2013/12/25

ダメ押しベンヤミン

Visconti Homo sapiens
Visconti Homo sapiens
posted by (C)enokov
「時代がすっかり変っちゃったんだよなぁ。。。」
「ほんとに。。。」

老夫婦の会話はそこで止んだ。

どうやら、秀でた才能を持つ若い芸術家たちのことを語り合っていたらしい。

実はわたしも気にはなっていたのだ。

「世界的な」という触れ込みで紹介される才(ざえ)ある若き芸術家の出演や公演がつぎつぎと休止され、延期され、あるいは取り止めになってしまったり。。。こうなってくると、テレビをまったく見ないトレンド音痴のわたしだって、やはり気にはなる。

「時代」のせいにしたのは、老夫婦ならではの気配りであったろう。熱狂者のいかほどかの人たちに憑(と)りつくヤヌスを、じゅうぶん予感しておられたのだ。

さてベンヤミン『パサージュ論』の断章がいかなるものであるか、雫(しずく)ほどではあったが紹介をさせて頂いた。それらに続く第4巻にわたしの興味をひくものはなく、最終第5巻もほとんど斜め読みで済ませたが、結果的には今回紹介させて頂く第五巻に、最も強くわたしの印象に残ることになる章が含まれていた。なんとも皮肉な話しである。[m 無為]がその章名となる。

次は、そのうちの[m4a, 4]の覚え書きである。後半部だけを引用する。
自らがその中で生い育っている資本主義的経済秩序の刻印を無為がどの程度深く受けているのか、それをはっきりさせておく必要がある。――他方で、もはや閑暇というものを知らない市民社会における無為は、芸術生産の条件となっている。そしてまさにこの無為こそが、芸術生産に、それが経済的生産過程と親戚関係にあることを露骨に示すような烙印を残すのである。(岩波断代文庫共訳編)
ベンヤミンの真骨頂はこのあたりにあるのだろう。

どこからそんな鳩を取り出したのかと観客をいとも簡単に煙に巻いてしまう奇術師顔負けの叙述である。「星座布置的叙述」とでも形容する以外ない。

星座を構成する星の数は、およそ七個。
  1. 閑暇という星
  2. 無為という星
  3. 資本主義(経済)の勃興という流れ星
  4. 生産条件という星
  5. 生産過程という星
  6. 無為の変容という星
  7. 消耗品(流通商品)としての芸術という星
逐一の詳細については省かせて頂くが、これらが一瞬に出会い一瞬間だけ意味ある形象となって瞬(またた)くのが、「星座布置的叙述」というものである。項目間の継起的な論理性によりも、メシア的で預言者的な過剰で緊張した感性にまるごと押し出された表現、と言ったほうがまだしもかもしれない。

上述した二十一世紀の若き芸術家たちはみな、扱うものこそ違え、この「瞬き」の一瞬間にきっと立ち会ってしまったのにちがいない。その瞬間、我が心身のここかしこが血まみれになってしまっていることに気づかざるをえなかったのであろう。

突然開示したその全状況の威嚇と重量に、耐え忍ぶことができなかったのであろう。その衝撃とその戦(おのの)きとは、彼/彼女たちの存在の大河を一気に遡(さかのぼ)り、知覚も情感も欲求も意志も意識も言葉もすべて追い越して、各人の底なき底に激しくぶちあたり、さらにははね返って河口めがけ還流し、そして意識の間口に再度近づいたそのときには、もはや演奏できなくなっている自分のうなだれた姿しか見出すことができなくなっていた、ということではないのだろうか。

かつて夏樹静子が「断筆」したのは、腰痛がためであった。

えっ!?と思われる方もおられるであろう。腰痛は、整骨医か外科医に診てもらうのが道理であるからだ。彼女もそうした。全国の医者巡りまでして。

最後に辿り着いたのは、心療内科であった。その医師の目は節穴ではなかった。処方箋も書かず彼が提言したのは、「おもいきって断筆しなさい」であった。年俸何億?何十億?といったレベルの超売れっ子サスペンス作家である。断筆などできようはずがないことを熟知してのアドバイスであった。この医師は、夏樹静子の全対応から「否認」を読み取ったのだ。「否認」とは、依存症候群(依存症)第一等の「徴(しるし)」である。それを見逃さなかったのである。

夏樹静子は悩んだ。悩んで悩んだ末、ようやくにして「断筆」を決意した。そしてほどなく。。。それこそほどなく、彼女を苦しめていた腰痛は嘘のように消え去ったのだ。もののみごとに。治癒後彼女は、ほとんどのスケジュールをキャンセルし、みずからの「体験談」ひとつだけをバッグにしのばせて全国行脚した。

記憶を辿り辿りすこし彩色させて頂いたが、よく知られた事実である。真理に襲われた人間は、こうなるのであろう。

最善の治療法は処方箋ではない。精神科医であっても、たかだか処方箋の「神」にすぎないのだ。処方箋はあくまでも治療のひとつとして指示される「紙」である。雅子様を見れば分かるではないか。

大切なのは、取り巻く熱狂者の熱狂を根こそぎ取り除いてしまうこと。そして当人たちそれぞれを、元あった身分・元あった待遇・元あった日常の生の空間に帰還させてやること。まずはそれらのことが、緊急に要請されてしかるべき以上の場合の治療法なのである。

それを許さない世界、それをアポリア(難問)として隔離してしまう性癖のある世界、それが資本主義社会であることを、大戦が終わる以前のはやくからヴァルター・ベンヤミンは看破していたのである。

蓋(けだ)し、わたしを含め先進国に生まれ落ちたわたしたちに残されているのは、上述した「資本主義の残酷」を残酷と感じないみずからを剥ぎ取るための分の悪い地上戦だけではないだろうか。しかしその戦いにおける勝利を信じなければ、「希望」という言葉の今世紀的な意味はもうどこにもないのである。

この地球を救う来たるべきキリスト(救い主)とは、そういう「希望」を伝承され教育されて、まったくに改造された来たるべき若者たちのことを指す言葉ではないのか。これは、教会に通わないキリスト者であるわたしから教会に通われるキリスト者である方々への問いである。

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