2013/12/08

日本語ならぬ日本語


An onymous 子供に甲冑を着せたかのような不恰好で大仰(おおぎょう)、かつどこかしらとぼけたような文章を専らとするわたしが言うのもなんだが。。。いくら元は異国の宗教だからとはいっても、日本語で日本語を侮辱するようなテキストがよくもまぁ公的文書(もんじょ)として認められたものだなあ、とあきれた、と言うよりも感心した。

日本基督教団公式サイトの「お知らせ」(2013/12/03)『日本基督教団伝道推進室 「伝道礼拝・伝道集会等への説教者・講師派遣制度」開始のお知らせ』が、それである。

内容自体については、特段わたしから申し上げることはない。またそういった立場でもない。

わたしが気になったのは、その日本語である。

次の箇所が「あきれた/感心した」の発端である。


特別な伝道の機会を設けたいが、財政的な理由等で、断念せざるを得ない事情にある諸教会・伝道所の伝道を、応援させて頂きたいと願っております。
基督教定型の挨拶文から数えること11行目から13行目にかかる表現の中に登場するセンテンスである。

その引用述部「応援させて頂きたい」の語結合の体裁は、「応援する」という二字熟語接頭型サ変動詞の未然形に謙譲として転用した助動詞「せる」の連用形が接合したもので、さらに接続助詞「て」の添加によってそれら全体が統合化の過程を経て状態化されたものである。。。と中学校文法なら教えるところであろう。そこにさらにもう一度謙譲の、今度は補助動詞「頂く」の連用形が派生し、ようやく願望の助動詞「たい」の終止形で閉じられている。

それがどうした?。。。ほんとそれがどうしたといった程度の話題なのだが、当ブログ全体の記事が固い?難い?ものがかなり多く、読者様もたいへんかな、信徒様・未信徒様・アンチクリスティアニティー様にも不親切であったかな、というささやかな反省のつもりも込めて、本人はかなり真面目に打ち下ろしている最中。

助動詞「せる」の文法的意味を謙譲と判断したのは、共時的な分析としての統一を意識したからである。通時的(起源的)には、使役であろう。つまりはこういうことになる。
わたし(たち)にあなた(たち)を応援させるような、そんな統一的な状態を頂戴したい。
このような「そもそも」が歳旧(としふ)りて、謙譲の強調表現となり既成事実化したのであろう。あまり丁重すぎて、本動詞(応援する)の意義が偽善化し表現価値も低下してしまう場合がある。

ここは教団側のいわば「心中引用」でもあることから、
応援したいと願っております。
程度でじゅうぶんだとわたしは思う。

「貸す」のではなく「あげる」という趣旨なのだから、「応援させて頂きたい」という表現はないやろぅ。。。というのがわたしの正直な感想である。ズバリ言えば、どことなくきな臭いのである。二重謙譲を用いるべき個所では、コンテクストでは、まったくないのである。

と感じながらぼんやりと読んでいると、案の定であった。
最後に、「伝道礼拝・伝道集会等への講師派遣制度」の原資は、伝道推進室への献金が用いられることになります。ぜひとも、全国諸教会の皆様に、お祈りとご献金によるお支えをお願い申し上げます。
「応援する=あげる」と言っておきながら、「最後に」は「(そのための)献金」を「応援する=あげる」対象(信徒)に「ぜひとも」と強く依頼している。

これはいったい何語だあああ!!!といった感じですなぁ。

もう情けないやら(同じ信仰者として)恥ずかしいやら、なんとも言いようがない。

まだあるが、ばかばかしくなってきたので止めておく。

ここは大阪、磨りガラスのむこうはブルー!

★ポチッとお願いします★
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ