::苦しみのさなかで苦しみについて考えていると、自分のなかのどこかにまったく「無傷な自分」がいるのではないか、といった猜疑にすっかり心奪われてしまうことがわたしにはある。起き上がれそうにない時はもちろん、救急車を呼ぼうかと発作的に意志せざるをえない不穏な気分に襲われた時でさえ、その「無傷な自分」がとんでもないジェラシーの対象に変容しながら、やはりどこからかしら奇怪な回路を這うようにして現象してくる。統覚自我。。。とひとことで片づけられそうにはない不気味な動きと不敵なぬくもり。
ハイデガーは福音書に神の子ならぬ現存在イエスを看破しました。使徒信条や教会牧師の礼拝説教から彼を解き放ってこそ、あらゆる痛苦懊悩に勝利した彼の人間洞察、信仰の存在論的機序が蘇ります。★キリスト者の脱 / 再構築風 - キリスト教的覚え書き。(2011-2014)
::苦しみのさなかで苦しみについて考えていると、自分のなかのどこかにまったく「無傷な自分」がいるのではないか、といった猜疑にすっかり心奪われてしまうことがわたしにはある。![]() |
| Friedrich Nietzsche |
::小学三年生の秋、九歳になったばかりの頃に、わたしの楽園物語は予告もなく途切れた。
::昨夜はちょっと無理をして牧師説教動画を一本、最後まで聴いてみた。直近九日の礼拝であった。リバイバル派っぽい。一時間弱。。。
::礼拝説教ヲソノママ「ネット」デ配信スレバ、大キナ効果ガアルカモ。。。或ることに関して多弁をろうしたからとて、それによって了解内容がさらに深まるという保証は、いささかもない。(ハイデガー『存在と時間』第三十四節 原佑訳)わたしは見た。
::愛する姉上様へ
::「杣道(そまみち)」とは、何処(いずこ)に行き当たるやらまこと心もとなくて森の中に自生する小道のことである。みずからの姿を草木に覆わせながら、森の精を放つだけでわたしたちをここかしこに誘いもし迷わせもする禁断の道。
::ギリシア哲学(形而上学)の最高傑作と表現してもよいほど見事に刈り込まれた「使徒信条(THE Credo)」であるが、凄惨な全体主義的展開の元締めとして人類史を切り裂いてきた事実の数々を思うと、その元凶たる「使徒信条」をいまだ唱和して懲りぬ教会に再度行こうなどという気持ちは、もうわたしのどこからも湧いてはこない。もちろん健康上の理由もいささか関与してはいるが。