2013/01/11

ヘーゲル「有論」が暴く!「創世記」冒頭の誤訳

河出書房新社版
エンチュクロペディー
八十七節冒頭部分
1970年代初頭に20歳代~30歳代を生きておられた方々にとって、ヘーゲル(1770-1831)という人物の名は懐かしくも響くことであろう。

この世代の方々は、60年安保闘争をまのあたりにした方々、またはアンガージュマンした方々、あるいは70年大阪万博の狂乱のさなか日米安保条約が自動延長されたその時代を生きておられた方々、その翌々年の72年、軽井沢は浅間山山荘での連合赤軍事件と時空を共にした方々、その後第4インターナショナルにまで四分五裂した学生運動、さらには民族運動末期の不穏のただなかにおられた方々、などである。

わたし自身は、後者の初代に属していた。復員兵が機縁となった団塊世代の直後にもあたる。

しかし同時に、ドイツ観念論の終焉ヘーゲルの著作自体をまじめに読んでいた人も、今思い返せばほとんどいなかったようにも記憶している。

その事情は、しごく簡単である。

わたしをも含むこの世代に当時憑依(ひょうい)したのは、フォイエルバッハ、エンゲルス、マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東、チェ・ゲバラ、金日成その他の「カリスマ性」それ自体にすぎなかったからである。換言すると、この世代はこれら「偉人」たちの唯物史観に反転させられた「概念の自己運動」の崩壊劇に、ただいたく感動してヘーゲルを理解し超克した、と勘違いした世代でもあったのだ。

「弁証法」といえば、「有(正)・無(反)・成(合)」。

これがこの世代の合言葉であった。ヘーゲルを読もうが読むまいが、これで当時は、誰とでも「仲間」になれたのである。

極言すれば、「あなた、はるきゃん推し?」「もち!」「じゃあ+1しとくね。」、程度のノリであった。「あなたクリスチャン?」「そうよ、あなたもなの?まあウレシイ・・・」、なども大同小異である。そんな児戯のようなたわいもない「挨拶」に憑(つ)かれていた世代、とでも言えようか。

さて。。。

タイトルにある「有論」とは、1817年に初版となった『エンチュクロペディー』第一篇「論理学」第一部「有論」のことである。(原題は、"Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse"。以下引用は、河出書房新社1973年版、川原栄峰氏の翻訳に基づく)

アウグスティヌス(354-430)が、その古典的名著『告白』終盤の第十一巻から最終第十三巻までを、『旧約聖書』「創世記」第1章の解釈にすべてあてたことはよく知られている。したがって、その点に言及する果敢な牧師なら、なかにはおられようが、しかしこのヘーゲルの『エンチチュクロペディー』に触れる牧師を期待するのは、少々無理なようである。

教派・教団ごとに牧師養成機関(東神大を含む夥しい数の聖書学院施設)が異様に分散しているばかりか、牧師資格取得を主眼とするだけの専門学校化が全般的に進行していることもあり、「哲学」講座・「哲学」演習をかたくなに排除した古色蒼然たるカリキュラムとなっている。

それが証拠に、牧師にはなったが教会礼拝「説教」の展開に行き詰まり、挙句の果て、駆け込み寺ならぬ某「説教塾」で学びなおす、といったていたらく。そしてみごと開眼したと言う。ほんとかなあ。。。と疑いたくもなる。

もちろん、このような時流に棹差す牧師もおられる。
聖書は哲学的に読むものではない。実存的に読むものだ、云々
厚顔無恥もなんのその。「実存」概念の創出者デンマークのキルケゴール(1813-1855)が哲学者であること、一歩譲って宗教思想家であることは、高等学校の教科書にも書かれている。とすると、「聖書は哲学的に読むものではない。哲学的に読むものだ、云々」、となる。パロディにすると、「右に行くな、右に行け!」、となる。礼拝中でもあり、笑いをこらえるのに苦労したことを覚えている。わたしの後ろに座しておられた方々は、わたしの肩がワッサワッサ激しく揺れているのをご覧になられて、説教に感動し泣いているのだろう、と神妙にも感じられたかもしれない。もう立ち上がって「爆笑」してしまおうかと思ったくらいである。じつに愉快な牧師、じつにたのしい礼拝であった。

本題に戻ろう。


今回は、「創世記」冒頭1節2節だけを引用してみたい。

日本語はプロテスタント教会でおなじみの「新共同訳」から、英語はヘブライ語底本(マソラ本)に最も忠実なロバート・ヤング(1822-1888)の逐語訳から。そしてわたしアノニマスの拙訳(重訳)を添えておく。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
In the beginning of God's preparing the heavens and the earth--the earth hath existed waste and void ,and darkness [is] on the face of the deep ,and the Spirit of God fluttering on the face of the waters,
神の業の始まりは、天と地。地はただ荒涼としていて何もなく、闇は海面を覆い、その水面に神の霊が不気味にも脈打っている。(アノニマス) 

わたし自身、新共同訳の「日本語」にはほとほと悩まされてきた。

しかしロバート・ヤングの逐語訳が奇跡的な蝶番(ちょうつがい)となって、聖書から去らむとしていたわたしを辛うじて引き留めてくれた。

私教育しか受けられず、16歳の若さにして印刷会社の年季奉公人となり、そのわずかな余暇を利用し独学で多くの言語を習得。そしてついに、一人孤独のうちに新・旧約聖書の逐語訳を完遂した氏の功績は巨大である。『古事記伝』において訓詁学の範を示した国学者本居宣長の名とともに、記憶してしかるべきであろう。日本の基督信徒なら、なおさらである。

結論から申し上げると、「創世記」1節2節に対する「新共同訳」はでたらめである。そう断言したい。

第1節「初めに、神は天地を創造された。」という共同訳が、日本の聖書学者たちのどういう議論のなかで確定したのか、その間の事情はまったく分からない。しかしヘブライ語底本(マソラ本)が、仮にもこの翻訳通りになっていたとするなら、「天」と「地」はこの「新共同訳」の翻訳の段階で、神の業の第一歩(初めに)に「すでに」踏み込んでしまっている、ということにもなる。

第一歩という領域に踏み込んでしまったもの、それは「初め」とは到底呼べない。

「初め」とは、0点、つまり無規定・無媒介な「始まり」が、「始まり」であること自体を破棄するその何某(なにがし)かの契機を通じてこそ、「初め」となって落下してくる「概念」である。ロバート・ヤングは、「創世記」冒頭のこの神の業の「秘密」を洞察しえていたからこそ、上掲のように底本に忠実な逐語訳を貫いたのであろう。

「天」と「地」は「初め」ではなく、無規定・無媒介な「始まり」なのである。拙訳を、「神の業の始まりは、天と地。」、としたのはそういうことである。「創造」は、まだ開始して「いない」のである。

ヘーゲル自身は、「有論」86節において、次のように叙述している。
純粋有が始まりをなす。なぜなら純粋有は純粋な思想でもあり、また無規定な、単純な直接者[無媒介者]でもあるからである。ちなみに、最初の始まりは媒介されたものではありえず、またそれ以上に規定されたものではありえないのである。 
この前提から、「有論」87節冒頭が語られる。
さて、この純粋有は純粋な抽象であり、したがって絶対的に―否定的なものであって、これは、[純粋有と]同じく直接的なものと考えられるならば、無である。 
「有論」を叙述したヘーゲルの脳裏に、明らかに「創世記」1節2節が表象されていたことは、疑いえないであろう。続けてヘーゲルは、次のように述べている。
対立がこのような直接性において有と無[の対立]として表現されると、こんな対立は無意味に思われ、そのことがあまりにも奇異なので、有を固定してそれが[無へと]移行するのを防ごうと企てないわけにはいかなくなるであろう。 
ここがヘーゲル特有の思惟のトリックであるのだが、今は問わないでおく。

ヘーゲルによれば、「創世記」1節の「天」と「地」は、それぞれ無規定・無媒介な「純粋有」、「純粋無」になる。したがってこの状態のままでは、「天」が「地」に、あるいは「地」が「天」にもなるきわめて不安定な対立のまま、永遠に無限移行する以外ない。

そのことへの覚知が、「創世記」2節を押し出している。

新共同訳では、
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
となっている。3つの連用修飾成分が連なっている。

「混沌」という翻訳も、大きな問題をはらんでいるが、特に第2番目の成分、「闇が深淵の面にあり」、が読者の混乱を招く元凶になろうか。はたして「深淵」とは、どこを指定しているのか。また「深淵の面」という翻訳が、読者の表象を極度に阻害してはいないか。問題は深刻である。

もしかして翻訳者たちは、「天」と「地」が、無規定・無媒介な「純粋有」と「純粋無」とのきわめて不安定な対立であることへのヘブライ的な了解(ハヤトロギア)(注)を、最初から飛び越えてしまっていたのではないか、と思わざるをえない。
(注)有賀鉄太郎氏(1899-1977)による造語「ハヤトロギア」を知らずして旧約聖書読むこと勿(なか)れ、がわたしの基本的なスタンスである。当ブログでは、「途切れた系譜(ハヤトロギア)」「無花果(イチジク)の木とペトロ・メッセージ」その他において、若干ではあるが紹介させていただいた。右サイドバー「一発検索」をご利用になられると該当記事タイトル・箇所が瞬時に表示される。ご利用いただきたい。
「神の霊が水の面を動いていた。」という翻訳がとても唐突に感じられるのは、「闇が深淵の面にあり」が、まったくもって意味不明な日本語だからである。


このように翻訳を整序してみると、「天(純粋有)」と「地(純粋無)」との不安定な対立、つまりは無限移行への動揺にとどめをさしたものが、すでにみずからをして現象させむと胎動していたこともわかってくる。

それは、ヘブライ民族の覚知にまで膨張した「闇は海面を覆い、その水面に神の霊が不気味にも脈打っている」(アノニマス)がごとき畏れ多くも生き生きとした聖なる「霊」的体験である。その「体験」が、生きとし生けるものの存在論的機序への卓越した神話的描写を生んでいるのである。

彼らは、その「霊」を「息」として鼻に吹き入れられたのがわたしたちである、とも覚知した民族であった。だからこそ、アダムとエバの物語を、「自我分裂の射影」として描くことに成功したのである。「原罪」など、後世の形而上学的思惟の産物に過ぎない。「罪」は、人間であることの誇るべき証しでもあるのだ。

彼らは、わたしたち人間が無規定な「始まり」から破棄されていでたち、時空の仕業に絶えず立ち遅れる齟齬(そご)の苦しみを負わされながらも、いずれは「死」とともに必ず豊かな「始まり」に帰還することを、ダビデ王のようにまたヨブのように、疑えども疑えども疑いきれなかった民族であった。

その末裔に、あまりにも短い生涯を駆け抜けたイエスが位置しているのである。否、だからこそ短い生涯を駆け抜けることができたのである。

プロテスタント信徒であったヘーゲルは、人間(現存在)イエスを慎重に否定しながら、それでも人間(現存在)イエスはその精密な「概念の自己運動」からもくぐり抜けていたことに気づかなかった人であった、とわたしはひそやかに感じている。

(この記事は2010.09.12に書かれたものを、ブログ用に大幅に縮約したものです)

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