2014/01/09

失敗した「受肉」

自分の写真残念ながらこの島国のプロテスタンティズムの先導者たちは、「インカルチュレーション」という主題についてあまり多くを語らない。

あれよあれよのうちに、今や空恐ろしいほどの数に分裂してしまった教派・教団傘下(さんか)の、またこれ色とりどりに乱舞して止まぬ諸教会の、そのまた会員であられる一般信徒方々が、この言葉の意味はもちろん言葉自体を知らなかったとしても,おかしくもなんともない。教会に通わない受洗者であるわたしが言うのもなんだが、生活の糧のほとんどを信徒の献金に負っていること、そのことを微塵も疑ったことのないちょっとお洒落だが金銭感覚の完全に麻痺した拘禁症候群気味のオーガナイザーたちに、やはりその責任はある。

2014年1月4日07時15分のクリスチャントゥデイの記事「精神的支え、牧師にも必要」の一部にはこう書かれていた。全文はこちらから
宗教的な職業を持つ人々をサポートする聖職者回復ネットワーク(Clergy Recovery Network)の調査によると、64%の牧師は秘密を分かち合あう人がいないという。また、ライフウェイリサーチ(LifeWay Research)によると、牧師は1人で苦しんでいるだけではなく、半分以上の牧師が孤独であり、同性の意義ある友情を持っている牧師は全体の22%に限られている。
米国の先導者も日本の指導者も、「インカルチュレーション」どころではどうもないらしい。

かつて日本では、作家遠藤周作の言説を契機とした「インカルチュレーション」に関するささやかな議論があった。しかし広くも深くも、その後展開することはなかった。壮絶な異文化接触の日常を持たないこの島国の精神風土において「インカルチュレーション」は主題になりにくく、よしんばなりえたとしても議論が空転して忘却もされやすい、といった密室での予測がおそらくは優勢であったのだろう。主題の深刻さにもかかわらず、商い人の表現を拝借して申し上げれば、双方とも採算が合わないからやめておこう、ということに同意したというわけだ。臨機に応変な解釈であり判断ではある。

そんな特異な日本の宗教的風土のなか、「インカルチュレーション」つまり「異文化への宗教の受肉」の誕生秘話を果敢にも再構成されたのは、ローマ在住の日本人司祭谷口幸紀氏であった(自伝『バンカー、そして神父―放蕩息子の帰還 』の著者 亜紀書房刊)。当時わたしが参加していたツイッターの有り難きフォロワー第一号様で、その後もメールのやり取りを通して貴重な情報を仰がせてもらった。ご論稿からの引用も承諾して頂いたこともあり、当ブログにおいても同じ個所を紹介させて頂きながら、ひとこと思うところを書き留めておきたい。なお健康上の理由からわたし自身は現在ツイッターを退会している。

さて「インンカルチュレーション」の起源は、イエスではまったくない。イエス亡きあと圧倒的な力を誇示していたのであろうエルサレムのヤコブ(イエスの兄弟)はもちろん、第一等のイエスの直弟子ペトロでもないのだ。残るは彼らと袂を分かつことになったパウロであるが、「パウロなかりせば」とは言われるものの、そこまでパウロが当時のローマ権力者層の思惑を見抜いていたとは、十三書簡のうち真筆とされる七書簡を見比べる限りは、考えにくい。

イエスの磔刑(30年頃)後、皇帝コンスタンティヌスの権限により招集されたニカイア公会議(325年)まで、およそ三百年が経過している。ユダヤ人自体の世代交代だけでなく、諸民族とのあまたの混交にも配慮すれば、その人種構成は複雑さを極めていたにちがいない時代である。

思想的にこの時代を概括すれば、国破れて山河を彷徨するユダヤ人個々に内化していったヘブライズム、故有賀鉄太郎氏の命名に従えば「ハヤトロギア(即自的存在覚知)」が、国家に庇護された古代ギリシア由来の「オントテオロギア(存在神論)←形而上学」に脱色されていくダイナミックな時期にも対応しているのだ。

上で紹介させて頂いた谷口司祭は、異文化であったはずのヨーロッパ全域にキリスト教が伝播した事実の背後に、国体を維持せんとする皇帝コンスタンティヌス(Constantinus 在位306-337)の権謀術策に懐柔されたキリスト教指導者層の変質を感じ取っておられる。
コンスタンチン体制とは、キリスト教がローマ帝国の歴史と文化にインカルチュレートしたものではない。キリスト教の魂が、ローマの歴史と文化に受肉しそれを生かし、帝国の風土に土着化しそれを豊かにしたのでもない。キリストの花嫁、聖なる浄配であったものが、世俗主義の化身、ローマ皇帝に手篭めにされ、囲い込まれたあられもない姿である。キリスト教の魂は抜き取られ、ローマの偶像崇拝の精神がキリスト教の中心に忍び入ったというほうがむしろ正しいくらいである。(「インカルチュレーション(その-1)」) 
みごとなご指摘である、とわたしは感じた。

「抜き取られ」たと語られる「キリスト教の魂」については、次のようなご理解を示されている。
元を糾せば、キリスト教はユダヤ教から派生したものである。旧約聖書において、既にモーゼの十戒の中に「殺してはならない」とあった。イザヤ書には「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と言う理想が掲げられてもいた。類似の表現は旧約聖書の随所に見られるのである。ナザレのイエスは、そうしたユダヤ的精神風土、霊的遺産の完成者であった。(「インカルチュレーション(同上)」) 
わたしが述べるならまだしも、氏のお立場に思いを馳せると、ある意味の覚悟が充満していなければこうは書けなかったであろう、と今読んでも感じる。現代のプロテスタンティズムに基づく牧師たちからは、なかなかこうは聞こえてこない。

そして次のように筆をおろされた。
ヨーロッパ中世を通じてつい近い過去まで、皇帝と教会は最強のコンビだった。世俗の覇者「皇帝」に「教会」は神のご加護を約束し、「教会」はその見返りに「皇帝」の手厚い保護を手に入れた。キリストが「神のものは神に、セザル(皇帝)のものはセザルに」と、互いに相容れない対立概念として厳しく分けたものを、キリストの遺言に背いて「神聖なキリスト教帝国」の概念のもとに地上における不可分の一体として結婚させたのである。この「蜜月」関係は、西暦313年のミラノ勅令の頃から、ヨーロッパ中世からルネッサンス、大航海時代とプロテスタントによる宗教改革、産業革命、第二次世界大戦を経て、大体1964年の東京オリンピックの頃まで綿々と続いたのである。(「インカルチュレーション(その-2)」 
是非はともかく、みずからを顧みるとはこういうことなのであろう。ユダヤ教徒との関係も良好である、とのご報告も当時メールで受信しており、うれしい限りであった。

ところで、

わたしのここ数年の関心は、キリスト教と現代思想・哲学との綱引きにある。

その点から申し上げると、哲学史家ドゥルーズ(1925-1995)と精神分析学者ガタリ(1930-1992)による大著『千のプラトー』(河出書房新社 1994年共訳)は無視できない。始まりも終わりも中心もない即自存在の根源的な動態を指さんとした「リゾーム(rhizome)」という術語が示す通り、誰も予期しなかった脱-キリスト教の思想運動が西欧で起こっているからである。

しかしよくよくその系譜を眺めれば、ニーチェ(1844-1900)がおり、ベルグソン(1859-1941)がおり、ディルタイ(1833-1911)がおり、フッサール(1859-1938)がおり、ハイデガー(1889-1976)がおり、ガダマー(1900-2002)がおり、ポンティ(1908-1961)がおり、フーコ(1926-1984)・デリダ(1930-2004)がおり、幾多の精神医学者がいる。さらにそれらが収斂した大波は、イタリア現代思想にまで押し寄せてもいるのである。

それぞれに特色はあるが意図はただひとつ、ギリシア以来の西洋形而上学(思惟の推理形式)が静的で継起的な観念にとどまる限り、「生」それ自体の動態全容の表面にすら付着することができないものであることを暴露する点にあったし、今もあるし、これからもあり続けるであろうということである。「使徒信条」もその意味では、西洋形而上学の長子たる「鬼子」にすぎない。

わたしのスタンスから基督教的に申し上げれば、完全に脱色されてしまったイエス「の」信仰それ自体、つまりは彼の瑞々しい真理の語りを生みだしたヘブライズムの本性たる「即自的存在覚知」(出エジプト記3. 14)を奪還する方域において、キリスト教の伝統のすべてを編成し直すことが求められている、ということになる。

そのことは、現代の全ヨーロッパを席巻しつつある脱-キリスト教化のまさに思想運動とも言うべき動向のさなかで、キリスト者に確信されつつある。そしてバチカンも連動して、その運動に反応を起こしはじめているのである。谷口司祭の論考は、そのさなかで書かれたものである。その意義はとてつもなく大きい。

そのような類の意志そのような類の営みのことごとくを頑迷に阻止してきた、そしていまなお無言のまま阻止し続けようとしているもの、それがキリスト教憲法と呼ばれキリスト教的芳香の一切を決定することになった「使徒信条(The credo)」なのである。教会では月一回あるいは毎週、全員で一斉に声を出し読み上げる。「声」とは「わたし」である。「わたし」以外の誰でもない「わたし」の「声(パロール)」を、「わたし」が「わたし」の意志の命令とは異なる血糊のべっとりとついた「使徒信条」を介して出さなければならない。こんな屈辱がどこにあろう!

教会には通わない、それがわたしの思いの丈である。それ以上でもそれ以下でもない。

日本の先導者・指導者の大半は、北米のプロテスタンティズムを範型としている。しかし世界のキリスト教は、北米のリバイバル派タイプあるいはその亜流などには全く関心を抱いていない。そのことを日本の一般信徒方々は気づくべきである。600万人が殺害されたホロコーストに、それでも現前しなかった神とはいかなる神か?降臨しなかったイエスとは、いかなるイエスなのか?それらは古代ローマ御用学者たちが描いた「使徒信条」という絵の中の餅ではなかったのか?

150年経ってなお教会に籠城し、献金から乳離れできないでいる日本のプロテスタント先導者たちの多くは、この紀元後三百年あまりのはるかなる「遠ざかり」を奪取しつつ今を切り開くべき苦難の道を回避し続けてきている、とわたしの立場からは言わざるをえない。その結果が、現状である。牧師の疲労困憊、財政の回復不可能性、伝道宣教と信徒の減少との無限パラドックス循環。。。

凡そ思惟化を拒絶するヘブライ民族の血に宿った神を信ずる者は、イエスはまことのユダヤ教徒であった、という現-事実を飛び越えてはならないのである。「福音」とは、イエス「へ」の信仰をまことしやかに説き明かすことではなく、まさに説教者みずからの「証し(体験)」を供犠してイエス「の」信仰それ自体に「語らせる」ことなのである。出来なければ、牧師などになってはいけないのである。

またその営みは、神学者や牧師の独占物でもない。その営みは、広場でも公園でも荒野でも、どうしようもなく苦しくてどうしようもなく心貧しくさえあれば、だれでもできるものなのだ。そうした「荒野」の営みを通して、イエスは多くの民衆を救ったのであるから。

再度、キリスト者の神はギリシア哲学の亜流が捏造(ねつぞう)した「使徒信条」の中の神なのではない。イエスが信じたのは、「ヘブライの神」である。イエスが信じたその「ヘブライの神」をイエスに倣い信じるためには、イエスは人間、紛うことなき現存在でなければならない。そのように福音書をすべて読み直さなければならない。福音書の解釈を教義一切から解放してやらなければならない。西欧は今、その方域においてみずからの長い長い歴史を再び総括し始めているのである。

「新共同訳聖書」を使用している教会は、2016年から「標準改訳(仮称)」への乗り換えが指示される。米国とは一線を画し、「使徒信条」を手放す丁度良い時期だと思うのだが。。。米国宣教師たちにカモにされていないかどうか、疑ってみることも一度くらいは必要ではないか。年をとり自国で売れなくなったミュージシャンと飛行機の中に同乗していないか調べてみてはどうか、と本気で思いたくもなってくる。それほどに米国からのキリスト教関係者の渡日が多すぎる。連日の如くにである。献金の海外流出を疑われても仕方がないではないか。

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