2014/01/16

ニーチェ箴言散策集・私家版 (16)

[キリスト教] ブログ村キーワード
ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)

★今回第16回から、愛読者様ならびに著者の負担を軽減するため、一節ずつの散策となります。引き続きご愛読頂きますように。
135節をどうぞ。。。アーカイブはカテゴリーからどうぞ。⇒⇒⇒

原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

)))135節(((
Der Pharisäismus ist nicht eine Entartung am guten Menschen: ein gutes Stück davon ist vielmehr die Bedingung von allem Gut-sein.
パリサイ主義は善良な人間の堕落ではない。それの立派な端くれが却っておよそ善であるということの条件である。 
++++++++++

「パリサイ主義」は、「パリサイ人」という表現を介し『新約聖書』のここかしこに登場します。あるときは論争的に、またある時は回心的にも。

『旧約聖書(モーセ五書)』をより厳格に遵守し、また唯一神ヤハウェのみを信奉するユダヤ教徒を主に指しています。萌芽を探せば前四世紀頃とは言われていますが、ユダヤ民族の国家形成にも寄与していながら、その後、同族ながら圧倒的多数を誇る貴族集団サドカイ派の猛烈な弾圧を受け、巨大な新興ローマにも屈して、ついには亡国の民となります。(小塩力『聖書入門』1955年初版本参考)

戦争もよくしましたが、いわれなく虐げられ極貧にも喘(あえ)いできたユダヤの民が、「モーセ」や「ダビデ王」のようなメサイア=キリスト(救世主)を希求していたとしても、なんら不思議なことではありません(ユダヤ教やイスラム教では、イエスをメサイアとは考えずむしろ預言者と考えるのが一般的)。

イエス時代にしてすでに宗派は二十数派を越えていました(注)。そのような複雑極まりない宗派の軋轢(あつれき)とその狭間で呻吟する人々の思いを歴史体験として実感するのは、何期にもわたる大陸からの渡来人の圧倒的な影響の下、穏やかで繊細な定住農耕文化を開花させたこの島国の時の先端に生きるわたしたちにとっては、かなりな困難があるのもまた事実です。
(注)当ブログ記事「イエス時代前後の宗派状況概観」(2012/11/19)をご覧いただきたい。
そこでいささか強引ではありますが、たとえば皆さんよくご存知の毛沢東や金日成やチェ・ゲバラ、あるいは絨毯爆撃に竹槍で応戦したベトナム戦争初期の人民たちのありさまなど、つまりはアジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国を包括する決して豊かではない第三世界において、反帝反封建の旗印の下に命を賭したマイノリティな彼ら/彼女たちの、まさに手づからの壮絶な解放運動などを参考にしますと、その後の初期キリスト教徒たちの布教伝道教化活動にどれほどの苦難と試練が強いられていたか。。。少しは思いを馳せることもできるのではないでしょうか。

世界で最も平和で安全な国のひとつNIPPON!、といったどこかしらけだるい認識空間に長居しますと、世界の現実と精神が乖離していることに気づかず世界平和を祈ったりしている自分にハッと驚くことがあります。皆様方はいかがでしょう。

さて。。。

ニーチェが『旧約聖書』に好意的であったことは、わたしのこの「箴言散策集」164節の(注)でも触れています。

もちろんそれは、ニーチェの信仰からではなく、「見えざる神」の描写からも「民」からも、生命の強くも激しい息吹をニーチェ自身がそこに感じていたことによるものです。

『新約聖書』ではなかなかうかがえない、神のさまざまな強い気配(アウラ=予兆)。そして貧しくとも力強くはあった民の「意志」とともに織り成す壮大でアクチュアルな幸と不幸の連続劇。そのようなダイナミズムこそ、『旧約聖書』の秀でた特性でしょう。

そのあたりを踏まえながら上掲の箴言を約(つづ)めてみますと、「パリサイ主義(を意志し実行する者)は、善であることの条件である」となるのではないでしょうか。

「善であることの条件である」とは、「善そのものとは言えないが、(少なくとも)その条件のひとつには挙げなくてはいけない」ということでしょう。この理解に基づきますと、どうも律法を厳しく遵守しながらも、唯一神ヤハウェの「意志」に自らの「意志」を直接引き当て自己を厳しく律したパリサイ人の仕草に、「力の意志」の片鱗を見い出していた可能性が濃厚です。

『旧約聖書』と『新約聖書』との間を、じつはかなりの世紀が隔てています。「罪」という言葉が、「原罪」という釈義に吸引される文脈の度合いを見比べてみますと、『新約聖書』のほうが圧倒的にまさっています。しかもイエス・キリストの磔刑(十字架刑)と、神の子としての「復活」によって、「見えざる神」がさらに「見え難き神」となっているようにも感じられるのは、ユダヤ教徒たちが批判せずとももはや否めないのではないでしょうか。不信人ナ者ニナニガ分カルノカ?と言われればそれまでなのですが。。。

冒頭で紹介させて頂きました小塩力牧師は、そのあたりの問題について次のように述べられています。

『仏教が無神をいい、ユダヤ教が「メシア」を歴史のなかで期待しないのも、ある意味で当然である。しかしこの仲保者なしのままでは、つまり救い主を待望するのに無限の緊張を要求されるだけでは、人間と世界は滅びのほかなく、神はその全能と愛とを遂行しえないというべきである。ここに、不思議であって不思議でなく、あるべからずしてある、歴史内人格存在イエス・キリストが、限りなく重大となる。』(上掲書第四章第二節)

基督教がトレンドでもあった旧い社会・時代に書かれた書物ではあります。

わたし自身には、人間思惟・認識の自縄自縛に喘いでおられる叙述のような気がします。しかし信仰とはこういうものなのでしょう。分からないわけではありません。

もしこの小塩先生のお言葉が真実であれば、牧師の自我はイエスによって無化されているはずです。したがってこのお言葉は、牧師の言葉を介したイエスの(御)言葉ということにもなります。

しかし幾分頑固なわたしは、わたしを含む人間の不完全さを、「死」やある種の「病」さらには不慮の「事故・事件・災害」などによってでなければ到底無化しえないであろう、そういった類(たぐい)の自我のそもそもの分裂に見ています。「自我分裂」とは「超越」のことでもあります。「超越」を成立させている最大の根拠は、内的であれ外的であれ「時間(性)」なのです。わたしたちは刻一刻、その「ワタシノ時間」から逃亡し続けずには生命を維持できない、そういったとても不自由な生き物なのです。普段なかなか気がつきませんが。。。

人はなぜ躓(つまづ)くのでしょうか。

教会に足を運べば、「罪」だあああ!と必ず言われます。しかも夥しい数の教団・教派によって(聖書解釈を含め)微妙に説明が違っていたりもします。

わたし自身現段階では、次のように概略考えています。

つまり「神」に背をむけていること(原罪)に愚かにも気づいていないから、ここかしこで躓(つまづ)くのではない、ということです。

そうではなく、分裂した自我に追いついたり追いつかなかったり、あるいはそうとは知らずに追い越してしまったり、またあるときには、自我とは全く異なる方域を彷徨しはじめたりもする意識や認識や言葉の織りなす摩訶不思議な「一人芝居」(観客がいない!)の全幕を、わたしたちの情動が「最初で最後の審判者」となって凝視し続けており、そのつどの仕草の無軌道を黒く塗り潰してはひとりあざ笑っている、その声を仄かに聞いたときわたしたちは「躓いた・観念した」と感じるわけです。この一連の存在論的な機序こそ、情動をもつ人間のはかなくもせつない自我分裂の肖像なのです。しかし同時に、愛(いと)しむべき存在の根拠でもあるのです。

その情動の悪戯(いたずら)な彩色に、結果としてニーチェは耐え抜いたということなのでしょう。だから、真理をあえて「女」と仮定することができたのでしょう。普通ならばこのような情動の悪戯には耐えられないはずです。当然「助け(救済)」をどこかに求めます。その瞬間に、本来の真理の価値が転倒してしまっている巧妙な人間存在のトリックを、ニーチェの鋭い眼光は見逃しませんでした。そこにこそ、当箴言の価値があるのではないでしょうか。

最後に、ニーチェならではの「祈り」を添えておきます。徹底して人間中心であることがお分かり頂けるはずです。教会に通われておられる方々なら、一度「主の祈り」と比較されてみてはいかがでしょう。世界は広いのですよ、ほんとに。。。(笑)

「折々は私にもお許しあれ――善悪の彼岸にお恵み深き女神あらば――一瞥を!なお多少でも恐れるに足る完全なもの、完成されたもの、幸福なもの、強力なもの、勝ち誇ったものへのせめて一瞥を!人間のために弁じてくれる一個の人間への一瞥を!人間を補全し救済して、人間に対する信仰を確保してくれるような幸福への一瞥を!」(『道徳の系譜』第一論文十二節)

(2008年06月14日 記)
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