2014/02/19

世界最高峰のニヒリズム

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自分の写真::言わずもがな、「使徒信条(The credo)」を憲法として実装したキリスト教のことである。

イエスとは何の関係もない。

いきなりであるが。。。

入行後一年で退職され、東京大学大学院でフーコ研究に没頭。現在明治大学教授として教鞭をとられているとてもチャーミングな若き学者重田園江(おもだ そのえ)氏は、従来とは異なる視座から「ニヒリズム」を次のように定義されている。


ニヒリズムとは、この世界が苦しみに満ちていることを、恐怖や臆病ゆえに直視しない態度だ。そこから、世界の外側に苦しみの根拠を求め「意味」をねつ造するか、現実を忘却させる楽園に逃げ込むかはどちらでもありうる。つまりニヒリズムとは、この世界の意味や目的の否定ではない。それはむしろ否定することを恐れる。そして、現実の醜さから逃避し小さな幸福の中に安住する。あるいは、現世の外から苦しみに意味を与えることで、現実を見ないまま中途半端にそれを肯定する。(「ナウシカとニヒリズム」『世界思想』2013・春 40号所収小論 世界思想社 下線An)
自暴自棄的あるいはやけっぱちな攻撃性といった従来のスティグマが、すっかり消えてなくなっているのがお分かり頂けようか。

連合赤軍事件直後、学生運動も末期の激しい内ゲバ時代を体験し巻き込まれもしたわたしなどには、シンメトリカルなその纏(まと)まりがとても眩しく映る。しかし何度か読み返しているうちに、ゥン?。。。ナカナカイイジャン、という気にもなってくるから不思議だ。

下線部などは、圧倒的多数の世人にはもちろん、まさにいまの西欧を席巻する世俗型キリスト教にも北米のあの狂喜乱舞しバッタバッタ倒れるマス伝道型キリスト教にもそのまま違和感なくあてはまっており、時機に適った定義であるとも思われてくる。

このただものではないニヒリズムの引力をあえて反対方向にぶち切るためには、是非はともかく、滾(たぎ)ってはほとばしる情念のダイナミズムといったものがどうしても必要になってくる。

とどのつまりピントがズレたまま、しかも常に存在の初動作に立ち遅れる神経細胞の末端でしか機能しないような旧式のフィロゾフィー・旧式のテオロギーだけでは、「らしきもの」に与る畏(かしこ)まった儀礼的時間を得ることはできようが、生死の境を彷徨う人の魂の「今」をうまく掬い取るにまったくの役不足なのである。

既成宗教を選択せず新興宗教に魅かれる人々、就中(なかんずく)若者たちの感性は、すでにそのことをいち早く見通しているのであろう。その軽やかだが確かな反撥が、オウム(真理教)その他数々の宗教関連事件がありながらにして、新興宗教が巧みに発信する共同幻想・妄想の「危険な魅力」に彼らのこころを共振させているのかもしれない。仮にもそうだとすると、既成宗教の責任は二重になる。

かつて岡本太郎(1911-1996)氏は、「弥生土器」の繊細さにひどく失望し「縄文土器」の「凄み」を絶賛したことがあったが(「縄文土器―民族の生命力」1952年)、それもつまるところ、人間にとって言葉とは何なのか・表現とは何なのかをアルケーとして問い続けていたからこそ見出すことのできた感動であった。しかもその感動は、「生きん・救われん」と希求することで刻一刻の「時」の捕縛を逃れながらさらなる「時」を創造する以外生きる術を持たないわたしたち人間の、とてつもない深みに息づく情動と共振して湧き上がってきたものでもあった。柳宗悦(1889-1961)氏の叙述などを、まるで物の怪に憑かれたものの如くにわたしたちが感じるのも、実は同じ事情からなのである(「雑器の美」1926年)。

そのような足元に置かれた幾多の大和的思惟のアクチュアリティを遠ざけて、自害した三島由紀夫氏が言い遺した「からっぽな経済大国」になお飽きず群がらんとする人、人、人を、わたしは空恐ろしく感じる。

朝洗顔して自分の顔を見るのが、わたしはとても怖い。

わたしの向こう側に、知らない「わたし」が立っているからである。

洗っても洗って雪のようにはならない汚れ。。。やはりあるのだ。

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