2013/10/31

マイルスの「枯葉」

「枯葉(Les Feuilles mortes)」(1945)と言えば、今なお世界中の多くの歌手・演奏家にカバーされているほどのスタンダードナンバーである。その旋律を知らない方は、ほとんどいないであろう。
トランペッターのマイルス・デヴィス(1926-1991)も、この曲をカバーしている。アルトサックスにキャノンボール・アダレイ、ピアノはハンク・ジョーンズ、ベースにはサム.ジョーンズ、そしてドラムは「ナイアガラの滝」ことアート・ブレーキーといった布陣。

わたしがマイルスの「枯葉」を入手したのは、二十歳の頃。ブルーノートシリーズの一枚であったと記憶している。以来40年を越えたが、秋になるとなぜかこのマイルスの「枯葉」が、波乱の時の尾根をつたって蘇ってくる。

原曲はシャンソンである。

ご承知のようにシャンソンには、語りかけるような旋律が多い。「ネエネエ、じつはこんなことがあったのよ、ねぇ、よろしければこの切ないほどのわたしの胸のうち、立ち止まって聴いてくださらないこと?」、といった一人語りがシャンソンの真骨頂である。その誘いにのるかのらないかは、通り過ぎるわたしたち側の問題になる。なびくもよし無視するもよしのえも言われぬ時の分かれ目。

日本語の歌詞(岩谷時子)では、次のように始まる。
あれは遠い思い出 / やがて消える灯影も / 窓辺赤き輝き / 光みちたあの頃 / 時は去りて静かに / 降りつむ落葉よ / 夢に夢を重ねて / ひとり生きる悲しさ / 木枯吹きすさび / 時は還らず / 心に歌うは / ああシャンソン / 恋の唄
暮れ行く秋の日よ・・・ 
「暮れ行く秋の日よ」が、主旋律の開始。

ところがマイルスは、原曲のこの長い前口上の部分を不思議な旋律の反復に翻訳している。ベースとピアノをユニゾンにした4種類だけの音階。じつに不穏で不気味。まるで暗闇の中、得体の知れぬ物体がぜん動しているかのような感じである。ペットとサックスの引きずるような呼気音が、かすかに併走している。

ナンダロウ。。。と思い始めたとき突然、マイルスのペットが武者のように身震いする。ほどなく不穏な旋律に回帰。。。そしてまったくの沈黙。

訥々(とつとつ)とじつに訥々と、ただひとりマイルスが「主旋律」を演奏し始めるのは、その地点からである。

わたしは長い間、この序奏に託さんとしたマイルスの意図が分からなかった。

原曲「枯葉」の主題は、いわば愛の破局への追想である。したがってどのカバーも、聴く者誰しもが枯葉舞い散る情景をそれぞれの体験に重ね合せることができるように象徴化されている。今なおそうである。

ところがマイルスの「枯葉」からは、その舞い散る叙情豊かな光景がまったく浮かんでこないのだ。もしかしてマイルスは、「(枯)葉」自体の栄枯盛衰に身も心も投じてしまっていたのではなかろうか。

今頃になってそんな気がするのだ。

曲の終わりは、最初と同じぜん動のような旋律に戻り、そしてそのままフェードアウト。戦慄(せんりつ)だけが取り残される。

「伝道の書」とも呼ばれてきた『旧約聖書』「コヘレトの言葉」に次のような箇所がある。
かつてあったことは、これからもあり、/ かつて起こったことは、これからも起こる。/ 太陽の下、新しいものは何ひとつない。(1.9) 
「(枯)葉」になりきったマイルス・デヴィスの思いは、もしかしてここにあったのではないか。これはもう「啓示」である。裏を返すと次のようにもなるからだ。
主よ、あなたはわたしを究め / わたしを知っておられる。/ 座るのも立つのも知り / 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。/ 歩くのも伏すのも見分け / わたしの道にことごとく通じておられる。/ わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに / 主よ、あなたはすべてを知っておられる。/ ......(詩篇139の一部) 
秋の夜長に、いかがであろう。

ひとり妄想にふけり、ちょっぴり気取って聴くのもまたよしである。できればレコード盤に針を落として聴きたいものだ。
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