2014/04/15

'Once-born'と基督教/キリスト教教育の限界

[教会学校] ブログ村キーワード
「教える側」のことではなく、「教えられる側」のことを書くつもりであった。

。。のだが、「教える側」に関する異変が報道されていたため、冒頭その記事に一言触れてから本題に入りたい。

CT(Christian Today)4月7日(11時08分)付で配信された次の記事がそれである。「見出し」だけで、内容の深刻さが伝わってくる。
キリスト教学校教育同盟が調査、教員に心因的支障事例「ある」 小は35%、中高は58%
とんでもない数値の高さ!である。

仮にもキリスト教を立て看板とする私立(わたくしりつ)の学び舎(や)で、かつての公教育と同じような出来事が起きていたとは。。。これではまるでデジャヴである。

そのほとんどの数値が心因的支障事例数から通約されたものばかり。いわば「超越」のプロフェッショナルであるキリスト教系学校に従事するキリスト者教師・教員諸氏が、バッタバッタと倒れている、というわけだ。なんとも奇異な感じがするではないか。

その越えられなかった跳躍のバーとは何なのか。

ほかでもないのだ。挑発・威嚇・恫喝を専らとするそこいらのチンピラ顔負けの生徒、それにヤクザかと見紛うほどのその保護者たちの言動、さらには管理職的地位にある者たちによるパワー・ハラスメントなど。それら輩(やから)の借金取りのような連日の脅しに、まったく心が萎(な)えてしまった、ということなのである。

実は教育の世界だけではない。

人と人とが関わる分野ではおしなべて、いつの時代からかまたどの世代からか、さほど深い理由もないのに喧嘩腰になる風潮が、次第に強くなってきているようにわたしには感じられる。戦後のどさくさを生きる人々の、迷いにささくれた攻撃性燻(くすぶ)る精神風土を野坂文学などから想像し、似テルナァ。。。と思ったりもする。

多くの者がみずからの居所(いどころ)の適材適所性に、なにとはなく慢性的な不公平感を抱き易くなってきているのは事実である。もちろんその一歩手前にある条件は、90年代半ばから猛烈な勢いで展開した情報のデジタル化である。今やほとんどいかなる情報であれ瞬時に検索できてしまうため、絶えず無限数のアイテムの相場においてみずからを「微分」しながらその都度確定しないでは、もはや心の均衡が保てないところまでわたしたちはやって来ている。

いわば一億総ヒポコンデリア(hypochondria:心気症)あるいはサイコパシー(Psychopathy:精神病質)状態、といった新種の精神風土の霞の中を生きているのではないかと、パソコンをたたきながら自家撞着的に空恐ろしくも実は感じているのだ。

喧嘩はしたくはないが、一度負けたらそれですべてが終わることをも、わたしたちはなんとなく知っている。そこには憐れみの欠片も慈悲もない。これはもう体験して潜り抜け、生き延びて這い上がって来ないと分からない世界なのだ。キリスト教で純粋培養された程度の日本の教師教員などが生きられる世界では、とてもとてもない。

教育者は教科のエキスパートであることはもちろん、いかなる状況でもサヴァイヴァルすることの出来る厳しく訓練された教育機動隊員でもなければならない、というのがわたしの昔からの持論である。一度相手をギャフンと言わせ、そうしてから時間をかけじっくりと鋳直すのが教育だ。怖くてできなければ、最初から教師教員などにはならないほうがよい。

誤解してもらっては困るのだが、わたしは教育の現場の戦闘状態を肯定しているのではない。そうではなく、戦闘状態にある現場に投げ込まれたらどうするのかという、いわば各人の死生観の根源を問うているのである。

わたし個人の体験を申し上げよう。

全国トップレベルの大学受験予備校に、高等学校教員から転身して来られる先生方が結構な数おられる。もちろん一攫千金を狙っての転身である。しかしほとんどの場合、開講後数か月、夏も迎えずして去って行かれる後姿を、わたしはうんざりするほど見てきた。

新幹線や飛行機を利用して全国を移動するタレント顔負けのトップ講師・看板講師とは、海千山千の妖怪である。人気上位にいる者たちを引き摺り下ろしても憚(はばか)ることのないまさに「仁義なき戦い」のさなかを、強引にも這い上がってきた血なまぐさい戦士たちなのである。特に1990年前後の「全国予備校戦争勃発」はひとつの文化であった。だからこそ当時、老舗月刊誌『文芸春秋』の記者が長々と衝撃的なスクープ記事を書いたのである。

カリスマなベールにみずからを包み込んだ一匹狼の群れ。一筋縄ではいかぬ兵(つわもの)ばかり。時に芸人、時に予想屋、時にファッションモデル、時に預言者、時に学者、時に占い師、時に革命家、そして時に狂人。。。だから十八、十九、二十歳の受験生側からすると、高等学校では到底出会うことなどなかった、危険な香りの漂うたまらなく魅力的な「我が救世主」に見えたりもするのだ。

そして蓋を開けてみると、なんと、早大・東大を筆頭に超難関有名私大・国公立大学に夥しい数の受験生を合格させているのである。これがプロと呼ばれる所以である。ハードボイルドでないと、この明日をも知れぬ世界で生きていくことはまず不可能である。

キリスト教系小中高一貫教育のなかにも、そういった強烈な個性と強靭な魂・肉体を持った人材が必要だと言う意味から、その阻害要因としてのキーワードを'Once-born'に措定し、基督教/キリスト教教育(あるいは教会学校)について、感ずるところを以下率直に述べてみたい。

英国の神学者フランシス・W・ニューマン(1805-1897)が呼称した 'the once-born(一度生まれ)/the twice-born(二度生まれ)' という表現は、米国の心理学者ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)のギフォード講義(1901-1902 英国エディンバラ大学)を介して、世に広まったものである。

桝田啓三氏の名訳『宗教的経験の諸相 上・下』(岩波文庫)を通じ、その実際に与ることはできるが、原本"The Varieties Of Religious Experience"のほうが安価である。ペーパーバック版で500ページほど。最初の100ページを辛抱すれば、あとは辞書なしでもなんとか読むことができる。関心のある方々は、一度試みられたい。原書購読会などには、もってこいの書物である。

さて'the once-born(一度生まれ)' とは、基督教の家庭に誕生したか、少なくとも幼少期あるいは学童期からして、すでになにがしかの基督教教育施設の影響下に組み込まれていた方のことを言う。

圧倒的な基督教文化圏に誕生した人に、'the once-born(一度生まれ)' の自覚がどの程度あるのかは定かでない。しかし、この島国における基督教信徒数の推定値(0.6%前後か?)に限定すれば、'the once-born(一度生まれ)' の信徒は、スーパー・マイノリティになる。

わたしの気がかりは、この島国のスーパー・マイノリティ'the once-born(一度生まれ)'をあえて養成しようとする家庭、教会学校、一貫教育施設(幼・小・中・高)の監督者方々が、この逃れようのない多重拘束(マルチ・バインド)的あるいは不均衡な多重文化的(バイカルチャル)な状況に封じられた青少年の精神の奇態な変容可能性についてどの程度に分析し対策を講じてきておられるのであろうか、という点にある。そのフィールド・ワークをあらゆるキーワードの組み合わせから検索してみたが、これ、といったものがなかなか出てこない。

2010年当時、学校法人聖学院の院長であられた小倉義明氏は、次のように語られている。
キリスト教学校の教育の生命とは、深い人間理解にあるであろう。人間の自己中心や不信や争いは、神の赦しと和解という使信によって、初めて深く理解される。そこから、人格の尊厳・信頼・奉仕など共同体形成の地盤が与えられる。(『キリスト教教育のめざすもの キリスト教学校と「心の教育」』東京神学大学報No.260)
なるほどごもっともである。

「物語」としての筋も通っている。そのようになれば素晴らしかろう、とわたしも思う。

しかしその「物語」をいま少し突(つつ)けば、「原罪(論)」や「贖罪(論)」や「神の子イエス(三位一体論)」を孕(はら)ませた「使徒信条」にいとも簡単に回帰してしまう程度の「教育の生命」を、はたして「深い人間理解」と呼んで言いものかは。。。と感じずにはいられないのだ。

直近の例で申し上げよう。

聖学院大学新学長・姜尚中氏は、2014年度入学式式辞「友愛こそ希望」(2014.04.01 Christian Today)終盤において、概略次のような話をされている。
先ほど、新約聖書ヨハネの手紙第1章第9節から読みました、その第2章の10節から11節にこう書かれてあります。 
「兄弟を愛する者は、いつも光の中におり、その人にはつまづきはありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。」 
 「心友」、つまり真に語れる友を持てば、光の中にあり、そしてさまざまな悩みはきっと消えていくはずです。
これまたごもっともである。

しかしその華麗な嘘が、わたしには我慢ならない。

外側から一方的に教育・訓育される子供たちは正直である。そのような「共同体」など、どこを探しても存在しないこの島国の不気味な変色を、大人がどのような言葉で隠蔽しようとも、彼らはいつか必ずどこかでその嘘を察知してしまうのである。否、すでにじゅうぶんすぎるほど察知して入学してきているのである。

満身創痍でくぐり抜けてきた反抗期と自我の覚醒期、ロマンチックでありながらもメランコリーな思春期、突発的な出来事、家族兄弟との軋轢、暴力、傷心、性的な覚醒、秘密の保持、ありとあらゆる人権の侵害・・・等々。「神の赦しと和解」に歯向かう生々しきも陰湿なる世界を、自己内部においても外部においても、さらに内外の齟齬においても、スーパー・マイノリティとして彼らは幾度もすでに体験しているのである。

精神的に申し上げれば、童貞でもなければ処女でももはやないのだ。人に語れぬ多重拘束性(マルチ・バインド)や不均衡な多重文化性(バイカルチャル)の体験を通じ、絶望の深淵を覗かないで生きる知恵をそれぞれに見出し、多重世界観(多重人格)の保持者あるいはキャリアとしてすました顔して入学してきているのである。そのようにしたたかでないと、彼らは生きては来れなかったのである。

そんな新入学生たちを前にして、「ヨハネの手紙」を切り抜き俗解し「心友」を説くとは、小学生相手の訓話じゃあるまいし、鈍感にもほどがある。そもそも「入学式式辞」に、終末観臭で窒息しそうになるヨハネ関連言説を持ちだし、「悩みを消してくれる友を持て」と語る新学長のデリカシーのなさには失望した。悩みとは、人間が人間であることの根拠である。それを消すとは、死ぬことと同じである。入学式で死を奨励してどうする?小金を持つと、こうも人間は変質するものなのであろうか。。。

最後に、教会学校についてひとこと。

衰退が顕著になってきている教会学校の惨状は、皆様方ご承知のとおりである。すでに廃止した教会もあると聞くが、その判断は賢明だとわたしは思う。

大勢の得体のしれぬ資格を持つ「教師」に包囲されて、手取り足取り何やら教えられているわずか数人の小学生たち。ためらいと不本意と忍従にゆがむその表情を窓越しに垣間見たとき、わたしは大人たちの狂気を感じた。

夏休み・冬休みには、一貫教育を受けている中高生たちがよく教会に来ていた。礼拝だけでなく、午後の各種つどいにも参加する生徒もいた。熱心だなあ。。。と思いきや、おもむろに一枚の紙。大人のような目をして、サインか押印を要求してくる。その目はこう語っていた。
説明シナクテモ、モウオ分カリデショ?サア、ハヤクオ願イ・・・
学校から課された、それが宿題なのである。多重世界観の保持者でなければ、こんな人格切り替えの早わざはできない。しかし、彼・彼女らには何の責任もない。そう振るまわないと生きてはいけない囲いの中で育ったから、そうしているだけであろう。彼らなりの知恵である。

わたしは月2回、心療内科(精神科)に通っている。もう5年が過ぎた(2014年現在)。地下鉄を乗り継いで帰る頃、車中でいつも大勢の女子中高生たちに押しつぶされそうになる。プロテスタント系の生徒たちである。彼女たちの表情・語り・携帯やスマホへの執着。。。どうも大人たちが思い描いている理念とは、ほど遠いようだ。それでも家庭や学校や教会では、敬虔な祈りに従っているのであろう。変幻自在である。

わたしは、'the once-born(一度生まれ)' の信徒方々を否定しているのではまったくない。そうではなく、スーパー・マイノリティ教育が排出する多重世界観の、その後の悲惨を憂うのである。

本題冒頭部で言及したウィリアム・ジェイムズは、「突然の回心」を体験した百人からの離脱者が六人だけであった、というスターバック教授の追跡調査データを引用している。ささやかなデータではあるが、まことに示唆的である。

黙して多くを語らないこの 'the twice-born(二度生まれ)' タイプの信徒こそ、イエス時代の信仰者に多く見受けられた原像(ウアビルド)の継承者ではないのだろうか、と聖書を子供のように透かしてみては思うのである。

荒野(あれの)が生んだハードボイルドで孤独なボヘミヤンイエスをそっと取り巻き、そのつどの彼の必要を賄った婦人たちのことを、わたしは言っているのである。語らずしてあまり見えもしない婦人たちの影が、福音書のここかしこの行間に色濃く落ちている。

女を真理に見立てたあのニーチェは、やはり正しかったのだ。

(当記事は、2010.10.11に書いた内容に若干の修正および追加補正を施したものである)

関連記事情報--------------------------------------------
「教育」にさらなる関心をお持ちの方は、次の記事などもどうぞ。著者Anの漢文訳を見ることができますよ(笑)。「伊藤仁斎と牧師説教と霊性」(2012年5月8日 記)

★ポチッとがんばれクリック?よろしく★
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

0 件のコメント: