2014/03/08

「杣道(そまみち)」に無頓着な能面キリスト者たち

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自分の写真::「杣道(そまみち)」とは、何処(いずこ)に行き当たるやらまこと心もとなくて森の中に自生する小道のことである。みずからの姿を草木に覆わせながら、森の精を放つだけでわたしたちをここかしこに誘いもし迷わせもする禁断の道。

もちろん成人になると、そんな道があったことなどすっかり忘れている。発見するのはいつも子供か、子供に逆戻りしてしまった孤独な大人たちだけかもしれない。

おそらくわたしは、そのような子供または大人のひとりなのであろう。

なぜなら、わたしはヨハネ「福音書」が大嫌いだからだ。

ヨハネ?大嫌い?

はや首をかしげておられる方々もおられよう。

論理的な不整合は意図あっての「抜歯」のためだが、しかし今申し上げた理由自体に他意があるわけではない。

再度、わたしが嫌っているのはヨハネ「福音書」である。

たしかにヨハネ(と思しき人)の筆には、まるでそれが「わたし」ひとりだけのために誂(あつら)えられたかのような妄想を惹起させるにじゅうぶんな力が秘められている。どこもかしこもみな見事に彫琢されており、しかもまこと妖艶である。ヨハネ「福音書」から我に返った方々の顔がうっすらと上気するのも、無理はない。

ただ一方において、この種の読者側のほろ「酔い」については、例えばアルコールに反応する要因が飲酒者側にあらかじめ備わっていてこそはじめて成立するのと同じように、読み手側の思惟の形式や運動自体の性向に、ヨハネ「福音書」の叙述形式あるいは様式等に過敏に反応する要素が事前に上書きされていたことによるものである、ということだってあるのだ。

ここで言う「要素」とは、革命をまったく体験せずして手に入れてしまった他律的で事大主義的なこのNIPPON国の文明開化(近代化)のことである。さらに言えば、その後この島国に生まれ落ちた人間たち固有の世界分節構造に刻まれることになる深刻な遺伝性傷痕=形而上学的思惟のエピゴーネン→洋魂洋才に腐食した優柔不断な和魂のことである。キリスト教憲法「使徒信条」をいまだ手離せないでいるのは、そのアポステリオリな指導者・先導者の遺伝子が呼び起こす何とはなしの疑似的なギリシア・ローマへの郷愁あるいは憧憬作用のためであろうと思われる。

いますこし大和言葉にプライドをお持ちになりさえすれば、たとえ翻訳ではあっても、皆様方もきっとヨハネ「福音書」の日本語(思惟の言語形式)をすこしは警戒されるか、やがては敬遠するようにもなられるであろうことを、わたしは疑わない。ただ如何せん時の流れが速すぎて、大多数の日本のキリスト者の頬は、時代が確実にカトリシズムに味方しているというこの期に及んでもなお上気したままである。もしやわたしたちはいま、プロテスタンティズムの歴史的断末魔の実際を目の当たりにしているのではなかろうか。

乱暴に申し上げると、ヨハネ「福音書」は西欧形而上学の化身である。

その関心は、「推理証明に没頭する理屈屋イエス」を、さもありなむ、と思わせるべくいかに華麗に描ききるかにあった。ヨハネ「福音書」に登場するイエスの「多弁」は病的ですらあるが、それがまたえもいわれぬ魅力となって読み手の心を優しくしかし確実に捕縛するのであろう。その筆記者の意図にはまるから、思わず上気してしまうのであろう。その意味で筆記者は、ただものではなかったはずだ。これは、わたしの直観である。

さて、ヘブライの民とその子孫の語り(パロール)の特質は何であったのか。

一言で申し上げれば、切なくなるほどの「朴訥(ぼくとつ)さ」と退屈極まりなき「説明の反復」である。タルムードの遺産がなぜ膨大な量になったのかを一度お考えいただきたい。それはヘブライの民と人間イエスを含む子孫たちが、「推理(証明)」にではなく、いわば「因数分解」をこそ生活の必要にしていたからである。因数分解する「式(十戒)」それ自体の有無善悪を証明する必要など、彼らにはそもそもなかったのである(出エジプト記 3.13-14)。そのような仕草を産出して止まぬ原-世界像を故有賀鉄太郎氏は、伝統的な西洋都市哲学の思惟の中の存在論「オントロギア」と明確に区別して、アクチュアルでダイナミックな即自的あるいは自己経験的さらには再帰的とでも言うべき荒野の存在観「ハヤトロギア」と命名されたのである。この命名だけで世界史的な意義がある、とわたしはハイデガーをはじめ現象学全体の系譜との絡みで感じているが、日本のプロテスタンティズムにおいてはなかば禁書に近い扱いとなっているのはまことに残念である。(次の記事などを参照されたい。「途切れた系譜(ハヤトロギア)」)

冒頭いきなり歯が抜け落ちたかのような不器用さで「杣道(そまみち)」に触れたのは、そのようなヘブライの民とその子孫の「朴訥さ」の付着した記録断片をあらためて「杣道」としてハイライトする必要があるのではないか、と感じてきたからである。人間イエス「の」信仰の存在論的機序自体に語らせるが如き現象学的聖書解釈は、ほとんど手つかずのままである。キリスト教憲法であり西欧形而上学の最高傑作でもある「使徒信条」にかまけて、いわゆる「杣道」にキリスト者がまったくの無頓着であってはならない、とわたしは同じキリスト者として少しも恥じることなく強く感じてきた。

その筆頭に、およそすべての端切れが慎(つつ)ましやかに、またどこかしらメルヘンっぽくも「過越祭」に向け淡々と縫い合わされたマルコ「福音書」を挙げたい。人間イエス「の」信仰の存在論的原-機序を復元する可能性の最も高い記録と思われる。パウロ書簡などの比ではない。

マルコ「福音書」記者のコイネー(言語統制のために強いられた規範的)ギリシア語が上手であったかなかったか、そんなことはどうだっていいのだ。

エルサレム神殿陥落(70年)直前の終末期の成立であったこと。原始教団の教書的性格がまだ素朴かつ微弱であったこと。したがって記者にヘブライ民族への郷愁がじゅうぶん残っており、まさに異色のユダヤ教分派ナザレ派のかしら人間イエスに行き当たるにふさわしい「杣道(そまみち)」の宝庫である可能性が最も高いこと。さらに第一弟子ペトロを介した叙述が疑いなく存在していることなど。その後の教会権力や国家権力による(おそらくは幾度にもわたる)改竄(かいざん)の大方をうまくくぐり抜け、比較的多くイエスの生と信仰の機序を伝承しえている書であること。以上のことが、わたしのなかでマルコ「福音書」の魅力を深め、またその価値をも高め続けて止むことがなくさせている事情群である。

だからと言って、マルコ「福音書」を導入に使った牧師説教を素晴らしいと思ったことは、一度もない。途中で旧約聖書を引照し、少し寄り道しては、いつも通りパウロに回帰し、そうして信徒にオルターナティヴを迫るパターン化された進化のない円環の完全に閉じた説教がただただ面白くなく退屈で、わずか30分ほどの説教にも耐えられず、「週報」の余白を利用して牧師の説教を英語やドイツ語や韓国語にやたらめったら訳してみては時間を潰していたことを懐かしく思い出す。いい歳をして無礼な仕草ではあったかな、と思わないわけではないのだが、正直言って、悔いてはまったくいない。

お気づきだろうか。。。すでに話は牧師説教批判に入っていますぞ、目を覚まして!(笑)

なぜ日本の牧師説教の大半(すべてではない)は、つまらないのであろうか。

こんな簡単な問題はない。正解はたとえばこんなタイプの牧師である。
世界最高峰(現時点)の聖書の校訂本がありながらにして、毎回の礼拝で使用する僅かな聖書箇所にも自分の訳を提示することを誠意をもっていっこうにせず、他人の訳に頼りっきりの不勉強な怠慢牧師。
聖書の註解書や牧師説教用のマニュアルを先に見て、あるいは参照しながら説教を組み立て、仕上げに適当にヘブライ語やギリシア語の単語をひとふりふたふりほどふりかけては威厳を偽装する詐欺まがいのパソコンソフト大好き牧師。
以上二点をさらに換言すると、牧師の説教はいわば公教育の学校の先生の授業に似ていると言える。すべてがすべてだとは言わないが、基本的には文科省が定めた「指導要領」から大きく逸脱することがないため、どれもこれも能面のように教授案が類化され面白くなくなるのだ。この場合の「指導要領」とは、すべての聖書註解書の基となる「使徒信条」であることは言うまでもないであろう。

要は、自分のことばで自分を語ることができなくなった人たち、あるいはそのように強要されたか教育されてしまった人たち、キリスト者相手に愛を説き救いを説きはするが、福音宣教を半ば強要し献金総額の増減に神経質になっている人たち、それがすくなくとも二十一世紀の牧師群像である。

大学受験の予備校産業をご覧になられるがよい。

駿台予備校、河合塾、代々木ゼミナール、東進ハイスクールと言えば、皆様方も名前くらいどこかでお聞きになられたことがおありであろう。いずれも全国規模の大手予備校である。

そこには一風変わった講師陣が、全国各所からヘッドハントされてくる。いわばスター講師、看板講師と言われる人たちであるが、ほとんど海千山千である。公務員あがりの教師に勤まる世界ではとてもない。それを知らずに一攫千金を狙って公務を退職し転職される純な方々もおられるが、そのほとんどが一カ月もたない。世間が考えているほど、戦場というのは甘くはない。ハッキリ言って負けるか勝つかの一発勝負の世界である。負けたら翌日から乞食(こつじき)、勝てば翌日には億ション契約書にサイン。博打の世界とほとんど変わりない。

いわゆる伝道師にも、そういった資質や覚悟が求められる。

逐一誰とは言わないが、そうでないと食ってはいけないのである。

日本のキリスト教界は、北米プロテスタンティズム最後の市場になりつつある。はやく気がついて、無駄な献金はしないのが賢明だ。

世界をアッと驚かせたかったら、「使徒信条」を放棄することだ。高らかに宣言することだ。

それは人間イエスを理解しようとする意志を強く抱くことを意味する。そこに至る「杣道(そまみち)」をこそ聖書に見出す持続する精神を尊ぶことを意味する。

You can do it!!

ただし「不可能ではない」その地平を開示するためには、みずからの関心を次の二つの条件の緊縛に委ねなければならない。ドグマチックな牧師の弱点と限界のおよそが、そこにある。
  1. 前(非)人称性への関心を維持し続けること。
  2. 解釈学的循環状態に心身を委ねるコツを覚えること
2は1に至るための、潜伏的かつ顕在的な「動力」として働く。

今回は1について少々。。。2に興味のある方は、本家を訪ねていただきたい(→ハイデガー『存在と時間』31節~33節などと格闘すべし、解説本は参照しない方がよい)。

さて「前(非)人称性」であるが、これは言うところの「概念」ではない。なにがしかの様態とその在り処を指示する、いわば「記号」である。したがって、論理学の措定機能(同一律、矛盾律、排中律など)一切とは、無縁である。

そもそものトゥリガー(引きがね)は、フッサールの『デカルト的省察』であった。「間主観(性)」という用語がそうである。心の病が社会事象となるや、猫も杓子も誤用した時代が日本にもあったことから、聞き覚えのある方々もおられよう。

「わたし」と「あなた」で考えてみよう。
「わたし」は「あなた」ではない。「あなた」も「わたし」ではない。「あなた」から見ると、「わたし」はいつまでも「あなた」という名の「わたし」だし、「わたし」から見ても、「あなた」はいつまでも「あなた」である。したがって、「あなた」が「わたし」になることもなければ、「わたし」が「あなた」になることもない。
伝統的な形式論理学(形而上学)的推理の、これが一般的な着地点である。実際、そのように絶縁してしまうことも多々ある。

しかしもう一方の実際においては絶縁していない場合がある、ということをもわたしたちは知っている。その真偽はさておき、「あなた」に涙する「わたし」がいるし、「わたし」に笑みを返す「あなた」もいよう。

なぜなのか。。。がそもそもの議論の発端である。

「わたし」と「あなた」を二次平面で眺める限り、どちらも個体生命のヴァリアント(異形態)の域を出ることはない。

しかしながら三次底面(あるいは四次最奥所)から見ると、それぞれの個体生命の生成と消滅とが統合維持されるその等価性に担保されながら、それぞれがそれぞれにヴァリアントたりえているにすぎない、ということが分かってくる。

この「等価性」が、「前(非)人称性」という「記号」が指し示す様態であり在り処である、と大雑把に申し上げておく。ただわたし自身は、「等価性」であれ「前(非)人称性」であれ、さらにそのヴァリアントを直観する者である。

すこし実例に突入してみることにしよう。

たとえば「イエスの生い立ち」に至る「杣道(そまみち)」があるかどうか。。。

マタイ1章?それともルカ1章?いやいや、それらは牧師先生方の伝家の宝刀。

へそ曲がりのACAC遊撃隊員「十字架の現象学」著者An(長~~イっ!)は、マルコ「福音書」9章10章の「子供(たち)」に体当たりーーー!

この9章(36節以下)10章(13節以下)に記述された「子供(たち)」に関する牧師説教を読めば、二次平面(形而上学)をただ彷徨することだけしかできないでいるみずからを、アプリオリなキリスト論によって懸命に弁護しようとしているのが、じつによく分かる。

テキスト解釈以前に刷り込まれた項目は、おそらく次のようなものであろう。いわば「虎の巻」である。
神の国入場資格を満たす「子供(たち)」
この措定によって、必然、「子供(たち)」を非難した弟子たちは、アンチノミーに取り込まれることになる。

その後は定石通り、このアンチノミーに聴衆である信徒を巻き込み、変動する教会情勢を鑑みつつ、ときに激しくそして時にさ-ありげなく二者択一を迫る。

。。。とまあ、こんな感じでござるなぁ。。。

「虎の巻」どころか、これでは「虎の威を借りる狐」じゃねぇ。

そもそもイエスの言動を思惟の二次平面に変換するのは、ヘレニズムにしてなせるわざである。言動という「生命の現実(Lebenswirklichkeit)」は、その意味からすればヘブライズム(上述したハヤトロギー)の圏内にある。

沈黙も含めて「言動」とは、なにがしかの時間の先端(最も遅れた部位)にそのつど現出するもので、あくまでも「出口」なのである。「出口」には「入口」がなければならない。しかしその「入口」は、三次四次底面(最奥所)からしか現象しないものである。見えるものもあれば、見えないものもある。

したがってその現象の全過程において、時間は不可逆でもあれば可逆的にもなり、その時間の奇怪なダイナミズムに晒されながら、さらに体験を核とする多様なバイパスが幾重にも脈打ちながら重層構造を成してもいるのである。

わたしたちの知識や思惟や知恵などは、「出口」付近に遅ればせながら張られた葦簀(よしず)にすぎない。

しかしなぜイエスは、「子供(たち)」を引き寄せたのであろうか?

「引き寄せる」ためには、それ以外のもの(者)を「遠ざけ」なければならない(ハイデガーの空間論)。使徒であり群衆がそうであった。

しかしこれほどの多勢をイエスから遠ざけた「子供(たち)」とは、いったい何者なのか?そのなかのどの子供を、イエスは抱きかかえたのであろうか?

前(非)人称性にヴァリアントを設ければ、この場面でイエスが使用したとおぼしき「子供(たち)」という語は、暗黙の了解を含む固有名詞に限りなく近いものであった、と思われる。

孤児もいたであろうし、やもめの子もいたであろう。そして不本意であったろう混血児も。。。

ここでイエスの内的時間が、マタイ1章の出来事へのバイパスをすでに逆進していたのではないか、という問いが俄かに浮上してくる。

ヨセフとの婚前交渉がなかったマリアの受胎確率は、あくまでも等分である。

それが受胎した。聖霊と受胎することなどありえない以上、まさに事故事件に匹敵する出来事である。当時の国家体制の特性を考量すれば、三面記事もどきの嫌いはあるが、異邦人の血との受胎説を否定するのは難しい、とわたしは感じる。

この出来事の手打ちは、「霊夢」とそこで語られた「イザヤ書」の一節に委ねられた。ユダヤ人信仰集団のコンセンサスとして、当然の処理ではある。が実際は、筆舌しがたいほどの議論と齟齬と困難と試練があったであろうと思われる。「霊夢」を見た父親ヨセフがその後一度も登場しないのは、まさにそのことの沈黙の証しであろう。

体験を核とする以上のようなバイパス内でのイエスの激しい内的時間の往復運動は、ヴァリアント(異形態)としての「前(非)人称性」の地層をあぶり出すばかりか、その地層のアドミッションを経て、他者との相互洞察をみごと和声として合成する根源的な条件にもなっている。

イエスのこのようないわば「前(非)人称性」に関する立体的な存在論的機序は、マルコ「福音書」のここかしこに冒頭述べた「杣道(そまみち)」としてなかば覆われながら秘められている。たとえば、マルコ7章に登場するシリア・フェニキア生まれの異邦人女性との間などにも同じように認められる。もちろんそれ以外に、いくらでもある。「使徒信条」が見えなくしてしまっただけである。

話題を受胎確率の等分性に戻し、ヴァリアントのさらなる底面(最奥所)、「根源的前(非)人称性」というものに少し触れて終わりたい。

結論から申し上げると、この等分性を粉砕する出来事がイエスを襲わなかったなら、イエスはただのごろつきの一人であったろう。

精神病理学者であり臨床医でもあったルートヴィッヒ・ビンスヴァンガー(1881-1966)は、次のような言説を残している。
われわれが熱情的に帰依し、または期待していたとき、突然この期待していたものにあざむかれて、世界がいちどに「別様」になり、完全に拠り所を失うことによって、この世界における支えがなくなったとき、われわれはのちに、再び獲得した堅固な足場から、当時を回想して「あのとき、稲妻に打たれて天から落下したようだった」という。(「夢と実存」1930年 荻野恒一訳、『現象学的人間学』所収論文・みすず書房)
突然性とは、連続性を引き裂き、寸断しあるいは分割し、これまでの生存をその軌道からそらせて、怖ろしいもの、あらわな恐怖のまえにすえるものの時間的性格だ(上掲書所収論文「精神医学における現存在分析的研究方向」1946年 宮本忠雄訳)
このような出来事に類似した体験を核とするバイパスがなければ、イエスは母マリアの受胎を呪い続けたことであろう。三十年近く、みずからの「生い立ち」と格闘しながら、父母を捨て兄弟を捨てて、不穏な時代の荒野をさまよったイエスの姿を想像されてみられるがよい。

そうしてヨルダン川でのイエスの洗礼が、そのような事の顛末を総括する一等象徴的な記述であったという新たな星座布置的とでも呼ぶべき解釈の芽が出てくるのである。順調に育つが育たないか、それは不問に付し続けるべきである。解釈の円環を閉じるわけにはいかないからである。

生成と消滅とが織りなす、その絶えざる「今」の排出孔が見えるとき。それは、顧みられることなどほとんどない「わたし」の、そして「あなた」の「今」が砕け散るときである。そしてそのときしかない。

その予想だにつかない「今」の破砕とともに、「根源的前(非)人称性」の大地が顕れ、「あなた」と「わたし」を軽々と持ち上げるのである。それが「わたしたち」に、A power greater than us というものを戦慄のさなかに覚知させてもしまうのである。その直後に変化する内外の世界体験を通して展開する新たな意味のまるでそれ自体自生しているかのような展開を、信仰者たちは事後的に「啓示」と呼んでいるだけなのである

イエスは、その「生命の現実(Lebenswirklichkeit)」を確実に通り抜けた(go through)人である。

「子供(たち)」を引き寄せ、そして抱いたイエスは、すでに他者を二重に超越している。だからこそ婦人たちを除き使徒はじめ群衆たちは、その圧倒的なイエスの信仰の気配と仕草に、いつも思わずたじろいでしまうのである。それを諌(いさ)めれば諌めるほど、イエスの孤独は深まったのである。

わたしが信じているのは、荒野に咲いたそのようなイエス「の」信仰である。旧約聖書とともにマルコ「福音書」は、教会に籠城し、小窓からこっそりと時勢を窺っては右往左往、二転三転してなお恥じることを覚えない現代の奇々怪々なキリスト教とはまったく異なるものである。

信仰の「杣道(そまみち)」を見逃すと、能面キリスト者になりますよ。お大事にね。

(以上は、2011年11月11日投稿記事「イエスの生い立ち」の改訂版です)

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