2013/10/28

イタリア一人旅・妄想版


An onymous 『哲学者の使命と責任』(上村忠男訳 2011年)所収論稿「真理を語る」の2において、ジャンニ・ヴァッティモ(1936-)はこう述べている。

聖書では、永遠の生は客観的な真理を幾何学的に観照するというよりも、基本的には饗宴のようなものであると考えられている。ただひたすら神を永遠に観照しつづけることに、なんの意味があるというのだろう。
「饗宴」とは、いわゆる神の国の一端を聖書的に寓意したものである。

『アウシュビッツの残りのもの―アルシーヴと証人』(邦訳2001年)や『残りのとき パウロ講義』(邦訳2005年)などを著した同じイタリア出身のジョルジョ・アガンベン(1942-)風に表現してみると、こんな風になろうか。
不定未来への「信」を通して彼岸側に微分されるメサイア的なエクスタシーであるが、そのつどの「今」とのあいだに醸成される信仰的緊張あるいは衝動あるいは切迫などを絶やすべからざる条件とせずには、個的にも共同体的にも、そのようなシニフィエ(意味されるもの)として現出・現前しえないもの。(アノニマス)
「福袋」への脱兎のごとき突進などをイメージしてみられると、分かりやすいかもしれない。

「福袋」にむかう衝動は、中身の不可視性とガラス戸一枚の作為的な境界線とその取っ払いの時間予告によって極限間際にまでたかめられている。しかしそもそも中身の全く分からない品物など、誰も買わないものだ。にもかかわらず彼らは買いに出かける。なぜか?

そう、答えは簡単。一万円の福袋にたとえば総計五万円相当の商品が入っていたことを聞いたか、見たか、体験したか、そのまま信じたかのいずれかの事情があったからである。彼・彼女らは、その「信」の持ち主であるのだ。

この卑近な事例は、ヴァッティモも「饗宴」の体験者ではなかったか、という類推を誘う。かつてこの種の体験を「稲妻に打たれて天から落下したようだった」と表現したのは、精神病理学者であり臨床医でもあったルートヴィッヒ・ビンスヴァンガー(1881-1966)であった(「夢と実存」原本初版1930年 荻野恒一訳、『現象学的人間学』所収論文)。しかもそれは誰に落雷しても、不思議ではないのだ。

2002年に『ヨブ 奴隷の力』を著したイタリア人アントニオ・ネグリは、メシアとは何かを自問するなかで、
様々の特権化された”経験の瞬間”の間には質的差異がない(第七章第二節 仲正昌樹訳2004年)
と明言し、またこれらすべての経験の瞬間が、
人間本性の一部を構成している(同上)
とまで言い切っている。

この体験を否定してきた人々はそこで終わったが、否定しなかった人々はそこから始まり、さらには脱-体験化(=経験化)にまで着岸する。わたし如き凡人がしてそうなのである。

以上のような解釈のムーブメントは、畢竟、伝統的な「贖罪(論)」を激しく孤立させる。

わたしは『ニーチェ箴言散策集・私家版』を書き下ろした2008年頃から、「罪とは自我分裂による意識の立ち遅れそのものに対するヘブライ的直観あるいは洞察であり、人間が人間であることの愛しむべき根拠である。いつもこうべを垂れていよ、などとはイエスは言わなかった」とことあるごとに語ってきた。アダムーエバ物語を読んでも、わたしにはそうとしか了解できなかった。せっせせっせと教会に通っていた頃は、さまざまな研究会や勉強会に参加しそう発言し続けたが、結果、ほとんどは笑って無視された。

ところがどうであろう。

大西雅一郎氏が2009年に翻訳本『脱閉域 キリスト教の脱構築1』(ジャン=リュック・ナンシー)を公刊されるやいなや、北米系(主にリバイバル派とその分派)の教会を除く牧師はじめ教会指導者が、キリスト教教義や聖書解釈の上書きをこそこそとはじめているではないか。日本基督教団の教会員でもある新約聖書学者大貫隆氏の近年の出版活動(一般向けのうちおよそ三冊)の影響も、大きい。

ナンシーの語る一節だけを紹介しておきたい。いずれも上掲翻訳本からのものである。
罪は第一に行為ではありません。それはひとつの条件(運命、環境 condition)です、起源にある条件なのです。
自己へと関係づけられたものとしての、他者へと開かれない、他者へと絆を解き緩めないものとしての自己なるもの
これが自我分裂へのハイデガー的言及でなければ、いったい何なのであろうか。

こう理解してこそ、冒頭引用したヴァッティモの語りが、キリスト教に対する同意だけでなく深いアイロニーをも含んだものであることに、ハタと気がつくのである。

ドゥルーズ / ガタリ『千のプラトー』に便乗しなかったイタリア出身の思想家たちは、お洒落な文体をもちじつに魅力的である。如何せん、日本語への翻訳作業はたいへん遅れているようだ。若き研究者諸君の奮起奮闘を期待したい。