2011/12/06

足場の解体

A・B・C。。。と組み立てられた足場は、Z・Y・X。。。と解体する。

それ以外方途のない厳粛な形而下的出来事が、そこには起きているのだ。

スコップひとつ持ったことのない教職者(牧師以上神学者まで)には、終生分かるまい。


マルコ10章31節(マ19章30節)を敷衍した説教を十ほども読めば、小道具をわんさかと集めたその形振りかまわぬナルシズムに、そら恐ろしくなってくる。

しかし信徒は、馬鹿でない。それを子守唄に編曲してうたた寝する技に恵まれているのだ。

想像するだけでも、楽しい光景ではないか。。。


ところで、イエス(とおぼしき人)のこの言説は、イエスにとどまらず、ユダヤ人・ヘブライ人、さらにはセム語族に所属していた人間固有の、「世界の生成と消滅」にまつわる時空間洞察の一端である、とわたしは読んでいる。

なぜそう読めるのかを一言で申し上げれば、イエスの「現存在分析」というデヴァイスを、わたしが全くに受容しながら福音書を読んできたからである。

イギリス・ドイツ・アメリカの怪物のような神学に盲従してきた日本の教職者には、許されていないデヴァイスである。

今や、「神の子」なる枕詞の「前史」を眺めやり、そこからTestymony(証し、信仰体験)を紡ぎ分有することの必要を、多くの無名の信徒たちは感じ始めている。その実践は、自給自足しながら、すでに全国に点滅している。

そこに牧師は、ただの一人もいない。礼拝もない。会員名簿すらない。必要経費は、可能な限り割り勘。そして全員に苦楽こもごもの「語り」の時間が割り与えられる。。。

素晴らしいではないか。

降る星の如くなれかし。。。とぞ思う。