2014/01/13

色褪せぬ憂鬱(1)ボードレール

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Baudelaire
芸術家の名がカラスのような世評に食い尽くされるのは、おそらくモイラの嫉妬であろう。

そのような芸術家に限って、作品とその履歴とのあいだの不整合がひときわ目立っていたりするものだ。皆様方よくご存知シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)も、そのうちのひとりに数えられよう。履歴をご覧になって、嫌いになった、と言われる方々もなかにはおられるかもしれない。

とまれ、いつの世もあって今もあり、したがってこれからもあるであろう「こころ」の仕草の不思議に関しては、まさに万華鏡の如く煌(きら)めく永遠というほかはなく、人種の差を超え好き嫌いを超えて、思わず視線を向けてみたい耳をそばだててみたい、そんな衝動にかられる一節または一連というものも、この世界にはたしかにある。皆様方はいかがであろうか。

当ブログ新カテゴリー記事「色褪せぬ憂鬱」は、そういった一滴(ひとしずく)の出会いに触発されたわたしなりの思いを、蒸発してしまう前の束の間で走るようにして書き留めたもの。そう感じていただくとありがたい。内外を問わずさまざまなジャンルの芸術作品に「色褪せぬ憂鬱」を見出すことを主眼として、不定期連載ながら各回ともできるかぎり小ざっぱりと纏めてみたいと考えている。

なお各作品の使用に関しては、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づく。著作権はそれぞれに明記してある翻訳者方々にすべて帰属する。ご理解いただきたい。

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さて今回は手始めに、上述したボードレール極めつけの詩集『悪の華』に収録されている「深淵からの叫び」という詩、最終第四連の三行に注目してみたい。
愚かしい冬眠にひたすら没頭することのできる
最も下等な動物どもの身さえ わたしはうらやましい
それほど 時間の糸かせは のろのろと繰られてゆく
(角川書店『世界の詩集2ボードレール詩集』より 村上菊一郎訳)
私には、卑しい動物たちの境遇さえ羨ましい、   
愚かしい眠りのさなかに耽溺できるなら。……
かくも、時間の糸は、繰られるのも遅々として!
(新訳「悪の華」より 南堂久史訳)
怠惰な眠りをむさぼり続ける
ちっぽけな生き物たちがうらやましい
この縺れた時をどう過ごしたらよいのだろう
(「壺齋閑話」より 壺齋散人訳)
わたしの関心は、ボードレールが体験したであろうその「こころの一瞬間の姿態」にある。

それをボードレールが結果としてどう表現しさらに世界でどう翻訳されようと、学者ではないわたしにとってそれらは、彼の「こころの一瞬間の姿態」を手繰り寄せる一本の綱(ロープ)の片端にすぎない。細いものもあれば太いものもあろう。しかし一本もなければお手上げである。わたしにとってはそのことのほうが大事となる。

まずこの第四連三行から見えてくる基本的なシルエットは、「私」と「動物(生き物」であろう。しかしそれらは、ボードレールの統覚自我を経由した乾いた思惟の不動の対象として描かれてはまったくいない。

そこで表現として結実するまえにすでにボードレールの「こころ」は、その仕草の半ば以上を完了してしまっていた、と想定してみたい。

そうすると、ボードレールが自身の「こころ」の単独的で再帰的な自己体験の気配に気がつくのは、明るいとは決して言えない色合いに「こころ」が染まってしまった「直後」のこと、ということにもなる。つまり、統覚自我と情動との間に微かな「遅延」が認められる、ということである。そのいわば「僅かな遅延」の生みだしたしかし「大きな衝撃」が、ボードレールのインスピレーションを触発した決定的な動因ではなかったか、と問うてみることができる。

この問いは、その「衝撃」をさらに構造化してもくれる。

ある瞬間自発した「こころ」の初動作(情動の先制攻撃)の場に居合わせていなかった「まさか自分が」と、もはやその瞬間を取り戻すことなど出来ないと判断してしまう「だれがなぜ」とに囲われた、そのような構造である。

しかもその衝撃の「まさか自分が」と「だれがなぜ」に包囲された構造の外壁は、不意打ちされた思いと痛恨とが混ざり合った色合いにすでに変容しており、立ち遅れながら寄せては帰る嫌悪あるいは絶望で、いつまでも乾かないまま不快にも外気に晒されているのである。

以上のことからボードレールが、「下等な動物ども、卑しい動物たち、ちっぽけな生き物たち」を、その距離を嫉妬するほどまでに激しく奪いながら身近に引き寄せずにはいられなかった理由に、わたしたち読者は立ち会うことになるのだ。

ここで怯え引き下がってはならない。

その点描が「眠り(冬眠)」となる。

「(人間以外の動物/生き物の)眠り」とは、あきらかに「時間への無頓着」を含意した表現である。「瞬間」を取り逃がすことも取り戻すこともないアクチュアルで即自的相即的な存在様態のジンボールである。

人間を除く生物には、内的であれ外的であれ、自分の意識作用を介しあらゆる事物・出来事を対象として外化する(超越する)機能がそもそも備わっていない。世界(人や事物や出来事)の外側にいるように感じるわれわれ人間の錯覚は、自我二分裂と第三の統覚自我との絡みを通じて現象しているにすぎない。生物のほうはいわば世界とぴったり癒着したまま、ありとしあらゆるものの自己経験を再帰的に経験しているのだ。どれひとつ自覚されたり回顧されたり、したがって苦悩したり悲嘆したりすることもない。

ボードレールは、この隙間もズレもない生物の世界との「癒着」を激しく嫉妬しているのである。

その意味でボードレールは、19世紀のカトリシズムを受容せざるをえなかった時代の人間でありながら、罪が時間であることを察知していた稀有な人物でもあったのだ。わたしもキリスト者でありながら、そう考えて疑わないマイノリティのひとりである。

上掲した翻訳の三行目は決定的な表現となっている。

第一番目の翻訳を文語化したものに近いのが第二番目だが、第三番目には大胆な意訳の跡が見受けられる。そこで、第一番目と第二番目の翻訳をベースにしてみることにする。

「(糸)かせ」とは、織物糸を保存するためぐるぐる巻きにして出来上がったかたまりのことである。

「糸」は内的時間の、「繰る」はその速度の、それぞれ比喩である。それが「のろのろと」していること、あるいは「遅々として!」いることにボードレールはあきらかに苛立っているのが一点。

そしてもう一点を見失うわけにはいかない。内的時間の速度の遅さは、「重たさ」でもある。時間が重たく感じるのは、(物質的にも精神的にも)背負うもの、つまり負債がその限度を越えているからである。これはさきほどの「苛立ち」ではなく「憂鬱」である。

さらにもう一点。「のろのろと/遅々と」してはいるが、「かせ」を作るためにはその速度をそれ以上減ずることなく維持しなければならないことをボードレールは熟知していた、ということがそれである。

表現を変えると、動物(生き物)のように世界と癒着することは、人間にとっては「眠り(冬眠)」どころか、まさに「生ける屍(しかばね)」の意味になることを知り尽くしていた、ということなのだ。

先行した情動への驚き、痛恨、そして嫉妬、苛立ち、憂鬱、熟知。

これら相互の奇妙な綱の引き合いが、ボードレール特有の「移り気」や「気だるさ」を醸し出しているのであろう。

教会の会堂に着座していたボードレールは、何を感じていたのであろう。

わたし個人は、その点を尋ねてみたいのだが。。。
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