2011/11/03

Sympaではダメ!

「シンパ」、懐かしい言葉である。

わたしの青春青年時代には、よく聞いたものだが。。。

Sympathizer(支持者・同情者・賛同者・信奉者)のカタカナ版である。

喩えると、先ごろの大阪マラソンランナーたちに沿道でエールを送っていた応援者のようなもの。絶叫はするが、自分が走ろうとは決してしない。


ところで。。。

(欧米の)教会制度や機構や神学が移植されて150年が過ぎた、と言う。

わたしなんぞは、よくもまあ150年も生き延びたものだ、と思う。

革命を知らないNIPPON国の不思議は、教会をも例外としないのだ。
カソリック系を除けば、乳離れのできない「シンパ」教会ばかり。
その自覚の欠片すらない。だからサロン化し、ついには沈滞化する。

顔、口ではそのことを憂いているようだが、その実、心は秋晴れなのである。最低生活者以下の者たちを教会から暗々裏に排除するこの穢れた魂の力学が、サロン化を促進しているのだ。

わたしが二年足らずいた60人ほどの教会は、日雇い労働者と路上生活者の街からそう遠くはなかった。その数二万人とも聞く。しかし教会で見かけたことは、一度もない。門扉の横に高級?自家用車がいつも数台停まる教会。地域内在住の信徒は、30%にも満たない。これがサロンでなくて、なんであろうか?

その前線にいるかのように見える現代日本の牧師。そのほとんどは、ロボットである。そしてその奥処の田園に憩いながら遠隔操作している者。それが、厚顔無恥極まりない神学者たちである。皆、信徒の献金のほとんどをかっさらって公務員並み(600万~800万)、あるいはそれ以上の暮らしを平然としている。日本には、何千人の牧師がいる。一度総額を概算されてみられるがよい。そしてその実を見て、その木の妥当性を判断されるがよい。


プロテスタント系の牧師・神学者はルターがお好きなようだが、どこをどう読んでおられるのだろう、と思うことがある。ルターの衝動の第一系列は、次の箇所である。
  • われわれは全く地上において最もやくざな人たちの奴僕となってしまったのである。(「キリスト者の自由」石原謙訳)
金魚の糞のようなポスト・プロテスタント諸理論では、「シンパ」教会の壁は破れない。

今頃になってどの教派教団も、あれだけ否定していたネットの世界に助けを求め始めている。バカじゃないかと本気でそう思う。