出来たてホヤホヤの一冊となれば。。。この十月(今月)出版の『「福音書」解読 「復活」物語の言語学 』(溝田 悟士 講談社選書メチエ)か?例の如くアノニマスひさびさの超絶技「立ち読み」開始五分。ナヌゥゥゥ?コノ内容ドコカデ聞イタコトガ。。。とその場で著者履歴を確認。
ナ~ンダアノ子ジャン!とニンマリ。2010年3月、神戸松蔭女子学院大学でおこなわれた日本基督教学会での発表者のお一人であった。わたしもその会場にいたのだ。冷たい雨の降る一日だった。この若い研究者の書物に対するアマゾンユーザーのコメントは、たいへん厳しい。どなたが投稿されたか、およその見当はつく。
この三年とすこしの月日がありながら、古傷を癒しきれなかった著者にも失策はあるか。こういった主題の書物の出版は、時期を見誤ると満身創痍になることがある。じっくりと「売れない」著作で足元を固めてから、ポ~ンポ~ンと放り投げるかのようにして出版するのが賢明かもしれない。この分野で言えば、たとえば近年の大貫隆氏のように。。。
ま、とりあえず出版おめでとう。やがてあなたたちの時代がやってきますよ。
アノニマスは体調不良のため2012年から学会には不参加です。もう参加することもありません。
3 件のコメント:
ありがとうございます。その「著者」です(苦笑)。
さて、この評者、Specific Usage(特殊な用法:こちらは)とSpecific Reading(特定解釈:こちらは意味論に関係する)を混同されていますね。
まあ、この評者も言語学は完全な畑違いでしょうから大目に見ることにしますが、明らかな「間違い」ですね。もう少し注意深く「文章」を読むことをお勧めしたいところではあるんですがね。
まあ、書評なんてこんなもんでしょう。無反応よりまし、と言われました。とりあえずブログにおとりあげいただき、ありがとうございます。
わたしのような者のブログをよく発見されましたねぇ(笑)。
「無反応よりまし」。。。わたしもそう思いますよ。研究発表時のあなたのレジュメ、たいせつに保管しています。
幾度が聖書解釈ブームのようなものが、ご承知のとおり、日本にもありますが、「今」もうすでにあらたなブームのなかにいるのでは。。。と感じたりもします。
わたしは今、イタリア現代思想のあたりをふらふらさまよっています。
ますますのご活躍、期待しています。
伊太利亜思想でしたら、ウンベルト・エコの作品など本書と極めて関係がありますね。
記号論、と全体的に言えば「フワフワ」した思想のように思われますが、テクストの解釈が完全に自由なものではなく「なぜ」制限されるのか、という点について、ヒンティカなどの論理学者に範を求めているのは、エーコの論が「本当の意味での説得力」を持つと認識されるもとになっていると思います。
さて、例の書評、あれはある意味では大変よく出来上がっている「反論書評」ですね。読んで最初はムカムカ、あとから呆れて、その後はかめばかむほどおいしいと思うようになりました。
著者の紹介に始まり(これはありがたい限り)、あまり評者として触れられたくない決定的根拠(レストルフ効果)の部分もさらしていますし、言語学的な概念の使用で決定的なミスを「数箇所」行っています。
名詞の「属性」なんて言葉、ラムダ抽象をやるくらいのつもり、外延を決定する要件は何かを明示するつもりで使わないと本来はダメでしょうけど。
そして触れていない箇所(同一性言明など)は、評者が理解「したくなかった」箇所と言うことになります。
また、旧約聖書の問題となる箇所は具体的に示して欲しいものです。わたしは二カ所ほど、事前に問題となる箇所をマカバイ、トビト両書で指摘されたことがありますが、前者は内容的に全く関係ないし、後者はラルフス版をみて、いつごろのどの写本によってるのかと噴飯ものでしたけれど。
ところで、この評者は、私の「元」指導教官ではないと思います。私には、この評者には別の心当たりの人物があります。
この評者ももう少しカール・ポパーあたりを読んだほうがいいんじゃないかね。自分の議論の正当性を、「注解書」を読む「私見」にもとめちゃ、いかんでしょ。分析の根拠と手順、それがいかに他の科学でも保証できるかを明示するのが、この手の研究ですからね。
私の「元」指導教官が、こんな
「そう言語直感に基づいて解釈したいだろうが、そうしないのが自然な解釈だ」
のような支離滅裂、いや自己撞着な評を書くとは思えませんよ(笑)。
これは彼の名誉のために言っておきましょう(いくら「元」指導教官であったとしても)。
さて、面汚しはこれくらいで。私の本も、可能世界を導入する前に、論が終わってますから、こりゃダメですと自己反省してるんですから。
ぜひぜひお体、お大事になさって下さいませ。
コメントを投稿