二章第五十五節)
遠くから遠くへ響く声、しかも意志する人に衝撃を与え揺り起こしてしまうほどの声・・・

皆様方は、はたしてどのような事態を想像されるであろうか。

ハイデガーの両親は、カトリック信徒であった。ハイデガー自身も二十歳の時(1909年)、イエズス会の司祭教育を受け、フライブルク大学の神学部にも在籍した。そこで出会ったのが、フッサールの『論理的諸研究』であった。以後1976年他界するまで、ブルンナーとの私的な接触以外、事実上、キリスト教とは離れた位置に立ち続けた。

ハイデガーが、「イザヤ書」(第40章)や「エゼキエル書」、それに「マラキ書」(第3章)などを知らなかった、ということは到底考えられない。否、誰よりもよく「了解」していたのであろう、とわたしは感じている。


「語る」者の出口を自らの入り口(現Da)にたえず差し戻し、「聞く」者の入り口に自らの出口(現Da)をたえず開通する、その循環に起こる不気味な「衝撃」と「揺り起こし」を通じて、われわれは孤絶と不安から解放されるのである。それ以外の道はない、とわたしは感じている。

説教者も、その説教を聞く者も、聖書学者も、神学者も、この循環に逡巡してはならないのである。

『聖書』筆記者のすべての聖なる者たち、そして誰よりもイエスは、その循環のさなかに生きていたのである。

こうべを垂れ慎ましやかに、僕(しもべ)然としてそそくさと振舞う必要など、どこにあろうか。
  • ' Jerusalem , go up on a high mountain and proclaim the good news! Call out with a loud voice , Zion; announce the good news! Speak out and do not be afraid. Tell the towns of Judah that their God is coming! '(Isaiah40.9)
(以上は、2010.10.10、の記事です)

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