2013/10/25

ニーチェ箴言散策集・私家版 (11)

ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


110節から114節までをどうぞ。。。


原文・翻訳からの引用は、「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は、"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は、木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

)))110節(((
Die Advokaten eines Verbrechers sind selten Artisten genug, um das schöne Schreckliche der That zu Gunsten ihres Thäters zu wenden.
犯罪者の弁護人が、犯行の美しい恐ろしさをその行為者に好都合なように転用するほどの芸達者であることは滅多ににない。
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そうでしたねぇ。。。そして今後もそうなるでしょうねぇ。。。

いわゆる「凶悪犯罪」者を弁護する最近の「弁護人」あるいは弁護団」は、およそ「刑罰」なるものが残虐と悦楽との調和に支えられてきたものであった、という歴史認識をすっかり忘れてしまっているような気がします。

141節の箴言散策でも参照いたしますが、すでに百年以上も前にニーチェは、『道徳の系譜』「第二論文」において次のように明言しています。
刑罰は人間を手なずけはしても、人間を「より善く」はしない(第十五節)
近代の刑法は、犯罪人その「人」を罰し訓育するものではなく、その「人」の犯した犯罪「事実」自体を審議し、被害者側の終生消えぬ感情とも擦り合わせながら、加害者(弁護側)・被害者(検察側)双方ともに納得のいく審判を下すこと、このことをその最終的な使命としてきたはずです。その意味から、刑(罰)法は一種の怜悧な功利、と言うこともできます。

功利は、犯罪「事実」を審判し、その結果の代償としてあたう限りの均等な量刑を下すだけのものです。人間存在の不可思議の程度を測定するものではありません。そこを履き違えたのが、今回の「弁護団」だったのではなかったでしょうか。

なるほど、弁護側からも検察側からも精神鑑定の報告書が提出されており、ほぼ同じような鑑定内容であったとも聞いています。当然と言えば当然です。「真意の分からぬ凶悪な犯罪」者に対する司法内部の限りある精神鑑定には、まるで天を仰ぎ背をまるめ脱力してみせる悪戯っ子のような甘えと退屈があるのですから。

「誰でもよかった」「刑務所に入りたかった」等々。。。

これらは、表現不可能な衝動の、いわば存在告知です。。。が、司法関係者そしてわたしたちは、外観を厚く覆う彼らの威勢のほうに圧倒されてしまいます。その誤差その懸隔の感覚の程度がそのまま、判決が下されてなお残る被害者家族の皆様方の満たされぬ思いの丈にも連動するのでしょう。

凶悪犯罪者を弁護する難しさがそこにあります。情状の酌量と減刑の度合いにある程度の誠意を見せた「振り」をすれば弁護人としての仕事は終了、とみなされるのも同じような事情に依るのでしょう。


こう考えてみますとニーチェの「犯行の美しい恐ろしさ」という表現は、(法)社会統治機構内部の人民の惰性を切断するために放たれた一矢ではなかっただろうか、という予測がひとつ浮上してきます。

さらに踏み込めば、ニーチェはこの「犯罪者」を弁護するどころか、その存在機序を擁護し支持し呼び出してまでも、「弁護人」のみならず司法の審判を超え出ようとしていたのでは。。。という想定も成り立ってきます。

「犯行の美しい恐ろしさ」という表現は、そのような予測と想定を誘い出すものではなかったでしょうか。

この表現は、ご覧のとおりアンチノミー(二律背反)を装ったパラド(ッ)クス(逆説)になっています。両者の違いは、複数の項目が循環的に作用しながら上昇あるいは下降していくかどうかに依ります。たとえば「サド - マゾ(ヒズム)」の関係なども、アンチノミーではなくパラドクスと言うことができます。互いが互いの「根拠」になっているわけです。その意味では、再帰的でもあります。したがって釈義としてここは、「恐ろしければ恐ろしいほどに美しく」また「美しければ美しいほどにも恐ろしい」、と読むべきところです。

つまり、(犯行の/犯行を押し出す衝動の位階秩序の)「美しさ」「恐ろしさ」が途切れず再帰的に増加、強化、純化していくということは、「犯行」そのものあるいは「犯行」相互において同じものなどひとつもない、ということを意味します。

このあたりで、

その一点を看破し過去の判例を参照すれば、さらなる減刑の画策もじゅうぶん可能だが、そんな器用で洞察力ある実存的な「弁護人」などいないだろうなぁ。。。と言わんばかりのニーチェの姿が垣間見えてきそうですが、いかがでしょう。

ニーチェ箴言解釈。。。意外や意外、灯台下暗しで超簡単かも!!!です(笑)。

がんばりませうがんばりませう。

(2008年06月27日 記)

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)))111節(((
Unsre Eitelkeit ist gerade dann am schwersten zu verletzen, wenn eben unser Stolz verletzt wurde.
われわれの虚栄が最もひどく傷つけられるのは、われわれの矜持が傷つけられたまさにその場合にほかならない。 
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「虚栄」という主題を扱ったものとしては、これ以降、122節・143節・176節にもあり、またなんらかの間連をもつものとしては、130節・151節などがあげられます。ニーチェの視座はじつに多様です。

ところで。。。

いきなりではありますが、アリストテレス(前384-前322)の『ニコマコス倫理学(上)』(岩波文庫 高田三郎訳 初版1971年)に、次のような叙述があります。
虚飾家とは、一般に尊重される諸般のことがらが、実際には彼に属しないにかかわらず、または実際彼に属するよりも以上に、彼に属しているかのごとく見せかけるたちのひとである(第四巻第七章)
別の箇所では、次のようにも「補説」されています。
(虚飾家であるということは決して能力の問題ではなく、意図的な「選択」の問題である。すなわち、内に存在している「状態」に基づき、そういう「状態」を所有する人間であることによって、はじめて虚飾家といえるのである。)(同上)
「虚飾」の部分を「虚栄」と読みかえても、通じる内容となっています。

上掲書においてアリストテレスは、目的をもった「虚飾(家)」と目的をもたない「虚飾(家)」とを区分しています。後者を「あさはかなひと」と呼び、前者をさらに分割して、「外聞とか名誉」のためなら非難は軽いとし、「金銭」やそれに類するもののための「虚飾」なら「醜陋(しゅうろう)もはなはだしい」、と評価しています。

注目すべき点は、「補説」において「虚飾(虚栄)」が、『能力の問題ではなく、意図的な「選択」の問題である』、と叙述されているところにあります。

アリストテレスの語る「能力」のそもそもは、食物を摂取して生きる、といったごく原初的な「生物的な能力」のことで、「無ロゴス」とも称されていたものです。しかし人間の場合になりますと、「欲情・憤怒・恐怖・平然・嫉視・歓喜・愛・嫌悪・憧憬・意地・憐憫、その他総じて快楽または苦痛を伴うところのもの」(第五章)、いわゆる「情念(パトス)」を発露させうる「力」自体を指すようになります。

そのうえで、それら「情動」をそのまま発露させるか、それともいかほどか倫理的に節制するかは、当人の「選択(可能性か?)」の問題であり、そのように「選択」された事態が「状態」なのだ、とアリストテレスは結びます。それら全体の項目と関連の衣装には、「魂」があてがわれています。


以上のことを前提にニーチェの上掲の箴言を眺めていますと、わたしには奇異な一節が浮かんできました。

『「おわり」が無化すると、「はじまり」も無化する。』

わたしの頭に、この誰のものでもない一節が浮かびましたのは、箴言中の「われわれの矜持(きんじ)が傷つけられたまさにその場合」に引き留められていたときです。

「矜持」とは、「自分の能力を自分自ら信じ誇ること」です。他者の関与は、「虚栄」ほど感じられません。

事実、ニーチェの大作『ツァラトゥストラはかく語りき』で「虚栄」は、「孔雀」や「海」にも喩えられています。

アリストテレスは、「あさはかなひと」とか、「醜陋(しゅうろう)もはなはだしい」、と厳しくも評価しましたが、ニーチェは、「虚栄」が他者に依存した憐れで愚かな姿ではあることを認めつつも、一方で、「虚栄」をも含む「情念(パトス)」を発露させうる「力」自体が損傷したとすると、それはもう「虚栄」の倫理的な価値云々以前に、すでに人間そのものが「破壊」されたことを意味する。。。そんな思いにどこかでとらわれていたのではないかという気がしてなりません。

(2008年06月27日 記)

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)))112節(((
Wer sich zum Schauen und nicht zum Glauben vorherbestimmt fühlt, dem sind alle Gläubigen zu lärmend und zudringlich; er erwehrt sich ihrer.
自分に予め定められた使命が静観にあって信仰にあるのではないと感じている者にとっては、およそ信者というものは余りにも騒々しく、うるさいものに思われる。彼は信者たちを防禦する。 
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精神病理、なかでも鬱や癲癇や統合失調などの症状をいちど脱-器質化したうえで、「時間の病理」としてそれらを現象学的に捉え直した木村敏博士(1931年-)は、そのうちの「癲癇」について次のように語られています。
非定型精神病や癲癇の世界は、本質的に祝祭の世界である。古代のディオニュソス祭から現代のカーニヴァルにいたるまで、祭の日に人びとは個別的生命の境界によって区画された日常生活の規律から抜け出して、種的全体的な生命のほとばしる永遠の現在という非日常の次元に参入する。人間における癲癇的存在様態は、この祝祭の個人版にほかならない。私の言う「祭の最中」(イントラ・フェストゥム)はそのことを指している。(『心の病理を考える』第三章 岩波新書 初版1994年)
そして「鬱(うつ)」をその後の時間領域(ポスト・フェストゥム=後の祭)に関与するものとして、また「統合失調」をその前の時間領域(アンテ・フェストゥム=前夜祭)に関与するものとして、新書版とは思えぬほど深くて広大な論を展開されています。

最近はなかなか経験することができなくなってしまいました「縁日」なども、そのひとつでしょうか。近年多くの東大現役合格者を排出しています大阪は星光学園の横手にある「愛染さん(神社)」。そのあたり周辺が、わたしの幼少期の日常の空間でした。縁日の日などには浴衣に着せ替えてもらい、水槽に走るブリキ製の「ポンポン船」に心奪われ、嬉々として、時の流れるのを忘れたものです。そのときのわたしも、イントラ・フェストゥムの状態にあったのでしょう。


さて冒頭になぜ以上のような引用をしたのかと申し上げますと、(健常者の方々にも、精神病理への理解をもっと深めて頂きたいというわたしの個人的な望みもありますが)、上掲箴言の「非信仰者が信者を防禦する」というニーチェの思惟のラインに、統治機能としての宗教(キリスト教)への鋭い反応を見い出せるからです。

直截な圧制は必ず直截な抵抗を呼び覚まします。その「被支配者」の抵抗エネルギーの方向を人類史上において適宜転換させてきたのが、いわゆる「カーニヴァル(祭・祝祭)」です。日本を含む世界の歴史が、そのことを示しています。

ニーチェはどうやら、「余りにも騒々しく、うるさいものに思われる」「信者」たち、つまりは「病める者」や「悩める者」たちの告白(祝祭的エネルギー)を、ひたすら「贖罪の祝祭」に転換させてきた宗教哲学者や聖職の地位にある者たちの虚偽を暴くため、「自分に予め定められた使命が静観にあって信仰にあるのではないと感じている者」と揶揄(やゆ)したのかもしれません。


なお「防禦する」を含む最後の一文から感じられる論理的な不整合性は、木場先生の日本語訳から立ち上がってくるものです。

ドイツ語コロンの並列・添加・補説などのゆるやかな機能から考えますと、接続詞がなくても論理的不整合性を感じることなど、本来はないはずです。

ドイツ語原文はご覧のとおり<er ervehrt sich ihrer.>となっており、典型的な再帰構文です。「彼は彼を彼らから守る」というのがその直訳になります。Ian Johnstonの英訳を参照しましても ' he fends them off ' となっており、やはり「彼は彼らを避ける(よける)」となっています。

これで不整合性を感じることはないでしょう。

(2008年06月26日 記)

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)))113節(((
》Du willst ihn für dich einnehmen? So stelle dich vor ihm verlegen - 《
「君は彼に取り入りたいのか。それならば彼の前で当惑して見せることだ――。」 
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ロシア皇帝時代を生きた二十一歳の才女、ルゥ・ザローメとの恋愛と破局(当時ニーチェ三十八歳)、およびそれらの思索への影響等については、他節でも紹介させて頂いております藤田健治氏の『ニーチェ その思想と実存の解明』(中公新書 初版1970年)において、およそ40ページにわたり詳説されています。興味のある方はどうぞ。

そこで本節の箴言散策では、箴言自体としての可能的な解釈や、その過程で派生してくる諸問題などをハイライトしてみたいと思います。


まずは「涙」。。。

男のながす涙。そしてまた、女のながす涙。同じ涙でも、その表情は相当に違うようです。

平安時代とは異なり、現代を生きる男が泣けば、けなされはしませんが、ちょっぴり見下されてしまう可能性がまだすこしこの国には残っています。なにかを押し殺すかのような表情をして男が泣くのは、そのためでしょう。

しかしなにかを押し殺すようにして顔をゆがめ泣く女性には、あまり出会ったことがありません。その点が、男性にはちょっと太刀打ちできないところでもあります。

コケトリー(媚び)、と言うと女性方に叱られそうですので、むしろエロティシズムとでも言っておきましょう。そのようなものを、男性側にいるわたしは女性の涙に多く感じます。「ダマサレテイルノヨソレハ、ア・ナ・タ!」、という天の声が聞こえないわけではありません。聞こえてはいるのですが、感じてしまうのです(苦笑)。

男も女も、同じ(と信じている)世界の中にいます。ですのに「涙」ひとつを例にとりましても、これだけの表情の違いが男女間にはあります。そもそもこれをはたして「違い」と言ってよいのでしょうか?


上掲の箴言の「取り入りたい」は、もちろん「気に入られたい、好かれたい」ということです。ですが男性なら、女性の前で「当惑して見せる」という仕草などしないでしょう。そんな男性に魅力を感じる女性も、そう多くはないでしょうから。

ニーチェは、確信をもって「彼の前で当惑して見せることだ」と語っています。

しかしよく考えてみますと、「顔をゆがめ泣く」のが不得手な女性であっても、あえてニーチェのように「彼の前で当惑して見せること」を諭(さと)さなくとも、女性の「自然性」からある程度男性の関心をひくことはできるのではないでしょうか。

としますと、どうもニーチェの眼前にいる女性は、男性的な女性であった可能性があります。そのことを見越して指図した特異なケースであったのかもしれません。


ところで、女性であることを前提に。。。

「涙」と「当惑」との交点は、あるでしょうか。

結論を急ぎますと、ニーチェが時折使用します「一民族・一社会・一個人がそれに従って生きて来た評価の位階秩序」(同書224節)というものにどちらもが、女性の「自然性」として包摂されていたものではないか、とわたしは思っています。

ニーチェはこの「位階秩序」を、自我内部にも他者にもそして事象にも見い出しています。しかも長い歴史の中で定まってきたものである、とも主張しています。

そうしますと、「過去は過去、今は今」、などと悠長なことは言っておられないことにもなります。その言い草は、ただの「認識の遊び」か「方便」か「詭弁」にすぎません。

どれだけ自我を主張しあがこうとも、時間的なDNAに潜り込んだ空間的なレトロウィールス(RNA)、そして長期間にわたる創造と破壊を繰り返しながらも自同性を守ってきた歴史的伝統・儀礼・風習・習慣、さらにはそれらの紐帯と連鎖を担保する教育等によって組み上げた「位階秩序」からは、終生、わたしたち人間は逃れられないような存在としてこの世に投げ入れられたのではないでしょうか。

男性と女性とがながす「涙の表情」の違いは、どうやらただの性差そのものの違いというよりも、個々人にかぎって言いますと、むしろある価値をどの順位で序列化してその人がその人の「生」を持続させてきたのか、そしているのかの大切な証(あかし)である可能性があります。

そのトータルな表現が、女性の「自然性」であり、男性の「自然性」なのではないでしょうか。ここに部分と全体の循環性、つまりは解釈学が成立する根拠性があります。


以上のように辿ってきますと、「彼の前で当惑して見せることだ」の部分が、「ソレガ君本来ノ女性性デアルコトヲ、君ガ一番ヨク知ッテルジャナイカ」、といふうにも聞こえてきます。

「涙」も「当惑」も、感覚群から派生する様態です。その感覚群の「位階秩序」に焦点をあてた箴言、と言うことができるかもしれません。

(2008年06月26日 記)

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)))114節(((
Die ungeheure Erwartung in Betreff der Geschlechtsliebe, und die Scham in dieser Erwartung, verdirbt den Frauen von vornherein alle Perspektiven.
性愛についての法外な期待、およびこの期待のうちにある羞恥が、女性のすべての見通しを始めから損ってしまう。 
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川柳(せんりゅう)の好きな年配の男性方なら、直感的に分かるのですが、そうでない若い男性方には分からないかも。。。

ほとんどの成人女性は分かっていますが、そうは簡単には話してくれませんヨ(笑)。というような箴言です。ウン?ドンナ?

男性の一途(いちず)さと女性の一途さとが、根源的な意味において様相を異にするという点なども、このあたりに事情があるのかもしれません。


外殻(思惟の形式)だけで表示してみましょう。

「女性の見通しは、性愛に対する羞恥を含む期待によって、損(そこな)われる。」

木場博士のご翻訳の「見通し」は、そのほとんどが<die Perspektive  ペァスペクティーヴェ>に対して施されたものです。この術語の沿革については、125節においてあらためて触れたいと思います(実質35行程度)。

「見通しが・・・損われる」とは、わたしたちが使う日常の言葉の範囲内では、「見境がつかなくなる、判断を誤る」、などが比較的それに近いでしょうか。

「性愛」は、SEXとしか考えようがありません。プラトンラブ、いや失礼、しかしプラトニックラブではないですよネェ?

要は、「SEXへの過度な期待、そしてそれと裏腹な関係にある羞恥との相乗作用によって、すでに女性は、通常の判断を失っている」、ということなのでしょう。ただし「表現」として紐解けば、ということで。

さて本題。

以上の内容をそのまま放置しますと、女性方に「ナラ、アナタハドウナノ?コノ好色男ガ!」と叱られそうですので、一言だけ。

男性と女性との生理的な、したがってある意味では官能的とも言えるその生態の違いについては、みなさんに託すとします。

ここでは男性の「自然性」から、いつどのような経緯を辿って、「認識(思惟の形式>論理>理屈」というものが、一般的な傾向として女性よりも前景に強く飛び出すのか、という課題にすこし接近してみたいと思います。男女間に齟齬(そご)を生み出す深刻な問題のひとつでもあります。


わたしは小さい頃、悪性リンパ腫(血液ガンの一種)により三十七歳で夭逝した四つ違いの姉から、「理屈を言うな!」、と家中でも道中でもよく叱られたものです。「理屈」がいったい何者なのか、まったく知ってはいない幼くてかわいい「わたし」にです。その後大きくなるにつれ、どうもわたしの「くちごたえ」が、内容はどうあれ、姉にとっては「すべて理屈」であったことに気がつき、それから姉とはあまり話をしなくなりました。

そうこうしていますと今度は、「ドウシタ?ウン?彼女デモデキタンカ?(関西弁)」、と擦り寄ってきます。あああああ、気持ち悪ぃぃぃ!女とは何ぞや!と心の中で叫んだのを覚えています。

女性には、当然、女性としての「理屈」もあるでしょうが、それよりもなにがしか細やかに振動しながら全体を保っている「感官」のようなものが、男性のそれに比べ、この世界のより近くにおいて生き生きと(健康・不健康を言っているのではありません)作動しているのではないか、と感じたりすることが経験的に多々あります。

女性が苦悩している表情、反対に、嬉々としている表情。男性と同じジャン、とはとても言いがたいものをわたしは感じ受けます。

逆に申し上げますと男性は、激昂や無礼講や破廉恥などには長けていても、自らの微動な「感官」の扱いと演出にはとても疎(うと)く、そのぶんの補償として言語を介した「理屈」が前方に飛び出るのではないか、と感じたりします。「論理」や「思惟の形式」に、わたしも含め、比較的こだわるのには、そういった両性の「自然性」の違いが大きく作用しているのではないか、と自問してみたりもします。

男性の「理屈」に誠(まこと)や真心(まごころ)があれば、それはそれで「武士に二言なし」に近く、なかなかいいものです。しかしときに、誠や真心に別れを告げておきながらなおその場を去らず、延々と「理屈」を繰り広げる成人的輩(やから)に至っては、「これが男か」、とつい呟いてしまったりすることもあります。

昔の言葉をもじれば、「言行不一致」、の様態です。わたし自身の不埒な人生の無責任極まりなき棚上げをお許し頂くとして、「申し訳なかったと言うなら、最初からするな!」、とでも叫んでみたい衝動にかられる事象が、あまりにもこのNIPPON国には多すぎます。よしんば重罪であったとして、その罪一切を認め黙々と刑務所に向かっていく人間たちのほうが、どれほど「潔(いさぎよ)い」姿か、とわたしなどは思います。

どうして、なぜ、「理屈」から「誠や真心」が離れてしまうのでしょう。そして「事実」や「真実」からも。

それを解き明かす鍵は、「認識」の誕生秘話のなかに大切に保管されています。


ハイデガーは、この「世界」の構成に与(あずか)るものとして、「現存在(概念ではない生身の人間)」を中心に据えおくことはもちろん、そのほかに「道具的存在」や「事物的存在」などをあげています。「自然」はと言いますと、とりあえは自然科学の発達を無視することができなかった事情もあり、「事物的存在」に包摂させています。

山川草木は当然「自然」ですので、「事物的存在」か。。。と思いきや、ハイデガーは、そもそもそのような二者択一は現象学にはないのだ、ということをみごとに例証します。こんな箇所を引用するのは、おそらくわたしぐらいだと思いますので、じっくりと味読してみてください(笑)。
森は造林であり、山は石切場であり、河は水力であり、風は、「帆にはらむ」風なのである。』(『存在と時間第十五節 原佑訳)
その他「啄木鳥(きつつき)」や「ぱちぱちいう火」など、とてもかわいい表現が登場したりする箇所もありますが、興味を持たれた方は一度探してみてください。ヒントは第五章です。いかがでしょう?これだけの叙述から、何か感じられましたでしょうか?

こういうことです。

「森」「山」「河」「風」だけなら、単なる「事物的存在」を表わしたものにすぎません。簡単に言いますと、人間存在には何ら関係なく存在することができて「ある」もの、ということです。

ところが、「造林」「石切場」「水力」「帆にはらむ風」となりますと、事情は根源的に変わってきます。それらには、表現こそされてはいませんが、すでに人間存在の先行的な関与が示されています。この世界に突入したと同時にすでにあった人間存在のこの存在性(気遣い、配慮、顧慮などと表現されます)がなければ、「森」「山」「河」「風」はいつまでたっても、「森」「山」「河」「風」のままに「あり」ます。

これら卑近な例に意図されたものとは、いったいなんだったのでしょうか?

それは、「理屈>概念>判断>論理>思惟の形式>認識>陳述」などなど、いわゆる(デカルトに強調されカントにおいて固着した)無世界的な「主観」の上に、ギリシア以来今日まで屹立してきた巨大な言葉の魔物、「形而上学」を破壊するための仕掛けでした。

同書第十五節でハイデガーは、「認識」について次のように叙述しています。上記しました形而上学関連の術語群(単語家族)のどれを適用しても、通じる内容になっています。
認識作用は、配慮的な気遣いのうちで道具的に存在するものを越えてはじめて、わずかに事物的にしか存在しないものから邪魔物を取り払うことへと押し進むのである。(一部傍点あり)
「道具的に存在するものを越えて」とは、それを「経由して」ということではありません。極言しますと、「無視して」といったほどの意味です。「邪魔物」は、難しい比喩ですが、人間存在(現存在)の「気遣い(で分かりにくい人は、正確ではありませんが、「関心」とでも)」に「道具的存在」性が捕縛される可能性一切、とでも言っておきましょう。その可能性を「取り払うことへと押し進む」と翻訳されるほど「認識」には、現存在(人間存在・今を生きる生身の人間)にとって冷酷きわまりない一面があるということです。

形而上学批判を施してはいますが、「概念の自己運動」というものがあたかもこの世の真理であるかのごとく周到に演出したヘーゲルの「弁証法」などにも、この「認識」の冷酷さが窺えます。哲学なんか嫌いだ!といわれる方でも、『小論理学(エンチュクロペディー)』第1部「有論」の数ページだけでもご覧になられましたら、その冷酷さを感じることはじゅうぶんにできます。


生身の人間存在との関与を強引に断ち切った「冷酷さ」と「(概念の)自己運動」。

これが、特に男性の「言行不一致」を可能にしている元凶でもあり、男性の「自然性」の帰結のひとつでもあります。

第四十四節でハイデガーは、ニーチェが『善悪の彼岸』第一章で語ったことと同じ了解を示しています。併記してみましょう。
真理の女神が、あのパルメニデスを導いていって、暴露の道と秘匿の道という二つの道に直面させるのは、現存在はそのつどすでに真理と非真理との内で存在しているということ、このこと以外の何ものをも意味しない。(ハイデガー)
われわれが真理を意志するとすれば、何故にむしろ非真理を意志しないのか。(ニーチェ 一部傍点あり)
二人とも、「生成」という現象を先取りすることに成功し、そこに「意志」の悪戯のようなものを見ることができた天才です。

また今日も、わけのわからぬ「謝罪会見」が見られます。「彼ら」は、この期に及んでなお「言葉(認識)の森」の果てに宝物を探そうとする輩で、まさに男性の恥さらしです。昔なら切腹です。

(2008年06月25日 記)

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