2013/12/21

ベンヤミン断章

中国万年筆 DUKE(ペン先)
(C)えこすけ
ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)は、『パサージュ論』第2巻[H2, 3](岩波現代文庫版)において次のようなメモ書きを残している。

事物をありありと現前させる真の方法は、それらの事物をわれわれの空間内において(われわれをそれらの空間内においてではなく)思い描くことである。(蒐集家はそうするし、逸話もまたそうする。)そのように思い描かれた事物は、「大いなる諸連関」からのいかなる媒介的な構成も許さない。



わたしとしては、この箇所をとても興味深く読んだ。

前回「マイノリティ」との関連で参照した「境界」の部分もそうであったが(「枝葉など放っておけ!」2013/12/20)、今回も特段の文脈があったわけではない。何かがピカッと光ったその残光の束の間に書きなぐった、書き放った、書き飛ばした、という感じがする。それだけに主題が深く抉り取られており、かえって生々しい感じがわたしにはする。

三点ほど簡単に触れてみたい。

まずは「空間」について。

ご覧のとおりベンヤミンは、「事物の空間」と「われわれの空間」とをまったく異質なものとして捉えているのが分かる。このように「空間」を二次元的な同一平面における共存性から解き放った先駆者は、ハイデガーその人である。当ブログのここかしこで、できるだけ目立たぬようあれやこれやと最低限の引用をさせて頂いているその人である。

「空間」に関するハイデガーの思索は分かり辛い、と冗談半分なのか。。。嘆かれる方は結構多い。

次の表現を見れば、誰だって一度は眉間に皺を寄せるであろう。
遠ざかりの奪取と方向の切り開き(『存在と時間』第二十三節 原佑訳)
突き詰めると、これだけの表現になってしまう(第七十節では/渡辺二郎訳「方向の切り開きおよび遠ざかりの奪取」と順序が逆転している)

翻訳された日本語は(原文のドイツ語もそうだが)、常用されるほどまでに意味の成熟を迎えているとは言い難い。

たとえば日本語の「遠ざかり」とは、ラ行五段活用の動詞「遠ざかる」という大和言葉の連用形が名詞に転生したものである。規範(学校)文法から見ると誤用ではまったくない。ところが日常のわたしたちの言語感覚にはそぐわないほど使用頻度が少ない。そのために属格の助詞「の」はよしとして、後続する「奪取(奪い取る)」という激しい行為を意味する名詞との共起関係に明らかな不自然さが生じてしまっているのがお分かり頂けようかと思う。全体として文法的には正しいのだが、常用はしないし、またにしにくい。そんな表現である。

ところがじつはメッチャ?簡単!なのである(笑)。

「遠ざかりの奪取」も「方向の切り開き」も、いわば「シーソーゲーム」と同じ原理をディメンション(次元)を強く意識して表現したものにすぎない。関西では「ぎったんばっこん」と言う(今やほとんど死語!?)。大学の先生方もそう教え実演すれば、学生たちも逃亡あるいは亡命しなくて済むのだ。

要はこういうことである。例文を作ってみよう。
「あっ、あそこにあるあれ、あれってなんだろう!?」
赤ガエルと遊んでいたA君は、突然立ち上がって叫んだ。
この言葉群を語っているA君の関心はすでに「あれ」という遠くの方向を切り開いており、同時にその物理的な遠さを内化し奪い取ることを通して、A君の「関心」の最も近くに「あれ」を引き寄せてもいるのが分かる。ここまでOK?

さてでは問題。
●その直前に抱いていたであろうA君の「関心」はどこに行ってしまったのでしょうか?
わかる?

そう。。。「赤ガエル」へのA君の関心は一瞬にして消えている。消えているとは「無い」ということ。つまりどこか「遠く」へ行っちゃった、「方向」もわからない、ということになる。

さらに応用問題。
●赤ガエルに関心を戻すためにA君はどうすればよいですか?
そう、遠くの「あれ」に向かっていたA君の関心の「方向」を切断して赤ガエルに向け変え、同時にその距離を半物理的に回復させるだけ。もし仮に、かわいい女の子がその時たまたま近くを通り過ぎたとして、そちらへ関心が向く場合、「あれ」にも「赤ガエル」にも「方向」は切j開かれず内的距離も両方遠ざけられたままになってしまった、ということになるわけだ。

平面(二次元)では、このアクチュアリティと同時性(特に関心の遠ざかりの奪取=空間の遠・近)を説明しきれない。三次元でも難しい。そこでハイデガーは読者を表現に躓かせることによって何度も立ち止まらせ、人間なしではそれへの思索自体がそもそも起動しない空間の実存性(現存在性)に気づかせようとした、と考えれば当座はしのげるということになる。これがハイデガー全集全巻に一貫して確認されうる戦略であり戦術でもあるのだ。

これでハイデガー卒業!

このハイデガーの空間についての思索は、精神病理学にも甚大な影響を与えてきた。たとえばサド-マゾや、広く共依存の問題などがあげられようか。簡単に申し上げると、互いに相手との「遠ざかり」を「奪取」し過ぎて、相手が自分にそして自分が相手に一部浸潤・同化してしまう、というふうな分析も成り立ち、これまでまったく見えなかったはずの存在機序の記述を可能ならしめている。怨恨によるさまざまな事件なども、ハイデガーの思索から検討してみれば、一般の報道とは全く違った側面にわたしたちは気づくことにもなる。「方向の切り開き」の可能性をまったく失い一点に固着する傾向が人間に続くと、そのような事件が起こる。


さて二点目であるが、この断片のどこにベンヤミンの個性が煌(きら)めいているのか、という問題に触れたい。

事物を事物の空間においてではなく、われわれの空間内において蒐集家や逸話のように思い描くことが、事実を現前させることになる、とベンヤミンは主張する。

しかしよく読んでみると、待てよ?これは逆ではないのか?という疑いが湧いてくる。ただし実証主義的にこの部分を読めばという限りにおいてではあるが。

本来なら事物がもとあったであろう空間に正しく戻されてこそ、歴史的項目の整序は成立する。しかしベンヤミンの主張からは、もとあったであろう空間自体の存在をあるいは在り処自体を、スッパリと否定し去っていることがうかがえる。そのうえで「蒐集家や逸話のように思い描くこと」をベンヤミンは推奨しているのである。

このベンヤミンの思惑はなになのか?

「思い描」かれた空間とは、いわばイメージの世界あるいはずばりフィクションの世界のことであろう。歴史学者からすれば、到底容認できない主張である。ここで終わっていれば、あきらかにベンヤミンの失態と判断されるであろう。

ところが、である。

ベンヤミンの目的は、どのように事物を整序するのが(歴史的に)正しいのかを思索していたのではなく、「事物をありありと現前させる真の方法」とは何なのかを追跡することであった。そしてその結果を、まるで啓示にうたれた預言者ででもあるかのようにナッハデンケンしているのだ。

つまり、蒐集家がパラノイア(偏執症)かとまがうほどにも事物の説明に執着したり、たとえば「天の国」についてのエピソードをイエスが自己陶酔の境地に入ったかのような容貌で語ったりしなければ、到底「現前」することなどのない世界が別にあるのだ、ということの洞察に裏打ちされた主張であったとわたしは感じている。


三点目は、前ふたつの問題性を刺し貫いているベンヤミンのいわば形而上学批判であろうと考えられる。
「大いなる諸連関」からのいかなる媒介的な構成も許さない。
「諸連関」とは、論理形式内部のさまざまな関係素(エレメント)であろう。それらに媒介、つまり推理が形成されて認識論上のいわば構成的な真理が出来上がる、というものであるが、真っ向からベンヤミンは否定しているのがよく分かる。

大仰に言えば、歴史観・宗教観に対するベンヤミンの態度決定の一切がこの断片には通約されている。

哲学者・思想家というより、許されるならば預言者として紹介した方が似つかわしい気もするのだが。

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