2014/05/04

通院――途上の妄想 (1)

[キリスト教] ブログ村キーワード
出かける前に帰宅時間を気にするなんて、わたしらしくない。

よほど気分が澱んでいたのだろう。

案の定、フライング気味の外出となった。

ほかでもない。連休の合間に挟まった通院日のこと。


何のために開発し、なぜ認可したのか。突き詰めればたちどころに分からなくなる深刻な副作用ある薬剤を、アルゴリズムよろしく処方する思想なき巨大医療システム。その無際限に近い既得権域空間を「(あらゆる)癌」「(あらゆる)障害(碍)」「(あらゆる)難病」「(あらゆる)成人病」といったラベルが我が物顔で跋扈(ばっこ)している。医療従事者の誰からも愛でられ称賛されるこれらラベル群に憮然たる思いを馳せていると、どこからともなく次のような声が纏(まと)わりついてくるのだ。。。
アナタ、ハヤク死ニタイノ?延命シタクハナイノ?
'No, I don't./Yes, I do.'と言い切るには相当の覚悟が要る。

およその人は、断末の激痛時や錯乱時を除き、「Nouuu!」と懇願するであろう。この応答の圧倒的な不自由さが、「ラベル群」の生気を一層漲(みなぎ)らせてしまう。医療従事者ならびに経営者、そして関連会社職員ならびに事業主たちがほくそ笑むのは、そのパラド(ッ)クスである。そこから滴り落ちる果汁である。その巨大圧搾機のどこかに挟まれているのであろう無力な自分を構成し凝視していると、わたしのいぶせき妄想は歩くにつれさらに肥大していくのだ。

そのような妄想すらも起こらなくなる寸前の時は在る。

その時の最後の断面に激しく圧(お)しつけられた人間は、どのように振舞ってきたのであろうか?

わたしたち人間が最後の化粧を落とす時。

午後十二時、すべての日の影が消失する、その寸前の束の間の時。永遠へのとばくち。

おそらくきっとそれは、見るも無残、聞くも無残な痙攣するが如き剥き出しの(しかし)すでに遅かりし無為の「語り」あるいは「叫び」(パロール:ことばの「その人性」)あるいは「虚空を掻きむしるような仕草」であったろう。それら表現のフラグメンツが「祈り」の原型であったのではないか、とふと感じたりもする。十字架上のイエスが何かを語ることができたとしても、そのディメンションあるいはフィールド内でのことであったろう、というのが今のわたしの率直な思いである。

イエス時代をイエスに倣って生き切った人々の祈りが、みずからの死に直面せざるをえない喫緊の世界内存在状況における出来事であったとしたならば(事実そうであったのだが)(注)、わたしたち現代を生きるキリスト者のほとんどの祈りは、そのディメンションとフィールドを根本的に違えてしまっているのではないか、と思われてもくるのだ。
(注)「イエス時代前後の宗派状況概観」を参照されたい。
このわたしの思いを否定される方々のおおよそは、そのように死の門をくぐったイエス「の」唯一神信仰を(わたしのように)信じておられるのではなく、「イエスは神の子である」と推理証明し認定したローマ人御用学者たちの手による「使徒信条」という名の古き時代の異邦人新興宗教を信じるように訓育され、そしてそれを下敷きとして礼拝を守り『聖書』を読んでこられたのであろう、とわたしは単純に思っている。だからこそひとたび家庭に戻れば、何年たっても信仰それ自体を巡っての言い争いが絶えず、お互い水平の関係においても垂直の関係においても、サタン呼ばわり(人権侵害・蹂躙)して憚らない不思議な家族が形成されても(すべてがそうだとは言わないが)きたのではなかろうか。。。

地下鉄を乗り継ぎ、地下道の混雑を通り抜け、ようやく歩道に上がることができた。

ゲート入り直前の新馬のような若者たちの人いきれ。
思春期のような新緑の眩しいほどの恥じらい。
これみよがしな青い空と陽射し。

数歩も歩まぬうちに建物側に依(よ)れ、立ったまま、バッグからサングラスを取り出す振りをし、そうして呼吸を整えていた。笑顔、笑顔、笑顔。。。さすがに、妬ましくも小癪な気持ちになってきた。

いつもはその歩道を道なりに下って行くのだが、今回はフライング外出ということもあり、そのままもたれる様にして建物の中に入った。空調はじつに適切であった。少し安堵した。吹き抜けを見上げると大型書店が窺える。

まだ完全には、狂っていなかったのだ。

★ランキング参加中ポチッと応援よろしく★
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

0 件のコメント: