2012/12/16

パウロ聖使徒の背理法・回心者の間接証明 (1)

聖パウロ回心者使徒の背理法功罪
ギリシア語聖書(UBS)
手沢本ドイツ語聖書
わたしには少々悪戯なところがある。

「回心者パウロが。。。聖使徒パウロが。。。って言ってるじゃない?」、と熱く語られるいわゆるクリスチャン方々にウンウンうなづきながらも、御言葉が切れる頃合いに、こう尋ねることがある。

『なるほどねぇ。。。ところで、あの芥川龍之介さんはパウロのこと、「ジャーナリスト」、と呼びましたよ。僕がよく聴いていますDonald Hubbard博士の最近の教会礼拝説教(BBN)では、「スポークスマン」、と語られることもあります。』

大概の信徒方々は、怪訝な表情を示される。

「まあ!なんという(ことを、失礼なことを、不信仰なことを)」。。。とはさすがに仰らない。わたしの意図はこうである。

旧約・新約をも含め『聖書』を読む動機は、その人の数だけある。

しかしどこをどう読むにせよ、キリスト教に身をやつし生き血を吸ってきた西欧形而上学二千五百年の「鋼鉄の門扉」の内側で近代化を体験してしまったわたくしたちである限り、このNIPPON国の「和魂」と「洋才」の自我分裂からは誰一人逃れることなど「できない」のだ、という思いがあってのことである。

まして、「主語」がイエスで「補語」が旧約聖書、そして「述語」がパウロ(神学)になればそれでよし、とする吹けば飛ぶよなギリシア・ローマ型「キリスト教規範文法(使徒信条)」の二番煎じを、それでも日本のキリスト教だと言い張る説教者や護教的聖書学者・神学者から匂いたつ「香」の如き露わな鈍感に接するや、
汝より出でつるは、和魂が言の葉にはあらじ。洋才がことはりなりぬべし。ことはりこそ大事なれ、ひがごともことはりより出づ。ひがごとあまたびとあやめてき。ただことほむは、影なき光をいふがごとし。悲しからずや。
と一度は問い質してもみたくもなるのである。

さて。。。

「新約聖書」に収録されたパウロ書簡中、とりわけ「ローマの信徒への手紙」(新共同訳)に第一義的価値を付与したのは、宗教改革者ルター(Martin Luther 1483-1546)である。

「新約聖書への序言」(1522)「聖パウロのローマ人にあたえた手紙への序言」(1522)などを読むと、そのレコメンデーションには尋常ならざる気配を感じる。後者から冒頭第一文だけを引用させていただきたい。
聖パウロのローマ人にあたえたこの手紙は新約聖書のうちでもまことの主要部をなし、最も純真な福音であって、キリスト者がこれを一言一句暗記するどころではなく、たましいの日毎の糧として日常これに親しむに足りるだけの品位と価値とをそなえている。(『新訳 キリスト者の自由 聖書への序言』石原謙訳 岩波文庫版)
ルターの判断に一理はある。

しかしそれは、わたしの心魂が仮にも西欧二千五百年以上にもならんとする形而上学に彫塑(ちょうそ)されている、という限りにおいてである。


パウロの同伴者であり、ギリシア人医師でもあったルカによる「使徒言行録」をお読みになった方々なら、よくご存知であろう。

パウロは、『聖書』の主要舞台となるイスラエル王国やユダ王国で誕生したのではなかった。まさにディアスポラ(離散のユダヤ人)の子として、すでにローマの属国となっていた少アジア(現トルコ)はキリキア州のタルソス市(地中海と黒海に挟まれた半島の東南端)を出生地とする、いわば
「在ローマ属国ユダヤ人二世」
である。

ローマ属国市民権を得るほどにも法令を順守し、当然のこと、西欧形而上学の教育をも受けたであろうパウロが、その後律法学者ガマリエルの厳しい指導に身を投じ、ついにはファリサイ派ユダヤ教徒の若きサラブレッドになった経緯をよくよく考量すれば、「在ローマ属国ユダヤ人二世」であることの深刻極まりなき蹉跌懊悩から、パウロと言えども逃れられなかったのであろうことが分かってくる。

パウロが迫害したのは、ユダヤ教の戒律(トーラ・律法・モーセ五書)を守りながらイエスを「キリスト(メシア・救い主・油注がれた者)」と信じたユダヤ人信徒ではない。そうではなく、その戒律を捨ててまで、「復活のイエス」を信仰したユダヤ人信徒であった。

このことは、上述した「ローマ属国ユダヤ人二世」であることへの煩悶とそこからのパウロの反動が、どれほどに強烈なものであったかを示している。

パウロの「功・罪」それぞれの濃淡を真面目(しんめんもく)に捉えようとする者、あるいは信仰者にとっては、ここが唯一の「光源」となる。

この「光源」を軽々と跨ぎ越すがゆえに、またぎこしたその者の影によって、信仰者パウロ二重三重にも編まれた回心の深刻な存在論的機序・体制が見えなくなるのである。パウロ主義とも言えるほど頓狂で平板極まりない護教的教説に身を纏う無能な指導者たちを無為に飽食させてきた、それが日本キリスト教の顛末である。

その意味からもわたしは、ルターの断言した「ローマの信徒への手紙」ではなく、「コリントの信徒への手紙 第1」をこそ推奨したい。


「コリントの信徒への手紙 第1」は、ダマスコ(イスラエルのさらに東北域)途上でのパウロの劇的なイエス「体験」(注)からすでに二十年が経過した頃の書簡である。
(注)イエス磔刑数年後の紀元35年前後か。その内容は、主にパウロ同伴者ルカによる「使徒言行録」第22章以下に直接伝聞(伝承)として克明に記録されている。

当時のコリントには、ローマ人はもちろん、古代自然哲学の伝統のみならず、すでにソクラテス・プラトン・アリストテレスの形而上学で武装したギリシア人、さらにはキリスト教徒でありながらにして複雑に分派していた離散のユダヤ人などが共生していた。

「コリントの信徒への手紙 第1」は、そのような倫理的・思想的・宗教的・宗派的混沌を見定めたパウロが、ローマ帝国の属国少アジアの西域エーゲ海に面するエフェソから、対岸のギリシア半島アテネ西方に位置するコリント教会にあって、断崖絶壁、四面楚歌、危機存亡のさなか、弁証の方途のすべてを喪失していた信徒宛てに、まさに身を斬らせる思いで放った一矢(いっし)にも値する書簡である。


次回は、その第15章に焦点を絞り、パウロ論法を「たった数文字の論理式(演算式)」に変換しながら、その「真意」に至る現象学的方途までを紹介したい。

0 件のコメント: