問 傍線部A「悪霊はイエスを知っていた」とあるが、それはなぜか。その説明として最も適当なものを、次の1~5のうちから一つ選べ。
1 悪霊は、病人をいやすイエスをすでに目撃していたから。
2 悪霊は、イエスのうわさを天の国で耳にしていたから。
3 悪霊は、イエスのうわさを地の民から収集していたから。
4 神が、悪霊にも善悪を弁える知恵を授けておられたから。
5 他人のようだが、もとをただせば血を分けた兄弟だから。
★あなたの正解番号を投票してから「正解」を参照しましょう(見えない番号はスクロールバーで)。
いかがでしたか?
不正解であっても、少しも気になさる必要はありません。あなたは、あくまでもあなたです。これはちょっとした「大人のお遊び」ですから。。。
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出題の意図
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信仰心の「量」と「質」とを同時に判定するための出題です。┌──────────┐
あなたへの評価
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▼ 1を選択された方々
信仰心がまったくないか、あっても自覚しがたいほど極少です。きわめて理性的かつ現実的な人生を生きておられます。
▼ 2を選択された方々
微量ではありますが、信仰心を自覚されておられます。ですが現実の諸問題に対しては、理性的に対処され困難を乗り切ってこられています。
▼ 3を選択された方々
信仰心はあるかなきかの程度です。とても好奇心旺盛かつ社交的で、自分なりの人生を謳歌しておられます。
▼ 4を選択された方々
極めて信仰心が篤いか、ときに狂信的である場合も考えられます。信仰者にしか分からない喜びもありますが、信仰者だからこその苦悩を体験される場合もあります。時には、俗人に還ってみるのもよいかもしれません。
▼ 5を選択された方々
まったく信仰心がないか、堅固な信仰心を持っているかの両極端に分かれます。分析力があり洞察力にも恵まれていますが、同時に自己主張が強く孤立無援の闘いを強いられることもあります。
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今後の受験対策
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今後の受験対策
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悔しくて悔しくて眠れそうになーーーイッ!と感じられる方々へのわたしからのささやかなアドバイスを。。。ポイントは二つです。
●一つ目は、「なぜ」、という言葉の性格を知ることにあります。
「なぜ」という言葉は、そう問われているメッセージの中の「判断(述語)」や出来事の「結果」だけに、問う者の関心を強く強く誘い込み、そこに幽閉し、そして困惑させる、とても悪戯な問いです。設問の傍線部Aで申し上げますと、「(イエスを)知っていた」、の部分がその「判断」や「結果」にあたります。
この「なぜ」という言葉の悪戯は、実は、「正解」のありかをなんとしてでも隠し通そうとする一種の「偽装工作」なのです。「判断」や「結果」自体には、最初から「正解」などありません。にもかかわらず、まるでそこに「正解」があるかのように、「さもありなむ」、と思わせ、その呪縛状態から問う者がどのように脱出するかを悠然と観覧するサディスティックな言葉、それが「なぜ」なのです。
したがいまして「不正解」であった皆様の大半方は、このような言葉の偽装性に誑(たぶら)かされ困惑させられたぶん、「60秒」という制限時間を有効に消化することができないまま答案せざるをえなかった人たちであろう、という推測も、出題者であるわたくしめにはできるわけです。
●二つ目のポイントは、そうは言え、「なぜ」という言葉が以上のような「偽装性」を帯びた問いであるかぎり、同時にそこには必ず「出口」もあるということです。
その「出口」に相当しますのが、「なぜ」という問いにすっかり包囲されてしまった「判断・結果」が、もともと向いていた(下されていた)「方角」と「そこに待ち受けているもの」です。再度傍線部Aで申し上げますと、「(イエスを)知っていた」という「判断」は「悪霊」に向かって下されていたものです。
つまりは、その「悪霊」に通じる「出口」に皆様が気づかないよう、「なぜ」という問いが「悪霊」と皆様方との間に割り込んできて、皆様方の関心を「悪霊」にではなく、「判断」自体に誘導していたわけです。
ここに、「なぜ」という問いの「設問」たる所以(ゆえん)があります。二千四百年ほどまえの昔を生きた哲人アリストテレスに、「三段論法(大前提→小前提→結論)」という演繹的推論形式を直観させた問いでもあります。
さらに、傍線部Aを少し変形して考えてみましょう。
悪霊はイエスを知っていた → イエスを知っていた悪霊このように変形して「悪霊」を捉えますと、この「悪霊」さんは、いつかしらどこかしらで「イエス」と出会っていた、ということがよく分かります。逆から申し上げますと、「悪霊」と「イエス」との「出会い」、あるいはたまさかの「交差」、あるいは「接点」、とでも言うべき出来事が、この場面とは全く異なる時空間においてすでに原事実として先行していた、ということになります。これはまさに「イエス」も同様に、「悪霊」を知っていたことを意味します。
仮に、わたしのこの考え方(解釈)を否定される方がおられるとして、その場合、このマルコと思しき筆記者の記録は全くのフィクションであった、ということにもなります。
さて最大の問題は、この二人が共有した「出会い」の時空間の性格にあります。
「時空間」とはよく語られますが、どうも分かりづらい。。。そこでこういうふうにわたしは暫定的に捉えています。
ひとつは、
わたしたちがよく思い描く線状的(直線的)で平面的な時空間です。かのハイデガーは、このふたつの属性(attribute)を合わせて「水平化されてしまっている」時空間と表現しています。過去や現在や未来、という表現に象徴されるものです。もうひとつは、
わたしたち人間の意識活動などでは到底届かないほどの深部から、生ある限りこんこんとその意識の前景にまで湧き上がりつ、かつは戻りつする時空間です。しかもどれひとつ同じものがなく、垂直的でもあり放射状的でもある不気味なものです。強引に言い換えますと、わたしたちは、この直線的で平面的な時空間と垂直的で放射状的な時空間とが「接する」断崖に立ち続けて生きている、と表現することもできます。ハイデガーが頑なに主張しました「原事実性(Faktizität)」をわたしなりに表現しますと、そういうことになります。しかし普段わたしたちは誰も、そんな不気味を感じて生きてはいません。それは、時空間一切に立ち遅れるわたしたちの意識活動(consciousness activity)が絶えず安全弁となって、時空間相のこの不気味な一面を、そのつど確実にクラッシュしているからです。
卑近な例で考えてみましょう。
絵本のなかのライオンに喜びを示し親しんでいた幼児を、動物園の檻の中にいる実際のライオンに遭遇させますと、一目瞭然です。きっとその幼児は、瞼を閉じることも忘れ、ほどなく泣き叫び、ついにはその場から逃げだしもすることでしょう。それは、今述べました線状的で継起的な意識活動による安全弁が機能するよりもはやく、実際のライオンが幼児の垂直的な時空間にぴったり同期するようにして飛び込んできたからです。幼児の事後追認行為と対象との間に介在して幼児の安定的な恒常性を構成していた「時間差」が、まさになくなる瞬間です。その「時間差」の無化は、「死」を意味します。おどろおどろしい出来事です。その恐怖から逃れ恒常性を奪還せんとして、幼児は絶叫しているわけです。つまり幼児は、ライオン自体を怖れていたのではなく、自分の存在が無化することを、したがって本当の「自分」を垣間見て怖れていたわけです。
ノーベル賞作家川端康成『雪国』を翻訳したEdward George Seidenstickerが、あの有名な第一文冒頭に躓きましたのは、トンネルを抜けた直後の川端康成が一瞬間体験したこの不気味な時空間への畏怖を、助詞「と」一文字に託した氏の天才が、見えなかったからです。
いささか疲れてきましたので(苦笑)、そろそろ結論に入ります。
「悪霊」それ自体は、信じようが信じまいが、わたしたち人間の目には見えません。またその声を直接に聴くこともできません。「イエス」の「聖(霊)」それ自体も、同様です。
にもかかわらず、「悪霊はイエスを知っていた」、と描写されているかぎりは、それが写本であれ後世の加筆であれ、上述しましたように、両者には同じ時空間の共有体験(出会い・交差・接点)がすでにあったことへの了解が成熟していたことを意味します。見えない・聴こえないものが、「悪霊」にも「イエス」にも見えた・聴こえた、ということへの了解です。
幻覚幻聴、と言ってしまえば病的な表現になります。そのようにお考えになる方々も、信仰のあるなしに関わらず、識者方を含め多々おられはします。
しかしながらわたしは、もう少しドライに、病者であろうとなかろうと、凡そ人間の恒常的な存在機序というもの、わたしたちが確信しているほど堅固なものではない、と考えています。むしろ、いつ壊れてもおかしくない、とすら感じています。
十七、八年ほどの年月を、涙枯れるまで彷徨していたわたしの心魂を救いましたのは、宗教でもなく哲学でもなく、ただただ多くの無名の人々の、まさに規範文法をことごとく粉砕するが如き訥々たる「自己語り(体験談)」との出会いでした。それから、もう十五年が経ちます。お一人おひとり、自己を語られながら絶句されるそのわずかな間隙に、わたしは幾たび形の定まらぬ心模様を目撃し、その音なき言葉というものを聴き、枯れ果てたはずの涙を流したことでしょう。
「悪霊」とは、その人間存在の岩盤からの逃亡先を不本意にも絶えず違(たが)えてしまう(わたしたちの)生の実際を象徴する表現ではありますが、同時に「イエス」も、その同じ岩盤に投擲されながらも聖なる経路に導かれるようにして生還することができています。その稀有な可能性を現実態たらしめた「イエス」の原体験に、当時の信仰者たちは、この世ならぬ「力」を感じ、畏怖もし憧憬もして、ついには悔悟を通して「イエス」の同胞(はらから)となるべく決断を下したのでしょう。それが当時の人々にとっての「福音」であり「奇跡」の本義であったのではないでしょうか。
このアクチュアルな「イエス」を「神の子イエス」に代替してしまいますと、わたしの読み方は破綻します。しかし同時に、マルコ「福音書」も破綻します。するとあとには何が残るのでしょか?そう、ユダヤ民族とはおよそ縁のなかった第四世紀ローマ人御用学者たちの思惟の産物『使徒信条(the Credo)』です。
外国はいざ知らず、日本人キリスト教信徒たちがどんどん教会を離れていく不可思議の根株には、『使徒信条』を最優先する強引な聖書解釈への言葉にならぬ幻滅があります。
セクト化に歯止めがかからなくなったプロテスタントの牧師から神学者までの生活は、無名の信徒たちの献金によって支えられてきました。その数(教会数八千からの推測ですが)一万名程度。公務員の平均所得から仮に逆算したとしまして、年間五十億円が最低必要です。十年で五百億円になります。しかしその十年間に、すでに四十万人近くの人々が自殺しているわけです。
現代日本の教会は、いったい誰を救おうとしているのでしょうか。。。