2014/04/17

ニーチェ箴言散策集・私家版 (20)

[ニーチェ] ブログ村キーワード
ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


今回139節の読みどころ
ニーチェの思惟を「質量保存の法則」から読み解く。
全既刊号はカテゴリーからどうぞ。⇒⇒⇒

原文・翻訳からの引用は「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

)))139節(((
In der Rache und in der Liebe ist das Weib barbarischer, als der Mann.
復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である。 
++++++++++

「ウンウン、ソウダソウダ。」とひとりほくそ笑んだり、「バカ言ッテンジャナイワヨ!」と背をむけたりしてこのニーチェの売るような喧嘩口上に過敏に反応してしまいますと、少なくともニーチェとの対決では負け、ということになりそうです。

ここは皆様方グっと我慢しながらニーチェ様に対座し、モグモグモグモグ、賜ったお言葉を黙して反芻してみることが先決です。

箴言は、いきなり読み始めてしまうより、そのぶっきらぼうで気儘な、したがってどこかしらいつも舌足らずでもどかしくも感じてしまう、そんな凹凸あるいは微(かす)かな亀裂が奏でる不協和音に、ご自身の心や体を浸してみる。。。抵抗も反発もせずただただ。。。それだけでも価値があると思います。答え(ニーチェからの応答)を急がないことが、箴言散策のコツであり近道でもあります。

さて当箴言全体をじっと眺めていますと、
・・・と・・・においては、・・・は・・・より・・・である
といった、いわば思惟の抜け殻(外殻)のようなものが前景に迫ってきます。

「・・・は、・・・である」ですと、概念(主語)と判断(述語)からなる単純な全称肯定命題なのですが、それよりも少し入り組んだ構文に、つまり前半部の「主題の限定」と後半部の「価値の比較」によって「暴露」と「隠蔽」を同時に作動させる微弱な内部膨張(内圧)をもった構文になっているのが分かります。もちろんその「内圧」は、ニーチェのこの時の心性です。その心性を通して、以上の構文が統御されているわけです(注)
(注)「暴露」と「隠蔽」の同時(同期)作用のようなニーチェの心性における「内圧」の問題は、明示的では必ずしもないが、ハイデガー『存在と時間』の空間性の領野に放牧され生かされているとわたしは考えている。
その逆、または相互作用(の循環)を記号の「神話作用」として特化したのが、ロラン・バルト(1915-80)でした。ふたりの関心の明らかな差に、時代精神の違いが投影されています。しかしバルトの預言は的中しました。わたしたちは、言葉の自己運動に翻弄されています。結果を偽装してから原因を仮構することなど、今や日常茶飯事なのですから。

原因と結果も怪しいものでしたが、その順位を結果と原因に逆転することで、ついに人間は思惟の断崖絶壁までやって来たようです。投身しますか?それとも来た道を戻りますか?それとも。。。?

本題に戻りましょう。

ポイントは、「隠蔽」されているものが何か、です。

ここでニーチェの伝家の宝刀(とわたしが勝手に述べているだけなのですが)、「質量保存の法則」または「熱力学の第一法則」を適用してみましょう。

そうしますと、箴言のような「女」の傾向を前景にしながらも、もしや後景に「(女の)復讐と恋愛」における「野蛮」と等量の、しかし質の異なる「男」のエネルギーが隠れているにあらずや、という疑惑が浮上してきます。

これでほぼ、勝利の一歩手前までやって来ました。

あとはその「質の異なる、しかし等量の男のエネルギー」とは何か、という問いに導かれればよいわけです。

このあたりで、本書「序言」の冒頭第一文を引用してみましょう。
真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。
初めてニーチェを読んでみよう、と意気込んだ読者の出鼻を挫(くじ)いてしまうような文言になっています。

結論から申し上げますと、ニーチェ自身は「真理は女である」「女は真理を生きている」と真摯に考えていたように思われます。

それではいったい男はどうしたのか、何をしているのか。。。ということになるのですが。

男は顔かたちこそ微妙に違え、ただ「認識(主観)と対象の一致」、という古色蒼然たる伝統的な「真理観」からまったく抜け出られていないばかりか、そのことに気づいてもいないではないか、ということになります。それも二千年以上も。。。ということです。

この「恐るべき真面目さと不器用な厚かましさ」(同書「序言」)に比べると、言葉のパズルのような真理の真・偽判定などにうつつをぬかす「男」を尻目に、「復讐」と「恋愛」において「野蛮」を見せる「女」のほうにこそ、「生」の原像(Urbild)の謙虚な姿を見い出すことができるではないか。

どうもニーチェは、そのようなことを直観していたようです。

もちろん、女性を侮蔑、蔑視した箴言でないことは言うまでもありません。そのように理解される運動(活動)家もおられるようですが、やはりその抗論は少し土俵が違うのではないか、とわたしなどは思います。あしからず。

(2008年06月11日 記)

追補:ニーチェが生きていたなら、小保方さんを援護すると思いますよ、きっと(笑)。(2014.04.17 洗足日)
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