2014/03/18

ニーチェ箴言散策集・私家版 (19)

[ニーチェ] ブログ村キーワード
ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


今回138節の読みどころ
「認識の仮象性」を頑として受容しないニーチェおなじみの主題です。
全既刊号はカテゴリーからどうぞ。⇒⇒⇒

原文・翻訳からの引用は「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

)))138節(((
Wir machen es auch im Wachen wie im Traume: wir erfinden und erdichten erst den Menschen, mit dem wir verkehren - und vergessen es sofort.
われわれは目覚めているときにも、夢のうちと同じようなことをする。われわれは、自分たちが交際する人間をまず仮作し、仮構し、――また直ちにそれを忘却する。
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「認識の仮象性」を暴露するニーチェの戦術は、まさに神出鬼没の遊撃戦スタイル。硬軟さまざまに展開されています。そのなかでは比較的理解しやすいほうかもしれません。

箴言の表現上の特徴はご覧のとおり「類推」だけですが、何について何を「類推」するかは、天才の徴表のひとつでもあります。

ここでは「覚醒」時の思惟・思考運動と「夢」のそれとの間において、類推をなかば直観的にニーチェは実行しています。二十一世紀を生きるわたしたち大方の感性からしますと、ソレガドウカシマシタカ?とでも聞き返したくなる程度のもの、と言えなくはありません。

ただしかし、認識行為の起動ファイルのような「意識」自体の構造分析が哲学領野の主題となるために、エドムント・フッサール(1859-1938)を待つ以外なかったことを考量しますと、一部同時期を、しかし無縁に生きたニーチェ(1844-1900)の天才は否定しきれません。

「夢」を丹念に書き留める漱石のような方々もおられるでしょうが、極少数ではないでしょうか(笑)。

ところで。。。

これまで各階各層の識者たちの多くが、「若者の言葉は乱れている」と評価してきました。そして今なお、性懲りもなく大声でまくしたてる大人がいます。

わたしは若い頃、いわゆる言語学畑をのらりくらりと掘り起こしては溜息をついておりましたこともあり、言葉に恫喝・脅迫・威嚇・侮辱・凌辱・先入見・差別性などの色彩が施されていなければ(つまりスティグマがなければ)、少々「乱れていたっていいジャン」と思っています。「言葉」が「乱れ」るのは、言葉が生きているからです。もちろん「言葉」は死ぬこともできますが、その時は必ず権威や権力という排泄物を残します。

そんな愛しくもある「言葉の乱れ」より、むしろ人間存在からの「言葉の遊離」や「言葉の物神化」を巧みに操る大人たちにこそ、多くの憂いをわたしは感じます。

そのいわゆる「後ろ盾」となったのが、客観(世界)から超脱した(と錯覚した)無世界的な「主観」の奇跡、つまりは意識作用に支えられた「認識(行為)」の半自律性です。

箴言にあります「仮作」「仮構」は、まさに人間から中途半端に遊離しているからこその「認識」の奇跡的な技なのです。だからこそいとも簡単に、そして残酷にも、「忘却」することができるわけです。悪い、と思いながらいくらでも悪事を働くことができるのも同じことです。そのつどの時代社会の法が統治抑制しているにすぎません。いわゆる鬱々たるニヒリズムが攻撃的になるのは、そのことが暴露された時なのです。

なん度、わたしたちは聞かされたことでしょう。
皆様方に(あるいは世間様に)迷惑をおかけいたし、大変申し訳ありませんでした。
政治家然り、官僚然り、聖なる公務に携わる役人然り、その部下然り、校長然り、教頭然り、企業の代表者然り、その責任者然り、その部下然り。。。

どうもわたしには、彼らの弁明が、こんなふうに聞こえます。
そのように言え、と命じられましたので、それに従っているだけでございまして、私自身には何の罪もなく、天地神明に誓って、私個人は潔白だと申し上げることができます。私は世間の皆様方と同じ善良な人間の一人でございまして、これまで懸命に真面目に生きてきたのでございます。
日本の宗教的傾向である「神仏習合」や「性善説」にも、いいところはありますが、「罰」を免れるための隠れ蓑にもなりうることを、特に東アジアのそのまた東の果て、四方を海に守られた穏やかでありながらどこかしら陰鬱で窮屈で排他的な島国に生きるわたしたちは、忘れてはならないと思います。

すくなくともキリスト教文化圏の記者会見場でこんな謝罪をしたなら、記者たちのほとんどは迷わず即座に退場してしまうでしょう。

無罪放免を拒否したあのソクラテスは、処刑前に次のように語っています。
富や名誉や名声を積むことにはそんなにあくせくしながら、知恵や真実やきみ自身の魂の完成にはまるで気をつかわないのを恥ずかしいとは思わないのか。(F. M.コーンフォード『ソクラテス以前以後』(岩波文庫)の引用部より 山田道夫訳)
もしかれが徳を所有せずに、ただそのふりをしているだけだと思ったなら、もっとも大切なことをつまらないこととみなし、何の値打ちもないことを大切にしているといってわたしはかれを非難するでしょう。(同上)
わたしは、たとえ千度死ぬことになるとしても、自分のやりかたを変えたりはしない」(同上)
紀元前のことです。


「認識」の長所・利点ばかりでなくその意外な脆弱性や狡猾な半自律性について、さらにはをれら齟齬(そご)から現象する悲惨極まりなき事象群の逐一についても、包み隠さず我が身と心をテキストにして学習する「人間研究(仮称)」とでもいうべき科目を、小中学校・高等学校教育のあらゆる局面・場面で優先的・機動的に導入されうる社会を希望します。「常に臨戦状態であって普通」と感じることのできる社会が、わたしたち「人間」というやっかいで嘘つきな怪物にはふさわしい身構えではないでしょうか。

ニーチェの箴言は、わたしたちの思惟を活性化させ、想像力を羽ばたかせてもくれます。

105節なんかも参照してみて下さいね。

(2008年06月11日 記)
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