2012/12/24

パウロ聖使徒の背理法・回心者の間接証明 (2)

聖パウロ回心者使徒の背理法功罪
ギリシア語聖書(UBS)
手沢本ドイツ語聖書
前回、聖使徒回心者パウロが「在ローマ属国ユダヤ人二世」であった、という既知事項をこと新たに強調させていただいた。

それは、パウロの「居心地の悪さとしての根源的な被投的世界内存在(das ursprüngliche geworfene In-der-Welt-sein als Un-zuhause)」性(注)とでも言うべき深刻極まりなき二重拘束的状況あるいは体験が、四方を海に守られてきたわたしたちの歴史体験には存在しないからである。極言すれば、残酷な「村八分」をたえず同期的に抱え込むことで演出されてきた(そして今なおされている)このNIPPON国の摩訶不思議な村共同体の「和」の狡知を隠蔽して語られるパウロなど、パウロであるはずがない、と強く感じているからでもある。
(注)『存在と時間』第五十七節 渡辺二郎訳
そこで今回は、紀元55年以後に記されたのであろう「コリントの信徒への手紙 第1」第15章をハイライトし、絢爛(けんらん)かつ大仰(おおぎょう)な礼拝説教とは異なる次元において、パウロの信仰機序の一端を粛々と追跡しながら、わたしなりの若干の評価を加えてみたいと思う。なお、聖書をお読みになったことがない方々を配慮し、引用はすべて「新共同訳」版で統一することにした。(注)
(注)ギリシア語底本ではどうなっているのか確かめたいが、とてもとても。。。と諦めておられる方々には、底本に最も忠実な逐語英訳聖書をお薦めしたい。わたし自身は専ら、ロバート・ヤング(1822-1888)の'Young's Literal Translation'(YLT)を使用している。「新共同訳」とのあまりの違いに、きっと驚かれることであろう。ロバート・ヤングがいかなる人物であったか、またその徹底した逐語訳の意図・概要については、Bible Researchを参照していただきたい。

1──────────
║第十五章の起点
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当書簡第15章は、コリント教会に集う会衆の想起を促すパウロの「呼びかけ」からはじまる。コリント滞在時(紀元51年~52年頃)の教説においてはもちろん、他の手紙(注)を通しても、「最も大切なこととして」告げ知らせていたのであろう「福音」の項目と当時の会衆の反応までが、時系列に従って簡略に列挙されている。
(注)同書簡第5章9節「わたしは以前手紙で、・・・」。
その冒頭第一文を引用し、列挙された「福音」の基本項目と会衆の反応までを、可能な限りパウロの解釈を脱色し項目化すると、次のようになる。(1節~11節)。
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。
  1.  (キリストが、)・・・「死んだこと」
  2. ・・・「葬られたこと」
  3. ・・・「三日目に復活したこと」
  4. ・・・「現れたこと」
  5. (わたしにしても彼らにしても、)「このように宣べ伝えている」
  6. (あなたがたは)「このように信じた」
項目4については、次のように敷衍(ふえん)されている。
ケファ(注)に現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生れたようなわたしにも現れました。(5節~8節)
(注)イエスの直弟子の一人シモン・ペトロを指す。「ヨハネによる福音書」第1章40節以下参照。
なお項目の3と4は、その事実如何に関わらず、パウロ並びに会衆たちの想起対象として見る限りは、一対のものである。以下合わせて「復活顕現」、と呼称することにする。


さて、上記項目の1と2について異論をとなえる方々は、ほとんどおられないであろう。項目5もそうであろう。項目6についてであるが、信じた人が「いた」ことそれ自体を根底から疑うのは、キリスト教内外の受難史あるいはその幾多の犠牲者・殉教者を顧みずとも、やはり困難であろうと思われる。

すると、残るは項目3と4。つまりは、「復活顕現」だけとなる。

果てしない議論は、今も続いている。米国が最も盛んである。次いでフランスが挙げられようか。

「復活は歴史的事実だ」と一方が語り出すや、「いや、復活は歴史的事実ではない」ともう一方は応戦する。やがて双方とも議論に疲れ果て、最後通告の如く、「信仰は理屈ではない!」、と言い捨てたかと思うと、もう一方も負けじと、「キリスト教は邪教だ!」、と雄叫びその場を去る。そして翌日出会うと、またまた戦闘開始。

わたし自身は、信仰者であることを自覚してはいるが、どちらのお立場にも与(くみ)してこなかった。なぜならわたしは、お二方どちらの御目にも、巨大な「丸太」、すなわち西欧形而上学的思惟の執拗な呪縛と同時に、そのはかないほどの脆(もろ)さをも感じているからである。

もちろん、そう感じているわたしもその包囲の中にいる。

パウロのこの書簡第15章冒頭部分、「復活顕現」の伝承・証言をはじめて読まれる方々、あるいは何度も読みながらにして、どこかで首をかしげているご自分をひそかに感じておられる方々には、「復活顕現」の項目3と4に立ち止まり拘泥されることなく、ひとまずは棚上げにしたままで、第15章を読みきられることをお薦めしたい。


2─────────────
║第十五章の論争開始
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さて直後パウロは、自らの目の中に、捨てたはずの「丸太」(注1)を装着しなおし、やおら論争を仕掛ける。新共同訳『聖書』では翻訳委員会による「小見出し」が示されているが、「死者の復活」、と印字されている箇所がそれである。エルサレムを中心とするその周辺域において、ユダヤ教徒あるいはイエスをキリスト(救い主)ととらえながらもユダヤ教の戒律(注2)を固持したユダヤ・キリスト教徒たちを対象とし宣教していた、特にイエスの直弟子ペトロの教説(注3)との力点の違いが、とてもよく分かる部分でもある。
(注1)「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(「フィリピの信徒への手紙」3章8節)
(注2)『旧約聖書』中、「モーセ五書」(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)に示された禁止的な道徳律や法規等。『新約聖書』に登場する「律法(主義者)」とは、主として以上で示された規範、およびそれらを頑なに遵守する者・集団を指す。ユダヤ教徒の立場からは、「トーラ」、と呼ぶのが適切である。なお、イエス時代の宗派状況は、「新約聖書」で記録されているよりもはるかに複雑である。当ブログ「イエス時代前後の宗派状況概観」(2012/11/19)を参照されたい。右サイドバー「一発検索」を利用していただくと、この記事を離れることなく、ブログ先頭部に参照タイトルリンク等が表示される。
(注3)「使徒言行録」2章14節以下、3章12節以下、10章34節以下等。なお、パウロ書簡に押されて後方に収録されたイエスの第一番弟子ペトロの信仰については、「"Stromata(ストロマタ)"にみるペトロ聖使徒の信仰」(2012/11/10)をご覧いただきたい。こちらも「一発検索」を利用される方が便利である。
パウロは、次のように問いかける。
キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。(12節)
「あなたがたの中のある者」のなかに、わたしたちもそっと同席してみることにしてみたい。

「死者の復活などない(死者は復活しない)」という主張に対しパウロは、圧倒的多数であったとおぼしき「ある者」たちのバックボーンにあるパラダイム(認識の枠組み)のただなかに、たった一人で敢然と突入しているのが分かる。

その部分を取り出してみたい(13節~15節)。
  • 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった
  • キリストが復活しなかったのなら・・・(わたしたちの)宣教は無駄
  • キリストが復活しなかったのなら・・・(あなたがたの)信仰も無駄
  • キリストが復活しなかったのなら・・・わたしたちは神の偽証人(*死罪にあたる)

次いでパウロは、同様の内容を反復し、第15章「死者の復活」の前半部を、次の一文で閉じている。
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。(19節)

3──────────────────
║パウロ論法炸裂!その光と影
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お気づきになった方々もおられるであろうが、以上の時点でパウロは、明かに古代ギリシア由来の「間接証明(背理法)」の思惟の衣の片袖に、その腕を通しているのが分かる。

ローマ帝国の属国に育ったディアスポラの子パウロならではの奇襲戦法、と言ってもおかしくはない。ただしかし「背理法(間接証明)」自体、この段階ではまだ完結していない。パウロは、コリント教会の内外に相当数いたであろう論敵を、身を切らせるが如くひきつけるだけひきつけようとしたのであろう。

さて問題の「間接証明」であるが。。。

それと意識することがなかったとしても、わたしたちの日々の言語生活を確実に呪縛している思惟の形式でもある。パウロが使用した「間接証明」の一部は、主に、「すべてのSはPではない」(全称否定判断)という論敵の「命題」全体を、「偽」なるものとして転覆させるための前提であることを疑うことはできない。

簡単に申し上げると、
すべてのSはPではない(死者は復活しない)
という主張全体を仮に「真」なるものとして、そこから導かれた結果に「矛盾」が派生する場合、「すべてのSはPではない」という要素命題自体が「偽」と判定される、というものである。

西欧形而上学(形式論理学)の体系の一枝として自覚されるためには、やはりアリストテレス(紀元前4世紀)を待たなければならなかったが、思惟の原初的な形式としては、紀元前6世紀のパルメニデスにまで遡るとも考証されている(注)
(注)山川偉也『古代ギリシアの思想』(講談社学術文庫 初版1993年)参照。本書は、『哲学と科学の源流――ギリシア思想家群像』(世界思想社 1987年)を文庫化したものであるが、著者の問題意識が鮮明で、きわめて濃密詳細な内容となっている。ところどころに挿入されている著者の紀行的断章に、著者の為人(ひととなり)が窺える。なお、霊魂不滅と輪廻転生を教義としたピュタゴラス教団にも1章があてられている。
パウロの証明はまだ進行中である。論敵は、不敵な笑いを失ってはいない。むしろせせら笑っている者こそ多くいたことであろう。さあ、「死者の復活」の後半部。パウロ危うし!
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(20節~22節)
心中のほどはいざ知らず、この第一文目でパウロの「間接証明」は完結する。

ここまでの論理構成を、現代論理学の演算式(論理式)で示してみよう。

すこし変則ではあるが、
(~P⊃~Q, Q├~~P)
となる。そう、これだけである。

(~)は否定、(~~)は二重否定。(⊃)は「もし・・・ならば(If・・・,then)」、(├)は「ゆえに」、(Q)は「復活顕現」を中心としパウロが会衆に想起させようとして列挙した項目すべてを含む。

つまり、要素命題(~P)から導出された(~Q)が、「しかし、実際」の(Q)とは全く異なっているため、そもそも(~P「死者は復活しない」)という要素命題自体成立しないものなのだ、というのがパウロの論法である。

すくなくとも「間接証明」は、仮定された要素命題を支持し主張する人々の言説を、一瞬間、封じこめる効果はある。「ウッ。。。」、という感じであろうか。

第15章を、会衆への「呼びかけ」と「想起の促し」から物静かに叙述しはじめたパウロであったが、コリント教会内外の状況を深く洞察したうえで、以上のような手順を最善のものと自覚し選択したのであろう、と思われる。

ただし、ここまでの弁証だけで、コリントに集う会衆全員を納得させることは困難であったであろう。パウロも、そこまでは意図していなかったと思われる。しかしすくなくとも、雑多な人種、風土、習慣、伝統、倫理、思想、宗教、教派の影響のもとで、四分五裂、離合集散(注)を余儀なくされていたコリント教会の会衆が、この証明によって大きく二手に分断整理されたであろうことは、じゅうぶん考えられる。去る者はこの時点で去り、疑問を抱きながら残るものも、同じこの弁証の時点で残った、と見るのが自然であろう。
(注)ローマ・ギリシア人からの侮蔑と嘲笑、ローマ帝国に徹底抗戦の立場をとったユダヤ教徒からの迫害、さらにはユダヤ・キリスト教のオピニオン・リーダー、アポロの教説からの影響、その他魔術師・祈祷師の撹乱等々、会衆の混乱には想像を絶するものがあったのであろう。詳細については、全11巻からなる上智大学中世思想研究所編訳・監修、ジャン・ダニエルー著『キリスト教史』(平凡社ライブラリー第1巻 初版1996年)を参照していただきたい。

4─────────────────
│信仰者パウロの賭けと孤独
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以上指摘したパウロ論法(背理法・間接証明)の外郭は、明らかに古代ギリシア由来の形而上学(推理証明・思惟の言語形式)に基づくものである。それ自体、「沈黙」に神(力)との合一を歴史的に「体験」してきたヘブライ民族(ユダヤ人)固有のメンタル・ディスポジションに舫(もや)われたものでは、けっしてない。

しかしながら、しかし、である。

問題の核心は、実はそのことの「もうひとつ向こう側」に潜んでいる。

わたしはいま、前項で示した論理式(演算式)に、冒頭述べた「在ローマ属国ユダヤ人二世」パウロ出生の「光源」をあてがっている。

そうすると、パウロの援用した背理法(間接証明)が、純粋な認識空間で操られた推理証明の一種などではなく、その「光源」から絶えず循環的に現象するパウロの、極めてアクチュアルな内的時空間の動性の変様態として、その只中から投擲されたものであったのではないか、という思いが募ってくる。

(~P⊃~Q, Q├~~P)

パウロが援用したこの論理式を、もう一度よくご覧いただきたい。特に、(Q)にご注目頂きたいと思う。

(Q)は、イエスの「復活」を「見た・聞いた・知った・信じた」人々の、いわば「体験(証言)」であり「証人」そのものでもあった。

しかしながら「体験」とは(注)、元来、思惟による「推理証明」の要素にはなりえないものである。西欧形而上学の伝統からは、いわば不純物としてことごとく遺棄されてきたものである。
(注)「経験」という用語の「体験」の意味領域への侵犯を、わたしはひどく危惧してきた。当ブログ内では、フッサールを実験的に反転させた「体験・・・の機序(1)(2)」において、画像を表示しながら詳細に述べている。右サイドバーのブログ内記事「一発検索」をご利用いただきたい。当記事頭部に同時に表示されるはずである。「復活」議論は、フッサールを踏み越えては実を結ばない、というのがわたしの基本的な考えである。
したがって厳密に申し上げれば、パウロの背理法(間接証明)は不完全であった、と言える。

しかしながらパウロともあろう教養人が、その点に気がつかなかったとでも言うのであろうか。

いや、十分すぎるほど解っていたのである。

論理式(演算式)からはみ出ようとする(Q)を、それでもパウロは無理から押し込んだのである。

なぜか?

それは、背理法(間接証明)という思惟の形式に、パウロ固有の「問い」を搭載するためであった、とわたしは考えている。

その「問い」とは何か?

それこそがまさに、「歴史的事実の外延(意味の適用範囲)の修正変更拡大。。。如何?」、であった。

「見た・聞いた・知った・信じた」人々を、その人々が現に存在する限りは、「歴史的事実」のインデックスから除外してはならないのだ、ということ。さらに申し上げれば、「歴史的事実」とは、外的時空間に限られたものではなく、むしろ線状的な外的時空間と垂直的な人間存在の内的時空間との生成の接点、その断崖の危うきそのつどの先端すべてである、というのが、おそらくはパウロの思いであったのではなかろうか、とわたしは感じる。

大きな「賭け」であった。

会衆の三分の一は去り、三分の一は態度保留、そして三分の一は辛うじて賛同。。。ここに信仰者パウロの「孤独」があった。

ルターが絶賛し強く推奨した「ローマの信徒への手紙」全体を貫くガラスのような論理の透明さは、このパウロの「孤独」が演出したものである。その点を見落とすと、「ローマの信徒への手紙」は凶器にもなる。そして事実、そうなったのである。十五万人が犠牲となった「農民戦争(1524-1525)」の背後にも、ルターはいたのである。


さて、コリント第十五章はこのあとアダムとイエスのアナロギア(類推)に移行するが、パウロの難解な弁証を紐解くには、少なくともアリストテレス並びにヘーゲルとの対照が必要である。稿を改めて投稿配信する予定である。

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