2013/12/20

枝葉など放っておけ!


An onymous 「お・も・て・な・し」の島国NIPPON国に生まれ落ちたわたしが、この国を愛さないでいられるわけがない。

しかしである。

そのように愛すれば愛するほど、信じれば信じるほどに、わたしの自我を覚醒させ、思春期にも片時も離れることなく、しかも人格の大元のほとんどを形成してくれたのであろう「日本語」が、あろうことかその後どんどんとわたしから乖離し、ついには呪わしきものとなってわたしを苛んでいた時期があったことも、また事実である。

その思いのすべては、わたし如き凡夫には語り切れない。語る気持ちももう完全に失せている。

ただ語り切った方がいなかったのかと尋ねられれば、実際に語り出版された方を数えてみればおそらくは夥しい数になるであろう、と応える以外わたしにはない。ただしそのどれひとつもが、今となってみれば、その人でなければ書けなかったであろうというような内容ではなく、そのような歴史的境遇に生まれ落ち、そしてその社会・時代のモードにさえ乗じれば、おそらくはだれだってそう書くだろう、というような内容であった。

例えば、芥川賞を受賞した在日の作家は少なくない。しかし実のところ彼ら彼女らにしても、アンネ・フランクリン一人の心性すら乗り越えることができない日本語の呪縛から、ついには逃れることができなかったのだ。わたしは概略そのように、戦後の在日文学を心の中で総括している。

突然ではあるが直近の新刊(十二月刊)に、『貝塚少年保養所』という名の自伝的小説がある。小説家南川泰三氏による作品である。

「貝塚少年保養所」とは、関西は泉州、和泉橋本の奥域にある小高い緑地のさらにその向こう側に秘められた、しかし巨大な国立結核療養所のことである(現在はない)。成人前の結核患者を市民生活から隔離するために設立されたものであった。どうも氏は、昭和三十年代に多感な十四歳から一年間ほどの闘病生活を余儀なくされ、そしてその間の出来事を素材に執筆されたようである。わたしが入院したのも同じ十四歳。ちょうど昭和四十年のことになる。退院したのは四十四年だから、わたしの場合まるまる三年は入院していたことになる。

わたしは本書を読んでいない。ご本人には無礼ながら読む予定もない。理由は上述したとおりである。結核療養所の裏も表も酸いも甘いも、南川氏がよくご存知のように、あまりにも若くしてわたしも知ってしまった人間だからである。何をお書きになったか、読まなくともわたしには自分が書いたように分かるのだ。

在日文学への総括と南川氏の新作へのわたしなりの思いを不親切にもいきなり並べてみたが、共通するのは、生涯的であろうと一時的であろうと、いずれも帰属がマイノリティ(圧倒的少数者/派)であったという点である。

血統主義をマイノリティの内包のひとつに捉えてしまえば、その種差は実に豊かになる。

村八分/いじめ(いじり)/セクハラ/性同一性障害/統合失調症等心的疾患一切/難病系疾病/未解放部落出身者/アイヌ人/琉球人/在日韓国朝鮮人を主とした定住外国人/違法滞留者。。。等々。その他、単身者/母子家庭の母・子/生活保護法による認定者/。。。なども当然含まれよう。

受動する側から列挙すればこのように記述されるが、もちろん能動の側(マジョリティ)を反対側に措定した古典的な二元論的構造の一側面にすぎない。国家形成のそのつどのアイテムの増減に応じて項目も流動するが、基本的には増加傾向になろう。もともと「あったもの」が名辞化され社会に浮上してきて「問題ありき」と認知・認定された項目が、情報化・モード化社会の特性に後押しされて、より強くよりはやくハイライトされるようになってきている、と言うべきであろうか。

さて、

問題のコアは上述で導いた古典的な二元論、マジョリティとマイノリティの二元論が、いつまでたっても(戦後70年になろうとしているのだ!)解ききれないでずるずると今日まで来ている、いわゆる平均的な日本人の「鈍感」にある。

たかが「海」。。。されどその四方を隙間なく浸している「海」がその「鈍感」を育成したのは、風土論的には間違いない。しかし風土論は「鈍感」の真の意味を隠蔽する一種のシェルターになってきたのだ。ほとんどの日本人は、識者ですら、そのことに気づいていない。

それではいったい何に対する「鈍感」が問題なのか。

マイノリティに対する「鈍感」か。いや、それは「敏感」すぎるくらいなのである。

わたしの言う「鈍感」とは、往来とも「境界(線)」を越えることの衝撃とそのあとの結果の自我分裂とを想像し感覚する力が、完全に欠如したメンタル・メイクアップのことである。


ドイツ生まれのユダヤ人学者ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940 死因不明)は、後日編者により整序・出版された『パサージュ論』第1巻Cの[C3, 3]において、都市の「境界」に関する興味深い思惟の欠片を残してくれている。補訳を除いた形でその一部だけを引用させて頂く。
境界は敷居のように街路の上を走っている。そこからは、虚空へ一歩踏み出してしまったときのように、まるでそれに気づかないままに低い階段に足を踏み出してしまったかのように、ある新たな区域が始まるのである。(岩波現代文庫版)
全5巻(翻訳文庫版)にわたる本書のそもそもが、膨大な引用を中心とした覚え書き・メモ書き等の断片を寄せ集めたもので、長蛇の文脈などはなく、それぞれが大小さまざまな規模のオアシスとなって広い砂漠に点在しているように編まれている。しかしそのことは同時に、読み手側の想像力をなにがしかの抑圧から解放してくれることをも意味している。以下のわたしの解釈は、その点に便乗したものにすぎない。

ところで「境界」とは、文字通りそれ自体無機的な国境とも、またはその国境を横断したというだけで不義の濡れ衣を着せられる象徴としての(人)種差とも、解すことができる。

いずれにしてもベンヤミンは、その点を描写するのに二度は失敗しなかった。

その「境界」への体験的自覚がはたしていかなる質-感を持っていたのかを、「虚空へ一歩踏み出してしまったときのように」というラングの次元から「気づかないままに低い階段に足を踏み出してしまったかのように」というパロールの次元へすばやく変換し、さらには抹消すべき前者を抹消せずにおいたことを通して深く鮮やかに示しえたのだ。

意図的にそうしたのかどうかは確かめようもないが、冷却した経験を灼熱の体験に差し戻したベンヤミンにはそれ相当の覚悟があったのであろう。いわば体験者への天与の才、いや天啓そのものと言い放ってもよいとさえわたしは思っている。それにベンヤミンは従ったのであろう。

この実にわずかなメモ書きの意味するところを真に読了するためには、前者の表現と後者の表現との「懸隔」に、疑似的にであれ巻き込まれてみるいささかの覚悟がわたしたちには求められる。

空中に踏み出してしまったときの、全身から血が抜け落ちるような浮遊感(高所から投身するが如き感覚)。しかも確実で揺るぎのないその身の毛もよだつような一瞬間を、感じないでいられるだろうか。この嘔吐感、この崩壊感、さらには瓦解の瞬間瞬間がスローモーションのように冷酷にも身体を押し潰してゆく、その逃亡の絶対不可能性に対する失神を、予感しないでいられるだろうか。それらおぞましい出来事の直後に当人を発見した当人が、四方八方に同時に開示してしまっている異邦異国の急激な変貌に、はたして冷静に立ち向かうことなどできるのだろうか。。。絶えず自死ではなく殺害の危険を予感しながら。

わたしの思いはそこに固着したまま離れないのである。皆様方はいかがであろうか。

一方、

「低い階段」の「階段」とは、国家を構成するマジョリティへの帰属意識に裏打ちされた集団の暗喩である。それが「低い」とは、「階段」としての自覚がほとんどない無媒介な状態を意味する。ところが異邦人(種)に国境を横断させる/する(あるいは定住させる/する)出来事に媒介されると、「階段」の自覚は低くはあっても(いや低いからこそなおさら)すばやく強く覚醒し、両者の間には同時的で決定的な対他化・争闘が悪無限的に生起することになる。個人的な友情・愛情関係とはまったくの別次元に起こるのだ。

ベンヤミンの筆先からは、マイノリティとしての血がにじみ出ていたのだ。

おそらくそれはユダヤ人であったベンヤミンの、灰になるまでついには癒えることのなかった原-衝撃/原-傷痕とでも呼称すべき疼(うず)きから流れてきたものであろう、と私は感じる。祝すべき自我の覚醒が、あろうことか呪われるべきものとして覚醒させられてしまったのである。偶然の悪戯とは言え、残酷過ぎはしまいか。

なぜ異邦人(よそ者)呼ばわりされるマイノリティは、この悲壮に耐えてきたのか。基本的には想像を絶する貧困のさなかにいたからである。貧困はなんとしてでも生きるための意志と知恵と才能を育む。その智恵と才能に、たまさか美しくも見事な花が咲くことがある。マジョリティは、それをも羨むのだ。それが異邦の花であることを知ると、狂人にも躊躇(ためら)わず化してしまう。単純な化学反応である。人間の仕草とは、とても言えない。

異文化交流と言えばじつに平和だ。

しかしそれとても、血だらけの異邦人の死体にブルーシートをかぶせて演出したような平和だ。だから異文化交流に関する独立行政法人は、どこもかしこも閑散としているのだ。普通の企業ならすべて倒産していたはずなのに、皆平然と何かしながら汗をかいて働いている振りをしている。じつに日本らしい風景である。

異邦人理解には、ひろくマイノリティ理解には、それ相応の覚悟が必要なのだ。

彼/彼女らの原-衝撃/原-傷痕・疼き・流れ続ける血・絞るような語り(パロール)、そしてベンヤミンの描写した「境界」往来時の精神の崩壊。。。それらから目をそむけたマイノリティ理解など、幻想以外のなにものでもないことをこそ知るべきである。

ピーチクパーチク騒ぐもよいが 自分の糞くらいお持ち帰りゃせ
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