2014/01/27

鏡像的「逆説」へのイエスの自覚

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自分の写真イエスの言説のいかほどかについて、「これは逆説である」と得意げに語る(神/聖書)学者・説教者はじめ一般信徒方々の数は、ひじょうに多い。

そう言うわたしも、なるほどそうか。。。と思わなかったわけではない。

しかし改めて考えてみると、信仰者が信仰者に向かって「コレハ逆説デアル」などと逐一ことわること自体、そもそもどこかおかしくはないかとも感じてしまう。もちろん、放逸無惨極まりなかりし我が人生すべてを棚上げにしたうえで申し上げているのだが。

どこかしらキナ臭い。

もちろん、イエスではなく「逆説」という言葉がである。つまり読み手が「福音書」テクストの該当箇所をそのように「解釈した」という意味において、作為的あるいは戦略的なものをわたしの感性が先取(せんしゅ)してしまうのだ。はたしてイエスの自覚においてはどうだったのであろうか。

これまで「逆説」と解釈されてきたイエスの語り(例えば山上の垂訓の一部など)は、いわゆる鏡像的な関係にあるものが主で、ギリシア哲学で言うところの'para(反対)dóxa(意見)'(注)とは原理的に違う。
(注)師パルメニデス(紀元前515?-430?)をピュタゴラス学派の論敵から防衛するために弟子ゼノン(490?-430?)が考案した「運動否定の論証」のこと(山川偉也『古代ギリシアの思想』「8 ゼノンの逆理」)。元来はただの詭弁であったが、その後「背理法」として整備され、ギリシア的推理形式の重要な一翼を担うことになる。在ローマ属国ユダヤ人二世パウロの真筆書簡における弁証にその影響を鮮やかに見て取ることができる事実については、書簡分析と演算式を通し当ブログ内記事においてすでに指摘しておいた(「パウロ聖使徒の背理法・回心者の間接証明(1) / (2)」)。
そこで、イエスの自覚が奈辺にあったのかに思いを馳せるより先に、その語り(の一部)をいま少し一般化し、思考を整理する意味からも簡単な「等式(全称肯定命題)」で示してみたい。

この世という場は、二つの「等式(命題{ })」に対する二つの「価値判断」が圧倒的支持を受ける所である。
  1. {千辛万苦=不幸}=常識
    { }内の左辺と右辺が「等号」で結ぶにふさわしい意味論的関係にある場合。
  2. {千辛万苦=幸}=非常識
    { }内の左辺と右辺が「等号」で結ぶにふさわしい意味論的関係にない場合(注)
(注)常に非ざる認識・知識という意味で非常識になる。この段階は命題{ }が「偽」と判断された状態であるにすぎず、「逆説」と解釈される状態には至ってはいない。
さて「鏡像的逆説」とは、{ }内の命題に対する価値判断が上掲二つとはまったく逆転してしまっている次の二式を言う。
  1. {千辛万苦=幸}=常識
  2. {千辛万苦=不幸}=非常識
このままではこの世の判断として広く認知されることは考え難く、ほとんどは敬遠されるか無視されるであろう。

この後半の二式が「真」命題になり、みずからの支持率を上げるためには、それ相応の条件と根拠が要請される。

鏡像的「逆説」を巡る議論のほとんどは、この条件と根拠に終始している。

神学者・八木誠一(1932-)氏は次のように述べられている。
ではイエスの言葉の性格は何か。イエスは理論を与えず、譬え話を語る。譬え話は言わんとする事柄の直接の表現ではない。間接の指示である。譬え話は直接に表現できない事柄の類比なのだ。中村獅雄の言葉を借りるなら、譬え話はそれが指す事柄に対して、アナロギア(類比)とパラドックス(逆説)という両面を持っている。西田幾多郎の表現を借りるなら、譬え話と事柄との関係は逆対応だと言ってもよい。両者の間には連続と断絶があるのだ。つまり譬え話とは、「伝達の文」では直接に伝えられない事柄の間接的表現なのである。だから直接の伝達ではなく、間接的な指示なのである。(『イエスと現代』1977年初版 下線An)
どうやら、イエスの「譬え話」は「類比」と「逆説」をあわせ持つ「間接指示」である、ということらしい。

どちらが(連続)でどちらが(断絶)なのか、叙述が混乱していていささか分かりにくい。「譬え」にいちど迂回しなければならないと言う意味では(断絶)、その迂回から行く先に無事到達するという意味においては(連続)、と辛うじて理解することはできる。

しかしながら氏が参照されている西田幾多郎(1870-1945)最晩年の到達点は、「間接指示」しか許容しない「X」が、俗世において本来は「偽」と判定されてしかるべき命題を、「真」命題に転化させてしまう根拠として措定したところにあった。だからこそ、
{(千辛万苦=不幸)=常識}={(千辛万苦=幸)=非常識}
といった現世における不遇・不本意な状態(条件)も、その転化の根拠(契機)を受胎する万が一の奇跡に開かれているのだと解することができ、理屈としてとりあえずは一件落着するのだ。

下線部の西田幾多郎からの引用「逆対応」は、この「転化」を形而上学的に例外なきものとして規定したものである。その点を説明せず八木氏は、「譬え話」の意義を「類比」と「逆説」とに二重化して定義しようと欲張ったために、結果、迂回するという意味での(断絶)と価値判断の転化という意味での(逆説)が混線してしまったのであろう。

それはともかく、氏は次のようにも語られるている。
超越は人格の自由で主体的な行為を基礎づけ、その中にあらわれる。超越と自由は矛盾しながら相即する。ここでは神の意志への従順が、心の内奥からの促しに応える自由の行為となるのだ。・・・中略・・・神の働きかけへの従順は、愛への願いを媒介として、逆説的に主体の自由を成り立たせるのである。それは責任を負う主体の自由なのである。(上掲書)
信仰者として「超越(神)」の(絶対的)先行性を死守せんとされるお気持ちは、よく伝わってくる。本当にそう感じておられるのだろうと素直に受け取りもしたい。

しかしあえて厳しく申し上げさせていただくと、それとても人間思惟内での言説、つまりは考えられた「理屈」のひとつにすぎないのである。なぜなら「時間」そのものは、人間思惟に対他化されるはるか以前にすでに超越を自己経験してしまっている、そのようなものだからである。カントが放棄した「物自体」は、ミシェル・アンリのいわば統覚自我の支配を免れた根源的な情感の再帰的な「自己経験」への洞察を通して、ハイデガーを半ば上書きするかのように射止めかけられていた功績を忘れて、実りある議論は展開しない。

「福音書」に描かれたイエスから、そのように理路整然とした自意識を解釈として抉り出す、あるいは剥ぎ取ることができる箇所は、ヘレニズムに向かい整形されていくマタイ以降ならいざ知らず、ハヤトロギア(注)のヘブライ的煌(きら)めきを失ってはいない最古のマルコ「福音書」にはない。
(注)知る人ぞ知る故有賀鉄太郎氏による造語であるが、「即自的存在観」とでも呼ぶべきもの。文献紹介も含め、当ブログ内記事「途切れた系譜(ハヤトロギア)」「無花果(イチジク)の木とペトロ・メッセージ」等を参照されたい。
イエスはヘブライの神を信じた現存在(人間)である、と思って疑わないわたしは、むしろイエス(と思しき人)の言説を「逆説」と感じる / 感じてしまうその信仰者の心の裏側で起きている出来事を憂慮する。

結論を急ぎ申し上げれば、現存在(世界内存在)イエスのゆゆしき「取り逃がし」がその出来事の内容のすべてである。「福音書」を読みながらにしておそらく相当数の日本人キリスト者は、イエスを「取り逃がし」ているものと推測する。もちろんそれぞれの教団・教派の舞台裏に常に着座する神学者・聖書学者、そしてその兵卒として舞台上で口角泡を飛ばす説教者などの責任ではあるのだが。

英語版ウィキペディアの報告によると、日本人プロテスタントはすでに509,688人(人口比0.4%)まで減少している(2010年現在)。しかも教会が全国に7,700ヶ所。信徒が賄っているのは牧師だけではないのだ。仮に10,000人と想定して、一般信徒の負担額だけでも概算してみられるがよい。毎年莫大な額にのぼっているはずだ。ギャンブル同然の献金運用失敗の大赤字などもある。それだけの金額の一滴(ひとしずく)でもあれば、思いを止めることのできた自殺者もたくさんいたであろうに。。。石清水のように途切れず金は湧いてくる、などと妄想させてしまった一般信徒方々にも、相当の責任はあろうと感じる。この期の危機に及んで改革!改革!と指導者は擦り寄って来るであろうが、ほとんどは保身のための戦術的仕草、自作自演にすぎない。

奇しくもハイデガーは、こんなことを述べている。
顧慮的な気遣いは他者から「気遣い」をいわば奪取して、その他者に代わって配慮的な気遣いのうちに身を置き、その他者のために尽力することがある。こうした顧慮的な気遣いは、配慮的に気遣われるべき当のことを他者に代わって引き受けるのである。その他者はそのさいおのれの地位から追い出され、身を退くことによって、配慮的に気遣われたものを、意のままになるように仕上げられたものとして後で受け取ることになるか、ないしは配慮的に気遣われたものからまったくまぬがれてしまう。(『存在と時間』第一篇第四章第二十六節 原佑訳 下線An)
ハイデガーの言う「気遣い(Besorgen/Sorgen)」の本義は、心配・気がかり・不安・懸念、あるいは意欲・願望・性癖・渇望でもなく、さらには理性・判断・概念・定義・根拠・関係・認識などでもない。人格ですらも、それは意味しない(注)
(注)なお「顧慮的」とは対他者、「配慮的」とは対事物/情況を想定した、いわば「気遣い」の種別である。
そうではなく、以上の「自覚的」な営みすべての継起にいつも何よりも先立って、その人とその人の世界の開示を存在の根源においていち早く自己経験し了解し続けながら「その人(存在者)」たらしめている根拠、つまりは「存在」そのもののその都度の初動作のことなのである。

わたしたち一人ひとりの時空間の先端(したがって最も遅れた地点)(注)で演じられる仕草に絶えず読み誤られながら、それでも絶命する瞬間まで先行的な超越を継続し世界を了解して止まぬ隠遁者/逃亡者の声なき託宣なのである。プレンターノに触発された現象学の祖フッサールのキャンパスに描かれたような「志向性(指向性)」を、ハイデガーは以上のようにまさに脳天から垂直に穴を穿(うが)つようにして人間存在の機序を暴露することを通じ、いわゆる罪の根拠にも匹敵する「存在論的差異」を発見したのである。そこに巨大な意義がある。
(注)マルコ10. 31。
さてそこで再度、

イエスを「取り逃がす」とはどういうことか?

それは、他者の配慮的な「気遣い」による暴圧的な置換を通じ(その結果が「使徒信条」である)、イエスの顧慮的な「気遣い」が追放されてしまうことを意味する。そのことは、イエスの孤絶がさらに際立つことでもある。余計なおせっかいが人を窮地に追い込む、ということも、そうした共存在の気づかれにくい死闘・駆け引き・打算等がわたしたち存在者の裏側で起きているからにほかならない。

では、生き生きとした現存在イエスを「奪還する」とはどのような事態を指すのか?

それは、イエスの「気遣い」を「奪取」することではなく、イエスがイエスの「気遣い」のうちにあることをイエスに見通させ、その気遣いにおいてイエスが自由であるような事態である。イエスをそのように顧慮する「気遣い」もまた、イエスにとっては共存在なのである。それが使徒たちであったのだ。そのことへの了解に、使徒たちは難渋したのである。それが死を覚悟した若きイエスの人に語れぬ孤独でもあったのだ。

これは、ウンベルト・エーコ(1932-)の言う「(テクストの)過剰解釈」(『エーコの読みと深読み』1993年 岩波書店)などでは毛頭ない。それでも教会で語れば、無視はされよう。

ヨルダン川でのイエスの洗礼(マルコ1.9-11 マタイ3.13-17 ルカ3.21-22)が、生殺与奪権の衝撃的な譲渡または返還であったことをわたしに気づかせてくれたのは、今しがた指摘したイエスの時間意識の現実態であった。

まさにイエスの洗礼は、イエスがイエスを対他化することなく自己経験した「時の瞬間(時熟)」(宗教体験)の象徴的表現でもあったのだ。託宣とは、そうした時熟の束の間においてしか聞こえてはこないものなのである。

新約聖書の編集においてあきらかに冷遇されているイエスの一番弟子ペトロが、イエス亡きあとそのことを鮮やかに証言しているではないか(注)
(注)「ペトロの手紙 二」1. 18-21
故西田幾多郎氏が時折、その高度に形而上学的な思惟のところどころで「デモーニッシュ」という表現を挿入されたのも、以上のような星座布置的解釈の一瞬間の点滅に、どこかで少しは気づかれていたからではないかと思われる(注)
(注)「場所的論理と宗教的世界観」二(『西田幾多郎哲学論集』第三巻所収論文)。
「逆説」と呼称し説きほどかんとすると、思惟の罠にはまる。イエスの自己経験に窺われる時熟体験を跨ぎ越して「福音書」を読むと、必ずそうなる。それは、『聖書』からの滑落を意味する。当然イエスは遠ざかり、同伴者であり共存在でもあったYHWHも遠ざかる。つまり「額縁の中のキリスト教(使徒信条)」だけが、一切の権力と癒着したまま引き寄せられることになり、すべての聖書解釈のノモス(規範)や信徒のエチカ(倫理)にもなってしまうのだ。そして事実そうなってきたのだ。これがじつは、「逆説」のギリシア的本義なのである。なんと皮肉なことであろうか。それが西欧人の憂鬱を形成してきたのである。

そのことの長きにわたる深刻な影響と犠牲を、ようやくにして西欧諸国は省察しはじめている。今やカソリック、プロテスタントの差異どころの問題ではなくなってきているのだ。

「逆説である」と言祝(ことほ)ぐことが信仰でないことは、以上で明らかであろう。「逆説」などとは微塵も感じてはいなかった人間イエスの信仰をハイライトすること、そのことこそがキリスト者、と言って語弊があるならばイエス主義者(注)の信仰なのである。そう思った人、そう感じた人が、信仰を抱いたまま胸を張って教会を卒業するのである。日本の教会が「使徒信条(The credo)」を放棄しない限り、その人たちが教会に戻ることはありえない。
(注)便宜上の表現。米国のJesusistとは何の関係もない。
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