2012/05/04

復活証言とは何か?その土着性

復活後のイエスの言動に関する福音書の記述は、原始教団教派の教書的創作である、とまずは申し上げておきたい。

復活したイエスの言動を三人称で描きえた筆記者は「全知(Omniscience)」である、と考えるのが物語論(Narratology)の常識だからである。

むしろ問題は、福音書筆記者が書き留めた素朴な「復活証言」のほうにある、とわたしは考えてきた。
{X(イエスの復活)+を見た}=復活証言
これだけのことである。

二千年近くも飽かずに騒ぐ所以など、そもそもどこにもないとは思うのだが。。。

「復活」論議のほとんどが、当事者たちの死生観や宗教観ひいては世界観全体のあられもない代理戦争に堕してきたことを聞き知れば、もしや、陳述や判断に比し劣れる言語行為として「語り」を認知し排除する西欧形而上学の、強靭かつ執拗な抗体反応それ自体の仕業では、と思いたくもなってくる。


「復活証言」に関わる福音書の記述は、どれもこれもまことに素朴なものである。

「語り」の素朴さは、証言者の通過した(not experience but going through)なにがしかの内部体験自体に接触し続けていることはもちろん、いまだそこから完全には脱け出ることができないでもいる、といった不穏な時間の緊張に干渉されている限りにおいて担保される。干渉から逃れた者あるいは隠蔽する者の「語り」は、その凡そが多弁である。

ハイデガーはときおり、わたしたちの理性的思惟から絶えず零れ落ちるこのデモーニッシュな存在状況あるいは様態を、土着性(Bodenständigkeit)、と呼ぶ。

要は、事後的で継起的な言語分節の可能性を孕みながらも、その実現一切に先立ちそのつど全一的・同期的に開示してしまっている奥行きある現象(出来)の自体性・自生性を指示したもの、と解することができる。

この現象(出来)の自体性・自生性の渦中にあること、またはそこに癒着していることが、いわゆる「体験」の様態である。自体性・自生性が枯渇する度合いに応じて、「体験」はしだいに脱「体験」化される。そしてついには、多弁な言語分節の全き餌食となり、額縁の中の絵画のように、想起・表出自在な軽量の対象として事象化する。それが、「経験」の様態である。

「復活証言」が真証であること、つまりはなにがしかの「体験」に結わえられていたこと、の証明(論証)は、それが証明(論証)であり続けるかぎり不可能である。

このことに誰よりも気づいていたのは、「復活証言」をそのままギリシア由来の背理法に組み込んだパウロ自身である。

パウロ書簡を時間軸に沿って眺めると、「体験」への言及がしだいに薄れていくのが分かる。それと同時に、「復活」が「証言」から切断されて概念化し、以後特有の強烈な神論・キリスト論が展開されることになる。不完全な背理法の破綻が、弁証の転回を促したと思われる。

本意ではなかったであろうが、ヤハウェの座をゼウスに譲らなければキリスト教が守れなかったところに、時の人パウロの深い苦悩があったのであろう。


以上不親切な素描ではあるが、「復活」はあったかなかったか、という問い立て自体の愚かさがお分かり頂ければ、今のわたしとしてはそれでじゅうぶんである。

わたしたち現代人は、それぞれの「復活証言」がそれぞれの「体験」に舫(もや)われた真証であるのかどうかを、すなわち「復活証言の土着性(Bodenständigkeit)」なるものを、感じ、洞察し、見極めることがもはやできないところまで、「進化」しているのかもしれない。

情熱的に「復活」を説く説教者も、例外ではない。

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