「教える側」のことではなく、「教えられる側」のことを書くつもりであった。
。。のだが、「教える側」に関する異変が報道されていたため、冒頭その記事に一言触れてから本題に入りたい。
CT(Christian Today)4月7日(11時08分)付で配信された次の記事がそれである。「見出し」だけで、内容の深刻さが伝わってくる。
キリスト教学校教育同盟が調査、教員に心因的支障事例「ある」 小は35%、中高は58%とんでもない数値の高さ!である。
ハイデガーは福音書に神の子ならぬ現存在イエスを看破しました。使徒信条や教会牧師の礼拝説教から彼を解き放ってこそ、あらゆる痛苦懊悩に勝利した彼の人間洞察、信仰の存在論的機序が蘇ります。★キリスト者の脱 / 再構築風 - キリスト教的覚え書き。(2011-2014)
キリスト教学校教育同盟が調査、教員に心因的支障事例「ある」 小は35%、中高は58%とんでもない数値の高さ!である。
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| US Repository(上) 当該論文標題部分(下) |
::昨夜はちょっと無理をして牧師説教動画を一本、最後まで聴いてみた。直近九日の礼拝であった。リバイバル派っぽい。一時間弱。。。
::礼拝説教ヲソノママ「ネット」デ配信スレバ、大キナ効果ガアルカモ。。。
::愛する姉上様へ
::「杣道(そまみち)」とは、何処(いずこ)に行き当たるやらまこと心もとなくて森の中に自生する小道のことである。みずからの姿を草木に覆わせながら、森の精を放つだけでわたしたちをここかしこに誘いもし迷わせもする禁断の道。| キリスト教の歴史 posted by (C)カマスキー |
残念ながらこの島国のプロテスタンティズムの先導者たちは、「インカルチュレーション」という主題についてあまり多くを語らない。![]() |
| 著者An |
子供に甲冑を着せたかのような不恰好で大仰(おおぎょう)、かつどこかしらとぼけたような文章を専らとするわたしが言うのもなんだが。。。いくら元は異国の宗教だからとはいっても、日本語で日本語を侮辱するようなテキストがよくもまぁ公的文書(もんじょ)として認められたものだなあ、とあきれた、と言うよりも感心した。
ジェラール・グラネル最後の刊行テクスト「実体から遠く離れて、どこまで?」(カント以降の思考の存在論的ケノーシスについての試論)(1999年)に対する読解試論「全体の無なることの信」(2001年)の5においてジャン=リュック・ナンシーは、グラネルのテクストの最終部を引用している。何ということだ!反対に、神的な創造という発明物が、<存在>そのものの純然たる有限性のなかにある恐るべきものを前にしての、われわれの側の逃避にすぎないのだとすれば?(本テクストは『脱閉域 キリスト教の脱構築1』に全文収録 大西雅一郎訳)まさにグラネル渾身のエクリチュールであり、「語り(証し)」でもある。