2014/01/15

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キリスト教の歴史
キリスト教の歴史
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(C)カマスキー
ご承知のとおり、「教会は(S)キリストの体である(P)」という幾分威圧的なこの表現は、「コロサイの信徒への手紙」第1章に基づき彫琢されたいわゆる「全称肯定命題(S-P)」である。

しかしながら現代の聖書学の常識は、「コロサイ」書簡自体をパウロの真筆とは認めていない。簡単に言い切ってしまうと、パウロの威を借りた後代の手による「コロサイ」書簡の叙述を、さらにその後の動乱のさなか誰とは知らぬ誰かによって「命題」という金型(かながた)に流し込み整形され、そうして殊勝にも今の世まで生き延びてきたものである。

もちろん、火のないところに煙は出ない。

その火種が、真筆と鑑定された「ロマ」書(12. 4-8)であり「コリント」前書(12. 12-31)であったのだ。「コロサイ」書簡ならびにその叙述の「命題」化は、時代の切迫が要請したいわばフライングとも考えられる。分からないではないが、フライングはいかなる競技・レースと言えども、この人の世ではやはり違反であり失格と判定される。それが黙過されてきた。キリスト教と癒着した西欧の思想・哲学・文化・文明・歴史・伝統とは、そういった類(たぐい)の数えきれぬ不条理の堆積のことにほかならない。西欧人を至福と絶望に引き裂く、それが根源的な要因なのである。

いずれにせよ「ロマ」書・「コリント」前書に踏みとどまる限り、キリスト者(信徒)は「(キリストの)体」の「(一)部分」である、ということらしい。

要は、「部分」と「全体」に関するギリシア的概念にパウロ自身は迂回していたのである(注1)。在ローマ属国ユダヤ人二世であった多重言語者・多重文化者パウロにとっては、慣れ親しんだ思惟である。しかしながらこの元々の「命題」には、パウロ特有のやっかいな加工があるのだ(注2)
(注1)アリストテレス『形而上学』第五巻第六章・第十六章・第二十五・二十六章。
(注2)「コリント」前書15章に集中する「復活」論証のための間接証明や「アダム≒イエス」といった大胆な類推にも、推理上の独特な加工が施されている。ギリシア哲学の伝統から見れば「異端」と論駁されても仕方がない。事実パウロは、一部論争に敗北してもいる(「使徒言行録」17章)。なお前者の間接証明の致命的な弱点については、「パウロの聖使徒の背理法・回心者の間接証明」というタイトルのもと二回にわたりその要点を展開しておいた。参照されたい。「一発検索」をご利用いただきたい。
そのひとつは、「全体」がただの「全体」ではなく、「完全体なるキリスト」になってしまっている点にある。

「完全体なるキリスト」」を構成するのはパウロによれば信徒になる。しかし信徒は人間である。不完全と有限性を根源的な属性、あるいは根拠とする生き物である。その信徒の集合から「完全体なるキリスト」」が構成される、といった無媒介な(媒概念を経ない)推理(証明)を、はたして推理と呼んでいいのであろうか。形式論理学のごくごく初歩的な、しかし重要な原理的問題が放置されたままにいまだある。

ふたつめは、以上のパウロ元々の命題から派生した「教会はキリストの体である」という後世の改作「命題」が、上述した無媒介性をそのまま踏襲しており、しかもすでにある種の「権威」をあからさまに含意してしまっている、という点にある。

その含意された「権威」は、信徒の生き生きとした推理判断を抑圧し、献金主体である信徒に帰するべき正当かつ妥当な権利行使までを罪悪化させ、ついには思惟の拘禁状態まで醸成させてしまう、そういった聖職者・教職者の高度な「戦術」に転用されやすいものでもある。

もちろん、当時のパウロが以上二点を当初から意図していた、などとわたしは全く思っていない。

むしろ上述した命題が本来もつ「聖なる権威」の戦術への転化は、おそらく16世紀以後現在までのプロテスタント教会(教派・教団)が、そのつど教会内外を襲うクリーゼ(危機)を回避するため捨てようにも捨て切れなくなってしまった「禁じ手」ではなかったのか、とすらわたしは感じているのだ。

ご承知のように、犠牲者十万人とも十五万人とも言われるドイツ農民戦争(1524-1525)の背後には、あのマルティン・ルター(1483-1546)がいた。フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)を介しジャン・カルヴァン(1509-1564)がスイスで展開した宗教改革は、神の名(=権威)による信徒の家庭臨検にまで及んだ。そして、ルター派・カルヴァン派(改革派)が二大教派となるや、1618年、カトリック勢力との間で30年戦争が勃発しているのだ。

この30年戦争がもたらした夥しい数の犠牲、生き残った人間の絶望を思うと、その後17世紀にかけ出現したドイツ敬虔(けいけん)主義には注目してもよかろう、と思う。フィリップ・シュペナー(1635-1705)の役割は大きい。また、ニコラウス・ツィンツェンドルフ(1700-1760)のモラビ派の名も記憶しておきたい(宮元憲「モラヴィア派とその海外宣教事業」神戸松蔭女子学院大学キリスト文化研究所編『キリスト教論藻』No.41所収論文は貴重)。

そうしてこの頃から、キリスト教をめぐる哲学者の言説が前景にシフトしてくるのである。

フランスのルネ・デカルト(1596-1650)がその先陣であった。フランスのカルヴァン派ユグノー(プロテスタント)問題とけっして無関係ではなかった(注)
(注)ユグノー問題に関しては、わたしがまだ若くて健康であった頃所属していた研究会の親しい仲間であり、現在経済法科大学の教授として活躍しておられる経済学博士金哲雄氏『ユグノーの経済史的研究』(ミネルヴァ書房 2003年)など、必須文献のひとつになろうか。もともとヘーゲル哲学の研究者を目指しておられたこともあって、その叙述は精密機械のようである。わたしは三十代に入った頃から精神の崩壊を自覚しはじめて研究会を離れざるをえなくなり、その後四十七歳になるまで悪化の一途を辿ることになったが、それだけに今その頃のことをとても懐かしく想い出す。その他かつてのメンバーもほとんどが無事大学の教壇に立っているのを知り、嬉しさを禁じることができない。それほどにも当時は皆若く純粋で、ほんとうに貧しいなか書物だけは手離さなかった同志であったのだ。
同時期のイギリスでは、ローマ教会(カトリック)に傾斜していた国教会とピューリタン(清教徒)との闘争を梃子にして、経験主義哲学が台頭する。フランシスコ・ベーコン(1561-1626)、トマス・ホッブス(1588-1679)、ジョン・ロック(1632-1704)、そしてデヴィッド・ヒューム(1711-1776)に受け継がれ、、とりあえずの節目をむかえている。ついでながら、オランダでは無神論的汎神論とでも言うべき立場にいたバルーフ・スピノザ(1632-1677)が、ドイツでは人間を宇宙全体の統一体とみるモナド論を展開したゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)が登場している。特にスピノザは、再検討される機会が近年多くなってきている。

その後哲学の主導権は、ドイツ観念論の大御所インマヌエル・カント(1724-1804)に手渡されることになる。主著『純粋理性批判』『実践理性批判』は、17、18世紀に展開された哲学の総括であり、以後の展開の礎石でもある。

教派的には、日本にもあるメソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレー(1703-1791)を指摘しておく必要があろう。

西欧は、以上のようなキリスト教の権威化(ドグマ化)と形而上学とのいびつな癒着をひきずったまま、「六百万人」というおよそ信じることなどのできない数のユダヤ人虐殺、ホロコーストに突進することになるのである。結果は、「六百万人」に達するまで誰にも阻止できなかったということなのだ。それまでの夥しい数の礼拝、説教、宣教、祈り、巡礼、讃美、祝福。。。そして思想・哲学は一体なにであったのか。神の現前も、イエスの降臨もなかったことをどう説明すればよいのであろうか。

さて、

キリスト教権威の戦術転化の問題に戻ろう。

上述した「権威の戦術転化」とは、当該権威の拡大・均衡・縮小の三つを意味する。以上見たプロテスタント前後史を、仮に救いを求める信徒集合のエネルギーの増減に翻訳すればどうであろうか。エネルギーの増減とは、結果としての信徒の数量ではなく信仰の度合におけるものとする。

  1. 信仰が極度に達する場合、あるいはそのような状況が整うと、対する権威は個人によるものであれ教会・教派・教団によるものであれ少なくてすむ(権威の縮小)。
  2.  それとは逆に信仰が劣化した場合、あるいはそのような状況が醸成されると、対する権威はその程度に応じて増大する(権威の拡大)。
  3.  したがって信仰・権威ともほどほどであれば、狐と狸のだましあいを本性とした外観的な安定が生み出される(権威の均衡)。

「権威の戦術転化」の端末には、つねに説教者がいる。

説教者はキリスト信徒でありながら、同時にある種の神学に基づくある種の教派およびその指導者・先導者の「擁護者」でもある。いまあるプロテスタント教会の制度では、どの説教者もこの二重の拘束からは逃れられない。

信徒は、「権威の戦術転化」の主体ではない。しかしその程度にかかわらず信仰の紛うことなき保持者であり、しかも財源(献金)と最高議決機関(教会総会など)における第一位の当事者である。

つまり「権威」の二重拘束のなかにいるのは説教者のほうで、信徒は「権威」に拘束されながら同時に教会制度の実質上の権力者でもある、ということになる。
権威1+権威2=説教者
権威1+権力=信徒
しかし、これではすこしバランスが悪い。

そこで、説教者の下に「役員会」なるものを設置する。そしてその招集権と議長権を説教者に付与することで、信徒の動向・傾向にあわせていつでも役員会を擬似権力化しうる可能性を残しておくのだ。
権威1+権威2+役員会=説教者
権威1+権力=信徒
ほとんどのプロテスタント教会は、このようになっているはずである。

日本のプロテスタント教会の教勢沈滞問題の分析の失敗の数々は、このような「権威・権力・擬似権力の配置分析」を手抜きにしてきたからにほかならない。巷間言われる少子化や高齢化などは、すべて二次的な問題にすぎない。

問題のある教会は、上述した2の「権威の拡大」に相当するものが多いと思われる。

「権威の拡大」を意識する説教者のほとんどは、聖霊の体験者ではない。聖霊の体験者には、「権威2」など適用する必要などそもそもないからである。聖霊の体験者ではなく、しかも「権威1(父子聖霊)」の弁証に失敗した説教者の隠れ家は、「権威2」しかない。そこで今度は、その「権威2」によって「権威1」を拡大しようと努めはじめる。

それは、信徒側が抱いていた「権威1」の聖性の劣化をさらに促進する。そのことにはやく気づき離れる決断ができればよいが、日本の風土、村共同体の超克しがたい遺伝子におよその人は屈服し、教会のサロン化に協力してしまう。

この屈服は、譲ってはならない信徒の「権力」をそっくり説教者に譲渡してしまったことを意味する。説教者の安穏と堕落は、そのことの「密やかな発見」から始まっているのである。

たとえば、中古車のベンツ一台分に値する額の神学書を収集した、と自慢する牧師がいる。全部献金ではないかとわたしは訊ねた。すると「そうだ」と答える。なんとも思わないのかと再度尋ねると、「神が裁いてくれる」と返してきた。つまり、「お前如き人間に言われる筋合いはない!」と言っているのと同じである。そんな牧師がのほほんとして牧師でいられるその甘い体制自体に、とてつもなく根深い問題が横たわっているのだ。誰も掘り起こそうとしない。

さて、そこでどうするかだが。。。

方法はいくらでもあるが、今回はエイズで死去した異色の哲学者ミシェル・フーコ(1926-1984)風の解決法をガツーンと一発紹介してみたい。ショック療法である。

フーコは、「ヒステリー患者」を「反精神医学の真の闘士」として讃えることを勧告している(廣瀬浩司『「反精神医学の闘士」と自己の「現実」』2010)。

簡単に申し上げると、ヒステリー患者がヒステリーを偽装するということを根拠に、フーコはヒステリー患者を讃えるのである。

つまり、精神医学者あるいは臨床医が抱いているヒステリーに関する真理とは異なる真理を、開示してみるのである。そうすると医学者・臨床医は、偽装された真理が真理であるかを自問しなければならなくなるだけでなく、自ら抱いていた真理と偽装された真理のどちらが真理なのかも問わなければならなくなる。こうして、無限循環に陥る。そこで、ヒステリー患者は要求をつきつけるのである。ヒステリー患者勝利のそれが瞬間である。

最後に、問題のある教会の信徒方々にフーコの考え方を応用してみよう。

真の信仰者であれば、権威を拡大せんとする説教者のくだらぬ説教は見ぬける。しかし、そこで役員会などに報告してはいけない。くだらない、と感じながらもなるほどなるほどとうなづき心から感服した様子を示し続けるのである。できれば、「先生の説教、とても感動しました!」と笑顔をふりまき、事あるごとにその「すばらしさ」を語り続けるのである。

これだけでもやがて効果は出てくるはずだが、効果をはやめるためには、同時に「献金」を少しずつ少しずつ減額していくのがよい。牧師「謝儀」を減額せざるをえない事態が顕現化したところで、しばらく様子を見る。

説教に何ら変化なく、あるいはなおいっそう高圧的な説教になってきたら、説教に感服した様子を忍耐強く維持しながらも、さらに「献金」を減額していく。

このあたりで、説教者は決断を迫られる。その決断の内容によって、「献金」を元の額に回復する。性懲りもなく再度、権威の拡大にうつつをぬかすようであったら、同じように対処する。

今回はこの程度で。
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