2012/11/23

教会は自死(自殺)念慮者を救えるか?

(以下の記事は、2011.04.03、に書かれたものです)

「自死(自殺)」に関する日本のキリスト教全体としての見解には統一性がない。またその研究・対策も、かなり遅れている。説教者たちのなかには、なにがしかの精神疾患が関与した「自殺」は「病死」である、と判断して憚らない方々も、いまだおられるようである。

あるいは、神をどこかで拒否していたからではなかろうか、といった戯言(たわごと)をもっぱらとする説教者もおられる。なんという残酷な神学であろうか。。。

精神疾患の究極的な原因が、今やドパミン・レセプター(神経伝達物質の受容装置)の異常だけに帰することができないのは、世界の常識である。

ドパミン・レセプターの異常は、当人の総合力や構想力の異常と時を同じくして起こる。精神疾患が、病理学的現象でありながら、同時に現存在の存在論的・時間論的な現象でもある点を見落とすと、さらに悲惨な結果を招くことになる。

この問題に対する有識者・研究者・フィールドワーカー方々の躊躇(ためら)い、怯え、そしてなによりもみずからの恒常性への執着は、尋常でない。


周知のように、年間自死数が三万人を超えたのは1998年である。以来昨年までの13年間、三万人を下ったことはない。すでに四十万人を超えている(注)
(注)この島国の自殺者に関する最新の統計資料としては、「2009年度中における自殺の概要資料」(警察庁生活安全局生活安全企画課 2010年5月 表紙・目次を除き全28ページ)があげられよう。「資料」全体は、こちらから閲覧することができる。
最新の自殺予防(Preventing Suicide)策に関しては、WHO(世界保健機構)から各種翻訳版(日本語版あり)が公開されている(→ここから)。日本語版は、横浜市立大学医学部精神医学教室によるもので、九種ある(日本語翻訳2007年版)。どの論文の緒言にも、『シジフォスの神話』において言及されたアルベール・カミュの、「自殺は唯一深刻な哲学的問題である。(it is only serious philosophical problem.)」、という一節が引用されている。ようやくにして哲学の領野において、「自殺」がまっとうな主題として取り上げられることになったか、という深い思いを禁ずることができなかった。

各界各層における夥しい数の議論、対策、立法、施行が行われ、そして莫大な予算も投じられてはきた。しかしひとりひとりの自死(自殺)者は、まるで嘲笑うかのようにして、それら平面的で幾何的な形而上学的言説・諸策一切の網の目を、いとも簡単にくぐり抜けてきたのである。そして今なおくぐり抜けている。

家族縁者知人にまったく悟られず、完遂してしまう場合も多い。

そうして人は、「なぜ。。。?」、と問う。

この問いが「答えのない」問いであり続けてきたことをどこかで了解しながら、しかしやはり「なぜ?」、と人は問う。


だが問うべきは、むしろ生き残りえているわたしたちが無限循環させてきたその問いの本意自体ではなかろうか。


「なぜ」という問いは、たしかに問われている事象を問うている者に引き寄せはする。だが同時にこの「なぜ」は、問うている者を含むその他一切のものを密かに遠ざけてもいるのだ。実はここに、「なぜ」という問いの本義が隠れている。

極端な喩えで換言すれば、動物園のライオンにわたしたちが近づくことができるのは、頑丈な「柵」のおかげであるが、「なぜ」という問いは、この「柵」にも相当する。なければ、近づく者は誰もいない。

この「柵」はいったい、誰のための何なのか。

そう、「柵」の外側にいるわたしたちのための命(恒常性)の保証である。

わたしたちはいつしか、同じ人間を時にライオンに仕立て上げ、みずからを堅固に保護したうえで、当事者に関与するように変質してしまったのではないか。自死(自殺)念慮者たちは、そのことを見通し、まさに見切ろうとしているにもかかわらずである。

彼・彼女たちの孤独が平静静寂あるいは極端な多弁を装うのは、それがためでもある。「やっぱり。。。」と言う人は極少であろう。大半の親族・縁者・知人は、「えっ!?」と反応する。見透かされていたのである。


いずれにせよ、この恒常的な王国からのただ一度限りの彼らのデモーニッシュな亡命選択を撤回させるのは、至難の業である。

それはたえず、関与者自身の存在体制・存在機序を当事者に晒しつづけなければ本来成立しない危険な作業であるからだ。

冒頭述べた有識者・研究者・フィールドワーカー方々の躊躇い、怯え、自らの恒常性への執着は、その危険への当然の予知反応なのである。

これまでのあらゆる調査・統計・分析・評価・言説・方策・対策等が、「自死(自殺)」を主題としながらも、生きてある我が心魂の防衛策を密やかに論じてきたも同然なのは、それがためである。


前置きが長くなったが。。。

2011年3月29日、同志社大学神学館において、「日本基督教学会」近畿支部会の研究発表会があった。

心身の具合を鑑み参加を諦めていたが、予告されていた多くの研究題目のうち、関西学院大学の研究者チームによる次のようなパネル発表が予定されていたため、5時間の往復路を忍ぶことにした。
『日本プロテスタント教会教職者への「自死に関するアンケート」の結果報告』土井健司 榎本てる子 井出浩 李政元 
資料は、レジュメではなく、「抜刷」であった(『神学研究』第58号収録論文 関西学院大学神学研究会 2011年3月)。
個別研究発表の場合、通常二十分程度であるが、四人方の共同研究ということもあり、都合一時間にも及んだ。四人方それぞれからの発表であった。

全容については、上掲論文をご覧いただきたい。以下、会場にいたわたしの印象だけを素描しておく。


きわめて貴重な、しかも勇気あるフィールドワークではあった。主題の重さは、四人方の慎重な語り口からも、じゅうぶんに感じとることができた。

題目にある「教会教職者」とは、主にプロテスタント教会の「牧師」を指している。今回のアンケート調査は、兵庫・京都・大阪教区の教職者のうち501名に限定されている。回答があったのは、124名。回収率24.7%である。

この回収率の低さにわたしはまず驚いたが、特に説明はなかった。以後の詳細な数値分析は、あくまでもこの極端に低い回収率に基づいて行われたものである。

分析報告を拝聴しながらわたしは、むしろ75.3%の教職者に思いを馳せていた。教会員をも含む教会関係者ならびにその家族のなかに、自死者がまったくいなかったからであろう、と弁護するのは不自然である。自死でなくとも「死」一般について考えない教職者など、いようはずがないからである。

したがって、75.3%の教職者(牧師)の大半は、今回のアンケート調査を意図的に回避したか、嫌忌したか、破棄したか。。。つまりは、なにがしかの基督教教理・教義の牙城に籠城しながら、回答しないという方途を通じて、アンケートの無意義性を積極的に主張した方々である、と解釈するほうが自然であろうとわたしは感じた。


回収された個別的な「問い」への24.7%の応答結果が、そのことを如実に示している。その結果からは、「福音」を説く教職者(牧師)の戸惑いと動揺と狼狽と無策と諦念しか、わたしには読み取れなかった。

なかでも、「問14 自死はキリスト教の教えに反していると思う(か)」と「問23 自死の予防・防止について、本人あるいはそのご家族からの相談を受けたことがありますか」の結果は、注目に値する。

「問14」の結果は、教職者の年代別により、みごとなU字型を描いている。

40代50代の教職者に、教理・教義との関係において有意味な戸惑いと動揺が見られ、30代→20代ならびに60代→70代になると、教理・教義が優勢になっている。

このU字型の結果をふまえ報告者(土井健司氏)は、暫定的に次のような課題を提示している。
第一に一体生命はだれのものかという生命論、第二に伝統的解釈を考慮したうえで十戒の「殺してはならない」の意味、第三に生命・いのちと福音の関係、少なくとも以上三点につていの神学的考察が必要となろう。(上掲論文第2節参照)
これでは、冒頭述べたように、教職者(牧師)の防衛論にしかならない。

U字型指標は、このような「防衛論」が当然の如くに生い立つ先入見への自覚と、その存在論的な解体・放棄をこそ何よりもまず要請しているのではないか、とわたしは思っている。

「問23」への応答結果を見れば、なおそのことが分かる。

報告者(井出浩氏)は、次のように言及している。
自死に関する相談に対して、まず聞く、という意識を持っている教職者が多いことが示された。・・・中略・・・。しかし、(専門家・専門機関への)紹介あるいは連携について記載された回答は半数に達していない。(同上、( )内アノニマス)
なんとも不思議な結果である。

あえて申し上げると、自死念慮者からの話を「聞く」には聞くが、それも我が身が保たれる限りにおいてであり、度が過ぎると、専門家・専門機関の援助を積極的に求めるべきときに祈りの中に籠り、自死念慮者を放置する教職者もいた、ということにもなる。

「聞く(聴従する)」とは言うが、そもそもの真意を分かっていないのではないか、と思わずにはいられない。

「聞く(聴従する)」とは、半端な仕草ではない。喩えれば、ミイラになることを承知でミイラとりになること、これが「聞く(聴従する)」ということである。できなければ、できない、と言えばよいのである。そして教職の資格を返還し、世人に戻ればよいのである。誰も責める者はいないはずである。厚顔無恥にも居残ろうとするからこそ、責められるのである。死人に口なし、に安住してもらっては困るのである。


わたし自身は、死人には口がある、と頑なに感じてきている。

まことしやかに申し上げると、死人は絶えず語っているのである。ではなぜその語りが、わたしたちには聞こえないのであろうか。。。


それは、聞こえない程度に応じて、わたしたちの存在体制・存在機序が安定的に循環しており、したがって無自覚にもつつましやかで平安な恒常性にも満たされているからである。教職者・聖職者においても、然りである。その限りにおいて、死人には口がない。

しかしひとたび、なにがしかの危機(クリーゼ)に落下すると、その時間の恒常性に亀裂が走り、ついには断裂して、その谷間のここかしこから、デモーニッシュな死人たちの誘うような億万の語りが聞こえてくるのである。

多くの自殺念慮者、多くの自殺未遂者が体験している、そして多くの自死者が体験してしまった、それが根源的な世界現象なのである。段階的で予告的な場合もあるし、突発的で発作的な場合もある。


肝要な点は、このように単独化された世界現象と、誰のものでもない公共的な解釈に担保される恒常的で比較的安定した世界現象とが、いわばコインの裏表にすぎないことへの深い存在論的な観察と洞察を、まずは優先させることにある。未遂者の「体験」にひれ伏し学べ、ということに尽きる。

そのうえで、その観察と洞察の累積集積を忍びつつ、単独化された世界現象の渦中にいる当人の関心圏内に突入するディヴァイス(工夫・方途・装置)を開発し、構築し、散布する広域な営みを、わたしとしては強く望みたい。

向谷地生良(むかいやちいくよし)氏が関与しておられる「べてるの家」の実践例なども、参考になろう。統合失調症者同士だけでなく健常者との間においても、それぞれの世界現象が豊かに共有されているのがよく分かる。どのようにして、そのようなことが可能になったのか。。。

向谷地生良氏には、神学者パウル・ティリッヒとの邂逅があった。そのパウル・ティリッヒの『組織神学』の礎石は、未消化な部分はあるものの、ハイデガーの存在洞察であった。


わたしの立場からは、ハイデガーの次の叙述を最後に引用しておきたい。
「ぶらぶらしている」ことは一つの実存論的な存在様態なのである。すなわち、すべてのことのもとに配慮的に気遣われずに無配視的に滞留していること、したがって何ごとのもとにも滞留していないことなのである。(『存在と時間』第一篇第四章第二十六節 原佑訳)
なんというデモーニッシュな叙述であろうか!

恒常的な時空間からずれ落ちて旋回し続けている者の孤独が、ここにある。

真理は、山積みされた書籍のなかにはないのである。

十五年前、すでに数度にわたる未遂体験者となっていたわたしを救ったのは、多くの未遂体験者の文法の壊れた「体験」談であったことを、申し添えておく。その仲間の訥々たる「語り」が、鎧のようなわたしの心魂の扉を開錠してくれたのである。奇跡、としか言いようがない。

『使徒信条』に牽引される礼拝説教が古代ギリシア哲学のエピゴーネンであるかぎり、、自死(自殺)念慮者の心魂は固く扉を閉ざし続けるであろう。

(以上の記事は、2011.04.03、に書かれたものです)
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4 件のコメント:

ryohco-edona さんのコメント...

『自死』と『自殺』について私の見解をひとつ。
自殺についてのtwittを見たので私の意見を。この所自殺ではなく『自死』と表現を変えようという動向。造語が氾濫する中、それは違うと思う。自死は餓死等の原因や不可抗力により死亡したもの、自殺は何らかの手段を使用し自分を死なす行為。まったく本質の意味が違う。
と以前Twitterにて書いたことがあります。

これは恐らく精神分析や医学的な観点の捉え方でしょう。

しかしこの神学観点からの記事での、精神的な病巣からの死は、病死という捉え方は間違っていないと思います。
確かに死に至る過程には、先に肉体が病んで精神が病んでしまう(反応性うつ状態)のか、精神が先に病んで身体機能が低下し肉体が病んでしまうのか、どちらか一つだけが問題となって死んでしまうものではない場合があるでしょう。

ただ神学教会でのアンケートで、何とも答えかねた理由は、やはり『自殺』の衝動に駆られる概念が『神学的観念』でしか計れない故、聞くことしか出来ないが本当の答えなのではないでしょうか。
では、神父はどのように対応したら良いのか?という議題そのものが愚問にならぬために、気付くべきことは一体何かです。
それは『聞くに徹する』ならば、心から相手の心の叫びに耳を傾けて、耳と心を澄ますことに解決の糸口(神学者にとっての)があることでしょう。

ただ聞いてくれるのなら道端の石でも夜空の星でも何でも独り言を言えば良いのです。
しかし求めてくる念慮者は、最後の温かさをその相手に求めています。
『心の毛布』を与えることこそが、神父の役割ではないかと思います。

実質的な効果を与えられるのは医師しかありませんが、その医師でさえ薬剤とカウンセリング、心理療法を駆使しても救えない命があります。


昔から精神科域では、時に信仰が精神を安らげ病気を救うものになる、と言っています。
それはどんな優れた医者や薬剤にも勝るとも言います。

そう云った観点からも神学者は『出世』に捉われず、また神学だけに目を向けるのではなく精神医学の概要だけでも少し勉強されては如何かと思いました。

An さんのコメント...

率直なご意見に感謝します。

「自死」と「自殺」は違うというご意見、よく理解できます。ただ、情報操作の主導権がわたしたちにはありませんので、従来の「自殺」の意味が「自死」に包摂されていく趨勢自体を阻止するのは、困難かなとも感じます。たとえば「経験」と「体験」は、わたし個人は全く違うもの、と今でも考えていますが、いつのまにか「体験」の生々しき意味は、「経験」というドライな表現に包摂されてしまっています。「体験」と言うべき時に、人々は平気で「経験」と言うようになっています。わたし個人でこの趨勢を阻止することはできません。

二点目ですが。。。

身体的な病気と精神的な病気の前後関係について。わたしの立場からは、見えようが見えまいが、同時に起こっている、と考えています。どちらかが原因でどちらかが結果であるという考え方は、じゅうぶん理解はできますが、今のわたしにはありません。精神疾患をかかえた方の「自殺」を「病死」だ、と断定する牧師には、やはり同意しかねます。

最後に、信仰者は精神医学の基本を学んでおく必要がある、というご意見には同意します。ただ、日本にプロテスタント系キリスト教が移植されてすでに150年がすぎています。それでこの状態です。日本には約8000の教会があります。指導者は1万人を越えています。自殺問題に関しての指導者の無関心は尋常ではありません。

今はほとんどの教会が財政危機に直面しています。信徒が減少しているからですが、指導者たちの関心が自殺問題に向けられることは、全体としてはなかろう、とわたしは絶望視しています。教会は中産階級化しています。たとえば、日雇い労働者たちの姿を教会で見ることはほとんどありません。

イエスは、短い期間でしたが、最初から最後まで荒野で、社会からはじかれた人々とともに食し苦しみ励まし行動しました。イエスの信仰とふるまいは、まったく現代のキリスト教指導者のふるまいとは異なります。

回答になりましたかどうか、無礼がありましたらお許しください。

コメントありがとう。

ryohco-edona さんのコメント...

少し言葉足らずの部分があったようで、すみません。
『精神と肉体は連動している』
これを書き足さねばと思いつつ書き損じました。

私の記憶が悪くTwitterで呟いた事なのか、ブログに書いた事なのか、自分だけの日記に書いた事なのか探しても今見つけられませんが、頭の中に残っている言葉をご紹介します。

『死因』を問題視するのは死んだ人間ではなく、実は残された方にあるのだ。
ただ死ぬ人にとって、遺書を残すか残さないかは大問題であり、生きた証や死に逝く思いを知らせたいかどうかに向き合わなければならない。
その最期の仕事は唯一自分の為だけに成すことに過ぎない。それはこの世から去る自分と向き合う最期の瞬間だからだ。



生ける者、死に逝く者のその後を考えていた時、こんなことを思いふけった事がありました。
キリスト教会でもお寺でも、あの世へ送り出す人たちに(神父、住職)一番勉強して欲しいと思う事です。

無礼なのは私の方かもしれないと感じてしまいます。

An さんのコメント...

少しも無礼なことはありません。

これからも、ご遠慮なくご意見を展開してください。ありがとう。