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2014/04/15

'Once-born'と基督教/キリスト教教育の限界

[教会学校] ブログ村キーワード
「教える側」のことではなく、「教えられる側」のことを書くつもりであった。

。。のだが、「教える側」に関する異変が報道されていたため、冒頭その記事に一言触れてから本題に入りたい。

CT(Christian Today)4月7日(11時08分)付で配信された次の記事がそれである。「見出し」だけで、内容の深刻さが伝わってくる。
キリスト教学校教育同盟が調査、教員に心因的支障事例「ある」 小は35%、中高は58%
とんでもない数値の高さ!である。

2014/04/09

「ふつう」の人はふつうに福音書をこう読みます

[福音書] ブログ村キーワード
US Repository(上)
当該論文標題部分(下)
::教団・教派・諸施設の指導者や先導者たち、そしてその神学的・牧会的・宣教的・財政的ブレーンとなっている学者(聖書学者・神学者など)やスポンサー(個人・企業)といった生き物は、一般信徒の面前に再三再四登場するものではない。いつも啓蟄(けいちつ)のない薄暗い舞台裏で、なにやらごそごそと離合集散を画策するのが、彼らの仕草に見受けられる典型的な性癖である。

右派、左派、中道派とは名ばかり。危機的な状況に陥れば、どこもかしこも暗闇ではなりふり構わずだ。青学に逃げ込んだ助平(が悪いとは思わないが)親爺といい、新書印税ごときに学者の魂を奪われた姜尚中氏を隠れ蓑に暗躍する知られざる大資本の牙城聖学院の黒幕、謎の老神学者の野望といい、隣人愛もへったくれもなさそうである。

舞台に華々しく登場する宣教師や伝道師や牧師や関連施設教師などは、彼ら暗闇のドンたちそれぞれが抱くてんでまちまちな思惑を実現するための一兵卒にすぎない。そのことに気づいている者たちは、最前線で接する一般信徒をうまく誑かし、みずからを悪者に仕立てあげてでもその場をうまくやり過ごす巧みな処世術を身につけてはいるようである。それはそれでよかろう。

2014/03/21

都道府県数をしのぐ勢い!

50?なんのなんの、もはや100に近づくかと推測される日本プロテスタンティズム下の分派状況。

都道府県だけがあって政府のない日本、といった感じにやはりなってきましたね。

それでいて、これは異端です、あれとは関係がありません、な~んてまだ書いてある。

わたしどもは単立教会になりまして、というのがトレンドらしい。怪しいねぇ、これも。

こうなると。。。第二バチカンを仮作し統合するっきゃないかにゃあ。これあちきの予想。

今日の講義は、これでお・し・ま・い。

追記:よろしければこちらもどうぞ。キリスト教教派教団を斬る!実在論(der Realismus)

2014/03/16

「使徒信条(信仰告白)」汚染度を10秒で測定!

いきなり問題です。

ママチャリの荷台に幅20センチ、長さ30センチ、高さ30センチの箱状の荷物が載せられています。中味は壊れやすい瀬戸物の食器類。ひとつひとつ新聞紙でしっかりとくるんで詰めてあるのですが、箱ごと荷台から落ちると全壊する可能性があります。でこぼこの比較的少ない平坦な道を疾走しながら、片道15分の距離までこれから無事運びたいと思います。皆さんに与えられているのは、直径2センチ、長さ1.5メートルのやわらかいロープ一本だけです。荷台の大きさは、長さ30センチ、幅20センチです。

さて左の問の正解はどれでしょう?正解だと思われる「投票」にチェックをしてから「投票する」ボタンをクリックしてください。横棒グラフとしてすぐに反映されます。制限時間10秒。ハイ!どうぞ。

「正解」とあなた様の「汚染度%」は、続きを読んでご確認ください。

2014/03/13

先生、なぜそんなに絶叫するのですか?

[キリスト教] ブログ村キーワード
自分の写真::昨夜はちょっと無理をして牧師説教動画を一本、最後まで聴いてみた。直近九日の礼拝であった。リバイバル派っぽい。一時間弱。。。

視聴してから三十分ほど経過したあたりから、「正」の字で「教会」という単語をカウントし始めた。

しかしながら説教者が次第に興奮しだし、「教会を渡り歩きながら品定めする者」や「すでに離れてしまった者」などが、いくら信仰を捨ててはいないと言っても天の国に入ることはなく、永遠に燃えさかる地獄におちるのは間違いない、と激しく攻撃しはじめた。

2014/03/12

ネット配信だけなら猿でも出来るのですよ、先生!

[キリスト教] ブログ村キーワード
自分の写真::礼拝説教ヲソノママ「ネット」デ配信スレバ、大キナ効果ガアルカモ。。。

なんぞという夢のようなことを考えては、性懲りもなく次から次へと無駄に動画をアップする牧師が急増しているようだ。まったくネットの仕組みが何も分かっていない。ハッキリ言って、今のやり方では逆効果なのだ。

久方ぶりに膨大な数の中から、あれこれ何本か、億劫な気持ちを我慢し、のぞいてみることにした。

2014/03/09

愛するシスターからの賀状への遅すぎる返事

[キリスト教] ブログ村キーワード
自分の写真::愛する姉上様へ

前略

本年も片道行きになることをご承知のうえ、わたくしの寝どころ宛を御自筆で賀状にしたためて頂き、恐縮しております。

おひとこと、「元気でおられることでしょう。」、とお書き頂きました。

2014/03/08

「杣道(そまみち)」に無頓着な能面キリスト者たち

[キリスト教] ブログ村キーワード
自分の写真::「杣道(そまみち)」とは、何処(いずこ)に行き当たるやらまこと心もとなくて森の中に自生する小道のことである。みずからの姿を草木に覆わせながら、森の精を放つだけでわたしたちをここかしこに誘いもし迷わせもする禁断の道。

もちろん成人になると、そんな道があったことなどすっかり忘れている。発見するのはいつも子供か、子供に逆戻りしてしまった孤独な大人たちだけかもしれない。

おそらくわたしは、そのような子供または大人のひとりなのであろう。

2014/01/15

牧師を見極める!

[キリスト教] ブログ村キーワード
[教会] ブログ村キーワード
キリスト教の歴史
キリスト教の歴史
posted by 
(C)カマスキー
ご承知のとおり、「教会は(S)キリストの体である(P)」という幾分威圧的なこの表現は、「コロサイの信徒への手紙」第1章に基づき彫琢されたいわゆる「全称肯定命題(S-P)」である。

しかしながら現代の聖書学の常識は、「コロサイ」書簡自体をパウロの真筆とは認めていない。簡単に言い切ってしまうと、パウロの威を借りた後代の手による「コロサイ」書簡の叙述を、さらにその後の動乱のさなか誰とは知らぬ誰かによって「命題」という金型(かながた)に流し込み整形され、そうして殊勝にも今の世まで生き延びてきたものである。

もちろん、火のないところに煙は出ない。

その火種が、真筆と鑑定された「ロマ」書(12. 4-8)であり「コリント」前書(12. 12-31)であったのだ。「コロサイ」書簡ならびにその叙述の「命題」化は、時代の切迫が要請したいわばフライングとも考えられる。分からないではないが、フライングはいかなる競技・レースと言えども、この人の世ではやはり違反であり失格と判定される。それが黙過されてきた。キリスト教と癒着した西欧の思想・哲学・文化・文明・歴史・伝統とは、そういった類(たぐい)の数えきれぬ不条理の堆積のことにほかならない。西欧人を至福と絶望に引き裂く、それが根源的な要因なのである。

2014/01/09

失敗した「受肉」

自分の写真残念ながらこの島国のプロテスタンティズムの先導者たちは、「インカルチュレーション」という主題についてあまり多くを語らない。

あれよあれよのうちに、今や空恐ろしいほどの数に分裂してしまった教派・教団傘下(さんか)の、またこれ色とりどりに乱舞して止まぬ諸教会の、そのまた会員であられる一般信徒方々が、この言葉の意味はもちろん言葉自体を知らなかったとしても,おかしくもなんともない。教会に通わない受洗者であるわたしが言うのもなんだが、生活の糧のほとんどを信徒の献金に負っていること、そのことを微塵も疑ったことのないちょっとお洒落だが金銭感覚の完全に麻痺した拘禁症候群気味のオーガナイザーたちに、やはりその責任はある。

2014/01/08

対話篇

自己制御を放棄した人たちは、
それ自身不正ではないが、不正を行う
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』高田三郎訳)

(とある街中でばったり会うふたり)

おやY君、どうかした?浮かない顔して。

―あぁ、X君。

悩み事?

2014/01/06

Release yourself from the Credo!

Mr. An...how do you consider the serious situation of Japan Protestantism from phenomenological viewpoint?

自分の写真
著者An
An;
You know, the westernized mindset compels people to consider a problematical situation a starting point of discussion. As contrasted with it, Phenomenology sticks to the facticity that all things are over when matters appear to the surface. It is because a circumstance in question is not a starting point but a goal line for phenomenology. If once anybody regards a problem as a starting point, he and she will automatically transform the problem into object for their own cognition, which is the 2-dimensional representation set up by conciseness. It follows they are starting to discuss with each after having gone away from the problem itself. But the problem itself, you know, is now happening in the midst of the 3-dimensional world. So it is not likely they will be able to solve the problem by such a westernized mindset. I think this is one of factors that make many discussions over Japan Christianity go around in circles.

2013/12/24

クリスマスに見る夢

その誕生からしてすでに飽きるほど多くの推理に弄(もてあそ)ばれてきたイエスですが、わたしなどは、一滴の海水もないそんな推理の大海をよくもまあ真顔して泳げるものだなあ、とむしろ同じキリスト者のほうをみてがっかりしてしまうことが正直あります。

聖書は夥しい数の人々の手からなったまことに幼気(いたいけ)なる、しかしあくまでもおとなのメルヘン。このようにぼつぼつ割り切るべき時代がこの国には来ているのかなぁ、と思ったりも最近はします。

それはわたしたちの体験しているそのつどの未踏の世界が、真実を明かすこと語ることは常に正義であるということを、これまでのようには必ずしも気前よく証ししてくれなくなっているからです。メルヘンでないと触れられない象(かたど)れない真実、そんなものがたくさんどこか近くに眠っているような気がします。

奇々怪々な世界をひとしく真顔で説得するのはとても危険です。豊かな果実に恵まれることもないでしょう。

ここはひとつメルヘンの世界にどっぷりと浸れるような奇想天外な情報発信がこの島国津々浦々の教会から、音もなく降りしきる粉雪のように目ざとくも隈(くま)なく、国内外の孤児・孤独者たちの冷たい窓の隙間めがけ届けられるそんな奇跡の風景を、ぼんやりとした夢の灯りの中に透かしてみたいと思います。

せっかくのクリスマスなのですから。ネッ!

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2013/12/08

日本語ならぬ日本語


An onymous 子供に甲冑を着せたかのような不恰好で大仰(おおぎょう)、かつどこかしらとぼけたような文章を専らとするわたしが言うのもなんだが。。。いくら元は異国の宗教だからとはいっても、日本語で日本語を侮辱するようなテキストがよくもまぁ公的文書(もんじょ)として認められたものだなあ、とあきれた、と言うよりも感心した。

日本基督教団公式サイトの「お知らせ」(2013/12/03)『日本基督教団伝道推進室 「伝道礼拝・伝道集会等への説教者・講師派遣制度」開始のお知らせ』が、それである。

内容自体については、特段わたしから申し上げることはない。またそういった立場でもない。

わたしが気になったのは、その日本語である。

次の箇所が「あきれた/感心した」の発端である。

2013/10/24

西欧人の斜陽


An onymousジェラール・グラネル最後の刊行テクスト「実体から遠く離れて、どこまで?」(カント以降の思考の存在論的ケノーシスについての試論)(1999年)に対する読解試論「全体の無なることの信」(2001年)の5においてジャン=リュック・ナンシーは、グラネルのテクストの最終部を引用している。
何ということだ!反対に、神的な創造という発明物が、<存在>そのものの純然たる有限性のなかにある恐るべきものを前にしての、われわれの側の逃避にすぎないのだとすれば?(本テクストは『脱閉域 キリスト教の脱構築1』に全文収録 大西雅一郎訳)
まさにグラネル渾身のエクリチュールであり、「語り(証し)」でもある。

それに比し、引用者ナンシーの筆はじつに重い。

わたしなりに約めると、「ある恐るべきもの(ヌミノーゼを喚起する対象や体験)」から「逃避」するため(フロイトの言う補償作用として)人間みずからが「神的な創造という発明物(神話であろう)」を作為した。。。ということになろうか。

あのウィリアム・ジェームズも、このあたりにためらい傷をいくつかもっていた。モーセの顔を覆った布との類似性を強くもちながら、あえてハイデガーが「無」と表現せざるをえなかったのにも、同じ拍動が感じられる。その他西欧の先達たちはとりどりの身振りを示してきたが、そのほとんどがケノーシス(神の自己放棄)の問題に逡巡している。

あぁ。。。キリスト教一切の歴史とともにその魂を彫琢(ちょうたく)する以外なかった、したがって絶えずヤヌスたる唯一絶対神の統合失調と暴走を警戒しなければならない慢性的緊張を強いられてきた西欧人のパラノイア的苦悩は、四方を海に固く守られてきた極東を生きるわれわれの予想などをはるかに超え出てしまっている宗教的閉所の恐怖から現象しているのである。

したがって日本のキリスト教指導者の教条主義と平和ボケと劣化は、キリスト教信仰などとは一切関係なく、ただ彼らの宗教音痴が垂れ流してきた非奇跡の不法投棄の累々たる堆積と一対のもの、とみなすべきである。こちらは、干からびてもう剥せないのだ。それでも黙過の特権を得ているのが、日本のキリスト教界である。

2012/11/23

教会は自死(自殺)念慮者を救えるか?

(以下の記事は、2011.04.03、に書かれたものです)

「自死(自殺)」に関する日本のキリスト教全体としての見解には統一性がない。またその研究・対策も、かなり遅れている。説教者たちのなかには、なにがしかの精神疾患が関与した「自殺」は「病死」である、と判断して憚らない方々も、いまだおられるようである。

あるいは、神をどこかで拒否していたからではなかろうか、といった戯言(たわごと)をもっぱらとする説教者もおられる。なんという残酷な神学であろうか。。。

2012/11/17

キリスト教教派教団を斬る!実在論(der Realismus)

(以下の記事は、2011.02.03、に書かれたものです)

中道基夫氏(関西学院大学)は、「日本伝道論に関する書評」(日本基督教学会編『日本の神学』No.46、2007)のなかで、近藤勝彦氏ならびに山口隆康氏の著作に触れ、次のように述べられている。

2012/05/22

神学問答「あたりまえ」対「あたりまえでない」

「あたりまえ」になってしまったことをとりたてて述べる、ということはほとんどない。彼らが誇らしげに語ったもの、それは、「あたりまえ」のうえにある礎石であった。

ところが。。。

2012/05/08

伊藤仁斎と牧師説教と霊性

(以下の記事は、2006年執筆原稿の一部を抜粋・修正したものである)

元禄六年(1693年)、すでに体裁を整えていたと考証されている伊藤仁斎の「童子問」という書籍のなかに、じつに感銘深い一節がある。

2012/04/26

献金を投資にまわす日本キリスト教

アノニマスも60。

この世の仕組みが分からない歳ではもはやないのだが、それぞれにあたい高い信徒の献金のいかほどかが、いつのまにやら投資資金に化けていたと聞けば、刻一刻の損益の淀みのうたかたとはなるべきものを。。。と思われ、気が重くなってくる。